桜守 20

「え…っ?」

 思ってもみない頼みごとに、の表情が凍りつく。が島原にはもう二度と行かないと決めていることを、千鶴だって知っているはず。なのに、どうしてそんな願い事をするのだろう?

 そんなの様子を察して、千鶴は事情の説明を始めた。

「父様を島原で見かけたって話を、今日、お千ちゃんから聞いたんです。わたし、近藤さんにお願いして、島原に潜入して情報収集させてもらえることになりました。それで、さんにも一緒に来てもらって、助けてほしいんです」

「潜入する、って……。芸者の変装をするということ?」

「はい。島原でよく会合をしている不審な集団の中に、父様と似た特徴の人がいるということなので。お座敷に潜入して、父様がいないか確認したり、父様の情報がないか聞き耳を立てたり……」

「危ないわ。千鶴ちゃん、おやめなさいな、そんなこと」

「それは、土方さんにも言われました。でも、わたしの父様を探すんです。皆さんに甘えてばかりいるわけにはいきません。いろいろと手を貸していただくのだとしても、自分だけ安全なところで待っていることはできません」

 きっぱりした口調を聞いて、千鶴はもう決めたのだとは悟った。

 島原には二度と行かないと決めた。でも、今回は事情が違う。自分こそ、千鶴が危険を承知で飛び込むと言っているのを、ただ屯所で見送るだけなど嫌だ。

 島原に行けば、きっと、君菊に会う機会もあるだろう。土方とよく似合っていた美貌をまた見るのは辛い。今度君菊の顔を見たら、泣き出してしまうかもしれない。

 それでも……。

 考えた末に、は口を開く。

「わかったわ、千鶴ちゃん。わたくしも一緒に行く。千鶴ちゃんを手伝うわ」

さん…!」

 ぱぁっと笑顔になった千鶴は、ぎゅっとの手を握った。

「ありがとうございます、さん。本当は、ちょっと不安だったんです。なんの芸事もできないわたしが、芸者さんのふりをするなんて……。でもさんと一緒なら、心強いです。よろしくお願いします」

「こちらこそ、どうぞよろしくね。一緒にがんばりましょう」

 千鶴の喜びように、もつられてふふっと笑う。それは、しばらくぶりの心からの笑みだった。

 の島原潜入は土方がものすごい勢いで反対したが、土方以外は全員が賛成してくれ、なによりも本人が行く気になっているということで、無事に実行すると決まった。

 実は、を巻き込むというのは、ふさいでいるの気持ちを明るくしたくて、千鶴が原田や藤堂、永倉と相談して決めたことだった。綺麗な着物を着て、だって君菊に負けないくらい美しいのだと励ますことができたら、きっとはまた前のような朗らかな笑顔を浮かべてくれるだろうと考えたのだ。

 千鶴との島原潜入が決まった翌日、千鶴たちは千姫の手紙で、屯所近くの料亭に呼び出された。

「いらっしゃい、千鶴ちゃん! 準備して待ってたわよ」

 見た目の印象から想像する年齢には不釣り合いな存在感を纏った少女が、張りのある声で千鶴とを迎える。千鶴は恐縮した様子で返事をした。

「ご、ごめんね、無理を聞いてもらっちゃって」

「何言ってるの。頼りにしてくれて、すごく嬉しいわ。……こちらが、一緒に潜入するさん? 初めまして、千と言います」

「初めまして、どうぞよろしくね。千姫と呼んだらいいかしら?」

 千姫の話は千鶴から何度か聞いていたが、顔を合わせるのは初めてだった。だが、京都という土地と千という名前がぴんときて、は目顔で千姫の正体を確認する。千姫は千姫で、自分の正体に気付いたの素性がわかったのだろう。こっそりと目配せでうなずきながら首を振った。

