桜守 19

 しゅる。

 すぐ近くで衣擦れの音がする。動く人の気配に、は目を覚ました。

 いつの間に眠っていたのか、記憶がない。布団に入っているから、自室で寝たように思うが、なら、この音や人の気配はなんだろう? そう思って改めて周囲を窺うと、布団が自分のものではないことに気付いた。漂っているのは、土方の匂いだ。

 どういうことだ? いったいなにがあったのだろう? そう思って、身を起こす。すると、衣擦れの音が止まった。

 顔を上げると、土方が驚いた顔でこちらを凝視していた。着替え途中だったのだろう。肌着に袖を通す体勢のまま、動きが止まっている。素肌の胸板を目にして、はかぁぁぁっと頬がほてるのを感じた。

「き…っ」

 ぱふっ!

 叫ぼうとした口を、我に返った土方の手が慌てて塞ぐ。裸の胸が至近距離に見えて、は口をふさがれたままじたばたともがく。

「堪えろ。いま叫ばれたら、どんな騒ぎになるか、わかりやしねえ」

「………………………うぐ」

 切羽詰った土方の声に命じられて、は無理やり声を抑え込み、うなずく。すると、土方は安堵のため息を吐きながら手を離した。

「ふぁ……っ」

 大きく息を吐くに背を向けて、手際よく身支度を整えながら、土方はぼそりと尋ねる。

「ちゃんと眠れたか?」

「あ……はい」

「なら、よかった」

「すみません。わたくし、もしかして……」

 土方の部屋で寝てしまったのだと理解したは、土方から視線をそらしながら布団から出る。

「構わねえよ。俺こそ、疲れてるのに気付いてやれなくて、すまなかった」

「……お気遣い、ありがとうございます」

 土方の気遣いを複雑な気持ちで聞きながら、は手早く着物や髪の乱れを整える。気遣ってくれることは嬉しかったが、言外にそこまでの働きを期待してはいないと言っているようにも感じて、は言葉を続けられずにうつむいた。

「なあ、

「はい?」

「お前、無理してねえか?」

 思いがけない、咎めるかのような問いかけに、ははっとして顔を上げる。心配そうな、だが真剣な眼差しで、土方はを見ていた。

「新八の裸を見て悲鳴あげた話は、原田や斎藤から聞いてる。いまさらの話だが、そんな、男の裸見ただけで悲鳴あげるような箱入り娘が、こんな野郎ばっかりの屯所で暮らして、戦に同行して、剣を振るうだなんて、やっぱり無理があるだろ。護身ができるって話は、結局嘘じゃなかったけどよ。護身と人斬りは別物だぜ」

 土方が言うことはもっともだった。いくらが「嘘じゃない、剣を振れる」と言っても、いかにも世間知らずな普段の様子から見たら、とても信用することはできないだろう。

 どう答えようか迷ったは、しかし、嘘はつかないと決めて口を開いた。

「無理は……していると思います」

「やっぱりな」

「でも、無理できることだと思って、しています」

「なんだと?」

 土方の指摘を認めるに納得気にうなずいた土方は、続いた言葉に驚く。

「てめえ、わかってて無理してやがったのか」

「でも、無理をすればできることなら、無理をしてでもすることは、当たり前のことじゃありませんか。それは、わたくしが女だからとか、世間知らずに育ったからとかは、関係ありません。だって、新選組の皆さんも、同じでしょう?」

「……っ」

 思わず絶句した土方に、はにこりと笑いかける。

「無理をしてもできない。自分がやったらかえって迷惑がかかる。そう思ったら、意地を張らずにそう言います。ですから、どうぞご心配なさらないでください」

「……てめえ、そうは言っても」

「土方さん、いるか!? がいねえんだけどよ……」

 ぱぁん!といい音をさせて障子を開け、永倉が入ってくる。よほど慌てているのか、土方が返事をする間もなかった。

 障子を開けた永倉は、思いがけない室内の様子に、たたらを踏んで二の句を失った。

 室内には、見つめ合う土方と。足元には、延べられたままの布団。時刻は早朝。が朝食の支度にも現れない、部屋にもいない、というので、屯所内は実はちょっとした騒ぎになっていたのだが、まさかここにいるばかりか、意味ありげな雰囲気になっていたとは。

