「いただきます!」
「おう! じゃんじゃん飲め飲め!」
が持つ盃に、永倉は再びたっぷりと酒を注ぐ。は二杯目もひと息に干した。その思い切った飲み方に、永倉も藤堂もやんやの喝采を浴びせ、原田や沖田まで銚子を持って寄ってきた。
の盃には途切れることなく酒が注がれ、は注がれるままに酒を飲む。周囲には、空になった銚子が何本も転がり始めた。
「副長。そろそろ、屯所に戻ろうかと思うのですが」
「そうか、もうそんな頃合いだな」
永倉たちと離れたところで静かに酒を飲んでいた斎藤が、土方に声をかけたときだった。
どさりと倒れる音がして、にわかに座敷が騒がしくなる。何事かと振り返ると、酔っぱらった永倉たちに囲まれて、が倒れていた。
「?」
「おい、どうした」
斎藤が眉をひそめ、土方は立ち上がって近寄る。の傍らに膝をついてしゃがむと、は真っ赤な顔をして眠っていた。
「悪ぃ、土方さん。調子に乗って、飲ませすぎたみてえだ」
少しも悪びれていない口調で永倉が謝る。その横では、こちらはちゃんとすまなさそうな顔をした原田が、状況を説明した。
「最初に新八が酒を勧めたのは、その場の勢いだったみてえなんだけどよ。が泣きそうな顔して一気に飲み干すもんだから、なんか放っとけなくなっちまって……。で、気がまぎれるんならと思って、みんなで飲ませてたら、急に倒れてな」
「泣きそうな顔?」
「まあ、理由は想像つくんだけどな。俺からは言えねえ」
原田の話を聞き終えた土方は、の腕を取った。
「連れて帰る。背負うから手伝ってくれ」
「御意」
「了解」
意識のない身体を抱え上げて、斎藤と原田が土方にを背負わせる。
いつも土方とばかり過ごしているは、土方といると仕事のことが頭から消えないのではないか。そう思ったから、たまには息抜きをさせてやりたくて離れて座っていたのだが、こんなことなら、隣に座らせていたらよかった。
そう思っても、後の祭りだ。意識をなくすほど酒を飲んでは、目を覚ました後もしばらく辛いだろう。酒が苦手なが、二日酔いに慣れているとも思えない。土方は翌朝必要な二日酔いの手当てを考えながら、屯所までの道を歩いた。
酔い潰れたが屯所の自室で目を覚ましたのは、翌日の昼過ぎのことだった。
割れるように痛む頭と、中途半端に強い吐き気に、横になっていると辛いが、起き上がる力もない。
「目が覚めましたか?」
すぐ横で声がして、頭に響かないようそっと振り返ると、千鶴が枕元に座っていた。付き添ってくれていたのだとすぐにわかって、はうなずく。声は思うように出せなかった。
「さん、昨夜お酒を飲みすぎて、倒れたそうですよ。覚えていますか?」
「……なんとなく」
かすれたみっともない声だったが、今度は声を出せた。こめかみの奥がぐわんぐわんと揺れるように痛み、気持ち悪くてしかたない。
「お酒、苦手だっておっしゃっていましたよね。どうしてこんなになるまで飲んだんですか? 辛いでしょう?」
「翌日がこんなに辛いって知っていたら、飲まなかったと思うわ……」
この一言は、すこし正確ではない。確かに、二日酔いの辛さを知らずに酒を飲んだし、この辛さを知っていたら、酔い潰れるまで飲もうとは思わない。けれど、昨日は、土方と君菊を見なくて済むなら、なんでもよかったのだ。酔っぱらって何もわからなくなってしまえば、見ないで済むし、忘れてしまえるとさえ期待して、永倉に注がれた酒を飲んだ。
その思惑は見事に外れて、ただ二日酔いの辛さだけが、予想と同じだけれど。
の言うことを信じたのか、二日酔いになった人間の介抱に慣れているのか、千鶴はそれ以上は追及せずに、傍らのお椀を差し出した。
「もしなにか食べられそうなら、これを食べてください。シジミのお味噌汁です。朝食の残りなので、冷めちゃいましたけど……。2杯も食べれば、なにもしないよりは早く楽になるはずです」
「ありがとう」