「千でかまいません。姫様も、さんとお呼びする方がよろしいのでしょう?」

 聡い千姫の問いにうなずいたの耳に、聞き覚えのある声が届いた。

「お久し振りどすなぁ。まさか、こんなお願いされるとは、思いまへんどしたけど」

 振り向くと、そこにはきらびやかに着飾った君菊が立っていた。

「あ、あなたは……」

「お千ちゃんが言ってた島原の知り合いって、君菊さんのことだったんですか……」

 思いがけない再会に絶句するの隣で、千鶴も驚いている。千姫が伝手とする島原の知り合いと言うのが君菊のことだと、千鶴も知らなかったらしい。

 驚く二人に、君菊はうなずいて、

「へえ。姫様には昔から、ようお世話になってますぅ」

「早速、準備しましょうか。二人とも、こっちの控え部屋に来て。着物持ってきたから、着替えましょう。きちんとお化粧もしなきゃね」

 芸者の着物は豪華に着込む分、着付けに時間がかかる。千姫はてきぱきとその場を仕切って、千鶴とを控え部屋に促した。

 控え部屋には、千姫と君菊が持ち込んだ行李が置いてあった。千姫は蓋を開けると、襦袢やかんざし、化粧道具、豪華な着物と帯を次々と取り出す。

「早速、着てみて! 千鶴ちゃんに似合いそうなのを、二人で選んできたんだから!」

 用意された着物のきらびやかさに気後れしている千鶴に、千姫は容赦なく着替えを急かす。千姫のはしゃぎっぷりに気圧されているに声をかけたのは、君菊だった。

はん、どしたな。いつぞやのお座敷では、おおきに、お世話になりました。……さあ、お好きな着物をお選びやす。その間に、髪を結いますさかい」

「君菊さん……」

「新選組においやしたら仕方ないことなのか知れまへんけど、こないな素っ気ない恰好して、せっかくのべっぴんさんがもったいない。綺麗にして、驚かせてやりまひょ」

 言いながら、君菊はを座らせて髪を梳き、てきぱきと結い始める。

 の屈託を、君菊は知らない。そもそも君菊には関係がないのだから当然だ。だから、はなにも言えずに、ただされるままに身支度を整えていく。

 と千鶴の支度が整ったのは、それから半刻以上経った頃だった。

「ね、ねえお千ちゃん、本当に、どこもおかしくない?」

 式典のときに姫らしく着飾ることもあったはともかく、こんなに着飾った経験などなかった千鶴は、もう何度目かわからない問いを口にする。千姫は千鶴や幹部たちを驚かせたくて、千鶴に鏡を見せていなかった。だから余計に、千鶴は仕上がりを心配している。

「大丈夫、すっごく綺麗になったから。きっと皆、びっくりするわよ」

「そ、そう……かな?」

 鏡を見せない代わりに、千姫が力いっぱい請け合う。だがそれでも、千鶴は不安そうに、今度はを見る。は安心させるように微笑んでうなずいた。

「とても綺麗よ、千鶴ちゃん。よく似合っているわ」

「本当に、おかしくないですか……?」

 まだ不安そうな千鶴に構わず、千姫は勢いよく座敷の襖を開けて中に声をかける。

「お待たせしました! すごく美人になりましたよ!」

 そして、戸惑う千鶴の肩に手を添え、座敷の中に連れ込んだ。

「な、なあ、そこにいるのって、千鶴、おまえ……なのか?」

「いや、驚いたな。着物や化粧で、こんなにも見違えるとは……。普段の君とは、別人のようだ」

「へえ……化けるもんだね。一瞬、誰だかわからなかったよ」

 出会った時からずっと男装姿の千鶴しか見たことがなかった幹部たちは、千鶴の変貌ぶりに驚いて、口々に褒めそやす。妹分が褒められて自分のことのように嬉しくなったは、くすくすと笑いながらそっと座敷の中に入った。

 千鶴に目を奪われている幹部たちは、が入ってきたことに気付かない。座敷の隅で、はあらためて着飾った千鶴を眺めた。

 千鶴が着ているのは、桜と扇の柄の緋色の着物だ。花魁ではなく、普通の芸者の格式で整えられている。蝶々髷にかんざしを差してはいるが、ごてごてと飾り立てすぎていないところが、不慣れな風情と相まって、初々しさを醸し出していた。

