桜守 18

「そうね、わたくし自身はそう思うわ。兄にしてみたら、ただでさえ価値のない末の妹が、余計に一族の価値を下げるって、面白くないでしょうけどね」

 重たい話題をあえて茶化すように、は朗らかに話す。弾む会話に、誰もがその重みに気付かないまま過ぎようとしたときだった。

。せっかく兄さんの束縛から逃れたんだ。ちゃんと、おまえさんが望む相手に、望まれて嫁に行くんだよ」

 井上の真剣で温かい言葉に、ははっと息を飲む。まさか、両親を亡くした今でも、そんな言葉をかけてくれる人がいるとは、思っていなかった。

「ええ……。ええ、そうね。いつか、そうしてお嫁に行きたいわ。……ありがとう、井上殿」

 には、そう言うのが精一杯だった。




 その日の屯所は、いつになく賑やかだった。

「いったい何事?」

 様子を見に来たは、廊下から広間の中を覗き込んでいた千鶴に声をかける。千鶴は振り向くと、にも中が見えるように戸口を譲りながら答えた。

「松本先生という幕府の偉いお医者様が、みなさんの健康診断をしているんです」

「ああ……」

 千鶴の説明を聞いて、は今日がその日だったかとうなずく。土方が1日潰れると渋い顔をしていたので、そういう日があることは覚えていたが、それが今日だったとは。

「健康診断って、どういうことをするの?」

 興味がわいて、千鶴が空けてくれたところからひょいと中を覗き込んだは、次の瞬間、大きな悲鳴を上げた。

「きゃああ――――――っ!!」

「どうした、!?」

 が拒絶するようにすぱん!と閉めた障子を、中から永倉や原田が開けて出てくる。その上半身裸の姿を見て、は余計に恐慌状態になる。

「きゃ―――! いや―――っ!」

「なにがあったんだ、!?」

 己が身を守ろうとするようにうずくまり、背を向けるに、永倉は寄っていく。その気配を感じて、は腕で顔を覆い、余計に叫んだ。

「いや―――!!」

「新八、左之。とりあえず服を着ろ」

 きっちりと着物を着直した斎藤の冷ややかな声で、ようやく自分たちの格好との反応のつながりが理解できた二人である。

「なんだよ、そういうことか。……そんな反応されると照れるじゃねえか。俺の筋肉に惚れちまったか?」

「ちょっとちょっと、は『お姫様』だぜ、新八っつぁん。下帯ひとつで歩き回っても平気な新八っつぁんと一緒にすんなよな」

 まんざらでもない調子で茶化す永倉に、急いで着物に袖を通しながら、藤堂が呆れる。同じようにため息を吐いた原田が、藤堂と二人がかりで永倉を羽交い絞めにして広間の中へ引きずり戻した。