正直、胃がむかむかして吐き気があったけれど、喉が渇いてもいたので、はのそりと起き上がると、千鶴が用意してくれたお椀と箸を手に取って口をつけた。味噌の塩分が思いのほか飲みやすく、案外辛くもなく食べられる。
「酔っぱらったさんって、初めて見ました」
すぐに空になったお椀におかわりをよそいながら、千鶴が口を開く。先ほどまでの心配そうな口調と変わって、笑い混じりの楽しそうな様子で、
「酔っぱらうと、耳と尻尾が出るんですね。すごく可愛いです」
「えっ!?」
「……気付いてなかったんですか? いまもそのままですよ、耳と尻尾」
言われて背後を振り返ると、確かに尻尾が4本広がっていた。体調が現れているのか、毛並みが少し乱れている。お椀を置いて顔の横に手をやると、ふわふわした耳の和毛が指をくすぐった。
「あの……、いつからこうなっていたか、千鶴ちゃん、知っているかしら?」
「今朝、土方さんに呼ばれて、わたしがこの部屋に来たときには、もうなっていましたよ」
おそるおそる訊ねたに、あっけらかんと千鶴が答える。
とすると、土方が耳付き尻尾付きの自分を連れ戻してくれたということか。の背筋を、さぁっと血の気が引いていく。
なんという迷惑をかけてしまったのだろう。それでなくとも、見た目も分も、ただでさえ不釣り合いだというのに、やるに事欠いて気分よく酒を飲む土方の邪魔をしただなんて。
「……さん?」
急に黙り込んでしまったの様子を窺うように、千鶴がためらいがちに声をかける。その声もの耳には入っていなかった。
どうしよう。どうしよう。みっともなく酔っぱらって、きっとすごく見苦しい姿で、変化の術さえ保てなかったなんて。
「さん? 大丈夫ですか? 気持ち悪いですか?」
土方は、たぶん叱らない。土方は、叱ることすらせずに、相手にしなくなる。は声をかけられなくなるし、仕事も手伝わせてもらえなくなるし、振り返って視線を向けてくれることもなくなる。見てくれることがあるなら、そのときはきっと冷たく蔑んだ目をしている。叱られるならまだしも、嫌われるなんて耐えられない。
ぺしょりと耳が項垂れ、の目にうりゅぅと涙がこみ上げる。
わかっている。悪いのは、程度も弁えずに酒を飲んだ自分だ。理由なんて関係ない。嫌われるには、迷惑をかけた事実だけで充分だ。言い訳をする余地さえないことがこんなに悲しいだなんて、こんな風に知りたくはなかった。
でも、受け入れなくてはならない。原因を作ったのは、自分なのだから。
腕と膝で顔を隠し、嗚咽を漏らし始めたに、千鶴は経緯が呑み込めずにうろたえた。千鶴の経験上、二日酔いで嘔吐する患者は数多くいたけれど、嗚咽する患者には出会ったことがない。
「さん……」
どうしたらいいのかとうろたえているところに、すっと障子が開いて、人影が差した。見上げると、土方がの様子を見て驚いているところだった。
「土方さん」
「どういうことだ? どうしてが泣いている?」
「えっと……わたしにも、それは……」
説明できなくて千鶴が言いよどむと、土方は枕元に腰を下ろして、に手を伸ばした。
「どうした、?」
その瞬間、びくりと怯えるようにの肩が動く。そして、なにかから身を守るように丸くなった腕の隙間から、窺うような視線が土方に向けられた。
「土方殿」
喉にはりつくような声は、かろうじて土方の耳に届く程度の、小さな声で。
痛々しいほどに怯える姿に、土方の庇護欲が刺激される。
「どうした? なにか、怖いことでもあったのか?」
もしかして鬼がを脅かしたのかと想像しながら、土方はなだめるようにの耳に手を伸ばす。途端に、の耳がぴるんと動き、ぺったりと後ろに寝てしまった。見ていてわかるほどに、耳が震えている。
「まだ具合が悪いのか? 懲りたんなら、もう新八に乗せられたりするんじゃねえぞ」
の怯えように内心で驚きながら、なにもないような口調で土方はぽんぽんとの頭を叩いた。
今度はが驚く番だった。絶対に、呆れられて、見放されていると思ったのに。
恐る恐る腕を解き、顔を上げたは、窺うように問う。
「あの……、怒ってないのですか?」