 唐突な永倉の登場に、土方とは、一瞬きょとんとして永倉を眺める。永倉は永倉で、困惑して硬直する。

「あ、わ、悪い。邪魔したな!」

「待て、新八!」

 気を取り直した永倉が驚きながらも意味ありげに笑い、立ち去ろうとする。土方はとっさにその襟首を掴んで引きとめた。

「いいか、これはそういうんじゃねえ。妙な気のまわし方してんじゃねえぞ」

「そういうのって、どういうのだよ。あながち間違いでもねえだろ」

「違…っ、嫌だ、そんなのじゃないわ、永倉殿!」

 にやにやとした永倉の表情で、誤解されていることにやっと気づいたも、慌てて釈明を始める。

「いいって、誰にも言わねえからよ。さすがの俺も、そこまで野暮じゃねえぞ」

 土方とが釈明すればするほど、永倉のにやにや笑いは深まっていき、釈明は逆効果だと土方が悟るころには、永倉の中で誤解は確定事実になっていた。




 永倉は誰にも言わないと言ったが、が土方の部屋に泊まったことは、夕食までには幹部全員に知れ渡っていた。同時に、それは純粋に眠ってしまったを寝かせただけであって、深い意味はまったくないことを、説明しなくても全員わかっていた。

 斎藤は「副長が自ら屯所の風紀を乱すことをするなど、あるはずがない」とその理由を説明したが、実際には、永倉の誤解に泣きそうな顔でうろたえるの様子で充分だったというのが真相だ。当の永倉も、昼を過ぎる頃には、からかうネタにもならないと理解していた。

 取り立てて変化のない日常を繰り返す中、幕府上層部では第二次長州征伐の計画が具体的になり、新選組からも近藤が率いる一隊が参戦することになった。留守を預かる土方の仕事が増え、もその補佐に追われているうちに、年を越し、春が過ぎていた。

 そして、夏に第十四代将軍徳川家茂が死去し、次代の将軍が決まらないという先の見えない情勢の中で、秋に入ってすぐに三条制札事件と呼ばれる事件が起きたのだった。




 犯人を捕まえた報奨金で、皆で島原に呑みに行こうという誘いに、深く考えずに乗ってしまったのは失敗だったと、は浮かないため息をついた。

 三条制札事件は、張り込みをしていた原田隊が札を引き抜こうとした土佐藩士を捕縛し、一件落着となった。新選組の包囲網を破って逃走した者も少なからずいたが、犯人を捕らえた当日の出動隊士には、会津藩からまとまった金額の報奨金が出たのだった。

 隊務を終えた後、島原の角屋に集合した試衛館派は、原田のおごりということで遠慮も会釈もなく料理を頼み、酒を飲み、芸妓を呼んでの大宴会を始めた。

 酒が苦手なは、もっぱら豪勢な料理の膳をつついていたが、どんちゃん騒ぎで盛り上がる周囲にはなじめないでいた。

 千鶴が一緒に来ていたら、千鶴とおしゃべりしながら料理を楽しめただろう。だが、千鶴は風間に狙われているため、夜間はたとえ誰かと一緒であっても外出しないようにと決められている。はひとりでぽつんと座敷の隅に座っていた。

 にとっては、豪勢な料理は実家の稲荷社で神事があるたびに催される宴で食べていたから、珍しいものでもありがたいものでもない。どちらかというと、居並ぶ兄と姉の冷たい視線を浴びて、居場所のなさを痛感しながら座敷の隅でひっそりと食べるものだったから、いい思い出がないもののひとつだ。今日の料理自体は美味しいし、一緒にいるのは、をどうでもいい一族の末席としか思っていない兄姉たちではなく、新選組でを受け入れてくれている人たちだ。だが、状況は実家での宴とあまり違わなかった。いや、もしかしたら、もっと悪いかもしれない。なぜなら……

「新選組の土方はんって、鬼のような方と思うてましたけど、なんや、役者みたいなええ男どすなぁ」

 座敷の上座に近い場所で、土方の隣に座って土方の盃に酒を注いでいるのは、君菊と名乗った花魁だった。きらびやかに着飾り、入念に化粧を施した、妖艶な美女だ。

「……よく言われる」

 応える土方のあしらいも慣れたもので、まんざらでもない様子だ。君菊が注いだ酒を運ぶ口元は、緩く笑っていた。

 土方に美女が侍るという光景は初めて見たが、非の打ちどころのない錦絵のようだ。自分ではああはなれないのだと突きつけられているみたいで、は視線を反らすことができない。