「あ、すみません。わたし、ちょっと……」

 広間から松本が出てきたのを見つけて、千鶴はその姿を追いかけていく。ほかに人がいなくなると、場が静かになった分、落ち着いた雰囲気が生まれた。

「すまなかったな、。大丈夫か?」

 斎藤になだめられて、が恐る恐る顔を上げる。耳まで真っ赤になったの目には涙が滲んでいた。

「……そんなに裸の新八が嫌だったのか?」

 まさか泣いているとまでは思っていなかった斎藤が、驚いて思わず尋ねると、はふるふるっと首を振った。

「違うわ。嫌だったんじゃないの。いえ……嫌は嫌だったんだけど、そうじゃなくて」

「そうではなく?」

「びっくりしてしまって。男の人が裸でいるところを、見たことがなかったから。それで、恥ずかしくて、なにがなんだかわからなくなってしまって」

「そうか。では、驚いて当然だったな」

 の説明を静かに聞いた斎藤は、薄く微笑んでうなずいた。そして、の腕を掴んで引き起こすと、

「そういうことなら、あんたは副長室に戻っていろ。健康診断はまだ続く」

 そう言って、を促した。はほっとしたように肩から力を抜くと、斎藤に会釈してその場を離れた。

 副長室に戻ると、土方は不在にしていた。健康診断に行ったのか、それともほかの用事か。が理由を知らない不在もよくあることだから、別に不思議に思うことでもない。

 土方が戻ってきて指示をくれるまで、差し当たってできることを、と思い、が当たり障りのない範囲でちらかった書類を片付けていると、井上が呼びに来た。

「すまないね。急に、屯所の大掃除をすることになったんだよ」

「大丈夫よ。土方殿もお留守で、ちょうど手が空いていたわ」

「そうかい。そう言ってくれると、こっちも頼みやすいんだが……」

 井上に連れて行かれたのは、敷きっぱなしの布団があったり、着用済みの肌着が脱ぎ散らかされたりしている隊士の部屋だった。

「………………………………………」

 あまりの惨状に絶句しているに、ここの大掃除をしなくてはならないと井上が苦笑する。

「大掃除と言っても、どこから手をつけたらいいかもわからなくて、手当たり次第に始めているんだがね」

 言っている傍から、隊士たちが行李にまるめた汚れ物を放り込んでいる。畳の目を無視した箒掛け、びちゃびちゃの雑巾での雑巾掛け、箒部隊と連携の取れていないはたき掛け。その足元には、夜勤明けなのか体調不良なのか、寝転がっている隊士もいる。

「なんてことなの…っ!」

 思わず叫んだは、寝ている隊士は別の部屋に移すように、隊士に命じる。

「お布団は全部お外に干して!! 畳も干してちょうだい! 洗濯物はこっちの籠に入れて!! 一度脱いだものは全部よ! お掃除はお部屋が空になってから!!」

 珍しく強気に矢継ぎ早の指示を出すの剣幕に圧されて、井上以下隊士たちは言われるままにあたふたと動き回る。

 非番だからとだらしのない恰好をしている者も多かったが、流石のも、きちんと服を着ていないだとか、半裸の男が目の前にいるだとか、認識している余裕はなかった。とにかくこの混沌とした部屋を片付け、掃除しなくてはならない。それがいったい、あといくつあるのやら。

「お部屋が一つきれいになったら、寝ている人たちは全員そこに集めて、他のお部屋を掃除するわ。急がないと、お掃除が終わる前に日が暮れちゃうわよ!!」

 文句たらたらだった隊士たちは、『屯所の華』に叱咤されて、渋々ながらも動き始める。

 やがて千鶴や健康診断を終えた永倉たちも合流し、屯所は天井から床まで、徹底的に掃除されたのだった。




 慌ただしかった健康診断と大掃除の翌日。大掃除の成果を確認しに来た松本は、とても満足そうにうなずいた。

 居住空間の状態を気にしない者たちは掃除の労苦を嫌がったが、やはり片付いている方がいいと言う者もいて、毎日掃除を行うことに決まる。千鶴は嬉しそうに手伝いを申し出て、自分の役目が増えたことを喜んだ。

 だが。

「ああっと、はやらなくていいぞ」

 原田にそう言われて、自分も手伝う気でいたは、えっと驚いた。目を瞬くに、近藤が笑ってうなずく。

は、屯所の掃除をしている時間を取るのは難しいだろう? トシの仕事は次々と入ってきているからな。手伝っているも、休む暇もないだろう」

「そんなことは……。わたくしではお手伝いできないことの方が多いですから、時間の融通がつかないほどでは……」

「いや、。そこは肯定しておけ。でないと、副長の心労が増すばかりだ」

「土方殿の? どうして?」

 斎藤に言われて、はわけがわからずに首を傾げる。隣で沖田が肩をすくめて、

「土方さんは過保護だから」

「沖田殿、わたくしは風邪を引いていないわ」

「いや……、そっちじゃなくてよ。、昨日大絶叫しただろ」

「あ……。昨日はごめんなさい、永倉殿」

 ため息を吐きながら永倉に指摘され、は気まずくうつむいた。永倉がなにか危害を加えようとしたわけでもないのに、大騒ぎしてしまったことが、いまになって恥ずかしい。もちろん、見慣れていない男の裸が平気になったわけでは、まったくないけれど。

「新選組って結局男所帯だし、育ちがいい奴なんていないからさ、屯所の中を歩き回ったら、昨日みたいな状況に出くわすことも、増えると思うぜ。その度にが叫んでみろって。土方さん、絶対仕事どころじゃなくなるから」