「怒る? 俺がか?」
の質問の意図がわからず、土方は怪訝そうにを見る。どうやら、怒っているのではないようだと、は質問の言葉を変えてみる。
「呆れていませんか?」
「……ああ、お前にってことか? 酔い潰れたくらいで、怒ったり呆れたりするかよ。新八や平助なんざ、潰れるより性質が悪い飲み方するぞ」
が何を聞きたいのかに気付いた土方はそう言うと、の頭を耳ごとぐしゃぐしゃと撫でた。
「まあ、俺としちゃ、屯所に戻るまで耳も尻尾も出ねえなら、どこで酔っぱらったってかまわねえさ。新八に乗せられるなとは言ったが、自分に合った飲み方を覚えるには、こんな経験も必要だ。そんなしょっちゅうやられちゃたまらねえがな」
土方に嫌われるとばかり思い込んでいたは、予想してもいなかった土方の様子に、面食らって言葉も出ない。だが、土方は無言のを気にする様子もなく立ち上がった。
「まだしばらく辛いだろうから、今日は寝てていいぜ。……千鶴、付き添ってやっててくれ」
「はい、土方さん」
うなずく千鶴に「頼んだぜ」と言い置いて、土方は部屋を出て行った。ほっとしたは、途端に再び襲ってきた頭痛に呻いて、布団に丸くなる。
「よかったですね、さん」
土方が部屋に入ってきてからのの様子を見ていて、が泣き出した理由がわかった千鶴は、そう言って丸くなったに布団をかける。土方が怒っていないなら、が泣く理由ももうないはずだ。 すると、応えるようにはゆるゆると首を振った。
「もう島原には行かないわ」
「さん」
二日酔いの辛さと、土方に嫌われるかもしれなかった不安からの言葉だろうと、千鶴は見守るような微笑を浮かべて、の言葉を聞いた。
「絶対に行かないわ……」
この先、女のが島原に行くことがあるとするなら、土方に連れられていく時だ。そうしたらかならず、は土方に君菊が侍る光景を見ることになる。
でも、島原に行きさえしなければ、たとえ土方が君菊を侍らそうと、君菊と床入りしようと、が知ることはない。知らなければ、きっと、こんな思いをせずにいられる。
今回のように酒を浴びるように飲んで、目を逸らしても……一度見てしまった記憶は、酔っても消えないとわかったから。
割れるような頭痛の中で、本当に辛いのは心の痛みのほうだった。
二日酔い騒動をきっかけに、はふさぎがちになった。
話しかけると笑顔で返事をするし、仕事の能率が下がっているわけでもない。だが、独りでいる時には、物寂しげな表情でぼぅっとしていたり、無表情で作業していたりする姿ばかりが見られた。
なによりもわかりやすかったのは食事で、あんなに好きだった油揚げ料理を作らなくなった。食欲も落ちているのか、無理やり食べている風にも見える。そんなを励まそうと思ったのか、揚げ料理は千鶴がよく作るようになり、新選組の食卓から揚げが消えることはなかったけれども。
井上や千鶴が心配して「大丈夫か?」と聞くと、は朗らかに「大丈夫よ、どうして?」と笑う。の様子がおかしいことに気付いた幹部たちが何度も声をかけているうちに、心配されることを避けて、は人前では微笑みを絶やさないようになってしまった。それが余計に、幹部たちを心配させていた。
師走に入り、冷え込む勝手場でが夕食の支度を手伝っていると、巡察に同行して父を捜しに行っていた千鶴が戻ってきた。そして、の姿を見つけると、まっすぐに近寄ってくる。
「さん、お願いしたいことがあるんですが……」
「あら、なにかしら?」
は和え物を作っていた手を止めて、千鶴に向き直る。すると、千鶴は「ちょっと長くなるかもしれません」と言って、を勝手場の外に促した。は和え物の続きを食事当番の隊士に頼むと、千鶴について外に出る。
人影のない中庭まで来ると、千鶴は足を止めた。
「お忙しい時間にすみません、さん」
「いいわよ、千鶴ちゃんのお願い事だもの。それで、お願いってなぁに? わたくしが力になれることだといいのだけれど」
「あの……一緒に、島原に行ってほしいんです」