 に、君菊と張り合おうという気概があれば、君菊の反対隣りから、土方に酌をしたかもしれない。だが、自分が取るに足りない存在だと刷り込まれて育ったには、そんな気はさらさらない。ただ、どうしたらいいかわからないほど悲しいだけだった。

「にしても、立て札を守っただけでこんだけの報奨金が出るんなら、全員捕まえてたら、どれだけの大金が貰えてたんだろうな」

 ふいに聞こえてきた永倉の言葉に、は我に返って目を伏せた。じっと人を凝視するなど、とんでもない無作法だ。幸い、土方はが見つめていたことに気付いていないようだった。不躾を見つけられずに済んでほっとしながら、は話しはじめた永倉に顔を向けた。

「なあ左之、どうして逃がしちまったんだ? 八人くらいなら、なんとかできねえ数じゃねえだろ」

「あっ、オレも、それが不思議だったんだ!」

 楽しそうに酒を飲んでいた藤堂も、いちばんの関心事が話題と気付いて、話の輪に入ってきた。

「敵を絶対に逃がさないよう、包囲網を敷いてたんだろ? 一旦捕まえた奴もいたらしいじゃん? 本当はなにがあったんだよ?」

「…………」

 二人から詰め寄られた原田は、むっつりと黙って、しばらく考え込んでいたが、やがて、おもむろに視線をに向け、重たい口を開いた。

、おまえ、あの晩、千鶴がどこかに出かけたかどうか、知ってるか?」

「えっ……?」

 唐突な質問に、は目を瞬くと、小首を傾げて答える。

「千鶴ちゃんはどこにも出かけてないわ。どうして?」

「本当に、あの夜は、外出してねえんだな?」

 の問いかけを無視して、原田は真剣な低い声でもう一度質問する。は戸惑いながらもしっかりとうなずいた。

「ええ。隣の部屋だから、もし千鶴ちゃんが出かけたなら、気配でわかったわ」

 の答えを聞いた原田は、難しい顔で再び黙り込んだ。思いがけない原田の深刻そうな様子に、驚いたのは永倉だ。

「おい、どうしたんだ?」

 頑なに「暗くて見えなかった」と言い張る原田も、酒が入れば、愚痴混じりの失敗談をするとでも思っていたのだろう。予想してもいなかった原田の反応に、思わず声をかける。原田は永倉の声に答えるでもなく、小さくつぶやいた。

「……見間違いであってくれりゃいいんだが、あの晩は月も出てなくて暗かったからなぁ。だけどよ、あれだけ近くで見たんだ。絶対に間違うはずがねえ……」

「原田殿?」

 困惑したが訊ねると、原田は意を決したように顔を上げた。

「いや、実はだな……。立て札を引っこ抜こうとした土佐藩士を取り囲んだ時、千鶴によく似た顔の女に邪魔されたせいで、包囲網が崩れちまったんだ」

「えっ……?」

 思いがけない話に、全員が言葉を失った。原田がいい加減なことを言うはずがないことは、この場の全員がわかっている。だが、千鶴のはずがない。それを、どう理解したらいいのか。

 静まりかえった場をなんとかしようとしたのは、この話題を振った永倉だった。

「ええと……まあ、そんなときもある! とりあえず今日は左之のおごりだ! 朝まで飲もうぜ!」

「さ、賛成! 今日は限界に挑戦してやるぜ!」

 場を取り成そうとする永倉に藤堂が手伝って、再びにぎやかさが戻ってくる。はいま聞いた話が気になって仕方なかったが、考え込む時間すら与えられずに、永倉に絡まれた。

「よし、も飲め!」

「えっ、ちょ……わたくし、お酒は……」

 が断る隙もなく、持たされた盃に酒がなみなみと注がれる。

「左之のおごりなんだから、遠慮するなよ!」

 どうしようか困って、ちらりと視線を土方に向けると、相変わらず隣に侍った君菊が、土方に酒や料理を勧めながら談笑していた。土方はの方を見るでもなく、勧められた料理に箸を伸ばしている。のことなど、すこしも気にしていないようだった。

 は泣きたい気持ちを振り払うように、永倉が注いだ酒をえいっと一気に飲み干した。

「なんだよ、、酒飲めるんじゃん!」

「いい飲みっぷりだな、!」

 意外なの行動に、藤堂と永倉が歓声を上げる。は空になった盃を永倉に向かって差し出した。


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