「そんな……大丈夫よ、平助殿」

「大丈夫なもんか。は平隊士の部屋にほとんど行くことがないから、そう思うだけだって。これから夏だし、夜勤明けで下帯ひとつで寝てる奴とか、平隊士の部屋は当たり前に転がってるんだからな」

 平助の言葉に、その場の幹部たちが全員うんうんとうなずく。下帯ひとつの男たちがごろごろと寝転がっている情景を想像しきれず、は困惑しきって唇を震わせた。

 そのの肩に、土方がぽんと手を乗せる。

「今の平助の言葉に言い返せねえんじゃ、お前の負けだ。大人しく、俺の部屋で書状の清書をしてろ」

「土方殿」

 そして、は屯所の掃除当番から外されてしまったのだった。




 夏が近くなると、の仕事は増える。副長室で書類の整理や墨の補充をする他に、土方が仕事をしやすいよう、冷たく絞った手拭いを用意したり、団扇で扇いだりすることも、の務めだ。

 この日も、夕食後、山崎からの報告書を読む土方を、は手にした団扇で扇いでいた。

 土方を扇ぐのは、仕事の優先順位としては比較的低い。墨や紙の補充、草案の清書などのほうが、よほど重要だ。だが、報告書や帳簿に土方が目を通すときは、だいたいそれらの仕事も一段落していることが多いので、の手も空く。そして土方は団扇の風で涼みながら、書面を読むことに集中できるというわけだ。

 開け放った窓の向こうから、虫が鳴く声がする。日勤だった隊士たちはもう眠りにつき、夜勤の隊士たちは少し前に巡察に出て行った。しんと静まり返った副長室で、行燈の灯を頼りに報告書を読む土方と二人きりだ。

 土方は行燈の近くでに背を向け、ひたすらに文字を追っている。はその背中を見つめながら、土方の邪魔にならないよう、緩くそよ風を送り続ける。

 一定の速度で同じ動きを続けているうち、単調な動作がを微睡に誘い始めた。行燈の灯は土方の背に遮られて、程よく翳っている。土方は無言のまま、を振り返ることもない。とろりとした睡魔は、一日働いたの意識を優しく包み込んだ。

 やがて、ついにの手からことりと団扇が落ちる。そしては吸い込まれるように眠ってしまった。



「………?」

 風が止んだことに土方が気付いたのは、報告書を読み終え、取るべき対応の案をまとめた頃だった。

 背後で団扇を動かしていたはずのを振り返ると、そこには畳に崩れ落ちてすっかり寝入ってしまっているの姿があった。髪を畳に散らし、くったりと身を横たえている姿はとても無防備で、土方は思わず微笑む。

 窓の外に目を向けると、月はもう天頂を通り過ぎていた。報告書を読み始めてから、だいぶ時間が経っている。が眠ってどのくらい過ぎたかもわからないほど報告書に没頭していた自分に苦笑して、土方は窓を閉めた。

 布団を敷き、起こさないようにを抱き上げると、そこに寝かせる。帯を緩めてやらないと寝苦しいだろうと思ったが、いくらなんでもそこまではできないと思い留まり、土方自身は寝間着に着替えた。そして、行燈を消すとの隣に、背を向けて横になる。

 明日も多忙を極めるとわかっていれば、睡眠を欠くわけにいかない。戦時でもないのに、睡眠不足で働く必要はない。

 女と一つの布団で寝るくらい、土方には慣れたものだ。眠っている女に手を出す趣味もないし、そこまで飢えてもいない。朝、が目を覚ます前に起きてしまえばいいと決めて、土方も眠りについた。



 幸せな夢を見ていた。

 幼い頃に亡くなったはずの母と、少し前に亡くなったはずの父が元気に笑っていて、のことを悪く言う兄弟は一人もいなかった。

 明るい陽射しの中、両親と一緒に散歩をしているの肩に、ふと置かれる手がある。尋ねるまでもなく、夫の手だと確信して、は手の主を振り返る。

 逆光で顔がわからない夫は、に優しく微笑みかけてくれた。

 決して現実にならない、幸せな夢―――――


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