 反対に、は花魁格の支度で仕上げられていた。の年齢で普の格の支度では、かえって浮いてしまうという君菊の配慮だ。横兵庫の髪に手絡を掛け、三枚の鼈甲櫛と無数のかんざしを差して、牡丹と鼓の柄の紅藤色の打掛を着ている。気が遠くなるほど贅沢で豪華な身支度だが、は初々しいというよりも風格を漂わせていた。

 ひとしきり千鶴を褒めて落ち着いた面々は、ふと、座敷の隅に座る花魁二人に気が付く。一人は見慣れた君菊。初顔のもう一人は……

、か?」

 信じられないといった声の問いに、はゆったりとうなずく。瞬間、座敷が静まり返った。

「あの……?」

 まさか沈黙されると思っていなかったは、困った表情で問いかける。実は、君菊さえ霞んでしまう美貌と風格に言葉を失っているのだが、千鶴を口々に褒めたばかりなのを知っているにしてみれば、沈黙は褒める言葉も見つからないほどの醜態だと言われているに等しい。

「……申し訳ありません。似合っていないでしょう」

 忘れていたけれど、「着慣れている」のと「似合う」のは、必ずしも一致しないのだった。思い至ったは、居た堪れなくなって立ち上がる。

「待て」

 を追いかけて、手首を掴んだのは土方だった。

「なんで逃げる?」

「……見苦しい姿をお見せし続けるなど、わたくしには」

 顔をそむけ、なんとかして退出しようとするに、その腕を掴む土方の力が強くなる。

「誰が見苦しいって?」

「お許しください」

「おまえを見て、俺は初めて〝傾城〟って言葉に納得したんだがな」

「え……?」

 驚いたが土方を見る。土方は揺らぐことのない視線をに向けていた。

 図らずも見つめ合う二人を現実に引き戻したのは、永倉のにやにやした声だった。

「とりあえず、土方さんよぉ。口説くんなら、二人っきりの時にしてくれや」

 はっとして周囲を見ると、にやにやしていたり、恥ずかしそうにしていたりしながら、その場の全員がと土方のやり取りを見物していた。

「あーあ、せっかく盛り上がりそうだったのに」

「いや、なかなかいい頃合いだったぞ。雪村君が目のやり場に困っていたじゃないか。なぁ、雪村君?」

「は……はい……そうですね………」

 永倉に劣らずにやにやしている沖田を、近藤がたしなめる。近藤に同意を求められて、千鶴は真っ赤な顔で視線を泳がせていた。

「ち、違う! これは別に、そういうあれとかじゃなくてだな……」

「はいはい。そう言うなら、違うってことにしておきますよ」

 焦って弁解しようとする土方に、沖田が恩着せがましく言う。土方はなおも反論しようとしたが、にやにやと笑う馴染みの顔を見ていると、反論はかえって逆効果になると予想がついて口を閉じた。

「じゃあ、お披露目も済んだところで、段取りを説明してもいいかしら?」

 恋愛もののお芝居みたい、と目を輝かせていた千姫が、気を取り直して本題に戻る。座敷の中央に円を描いて座った一同は、千姫の説明に耳を傾けた。

「千鶴ちゃんとさんには、芸者として角屋に詰めてもらうことになるわ」

「お、お客さんに付く時はどうすればいいの? 芸者さんって、確か舞とか楽器ができなきゃいけないんじゃ……」

 そこがいちばんの不安要素だった千鶴は、妙案を求めて千姫を見る。助けてくれたのは君菊だった。

「本来ならそうどすけど……素人のお嬢さんにそこまで求めるのも酷やし、お酌だけで結構どす」

「そうですか……」

 ほっと安心した千鶴の肩から、力が抜ける。酔った男性にお酌をするのも初めてのことだが、それならなんとかできそうだと思ったのだろう。

「ちなみに、さんは楽器や舞は?」

「わたくしは、お神楽でよければ……」

 稲荷神の神楽舞なら目を瞑っていても舞えるが、揚屋の座敷で舞うにはさすがに問題があるだろう。案の定、君菊は苦笑いしながら、

「そんな神々しいもんをお座敷で舞ってもらうわけにもいきまへんし、花魁ならそうそう舞を求められることもありまへんやろ。はんも、お酌だけで結構どす」

「わかりました」

 がうなずくと、土方が千鶴とを交互に見ながら説明の続きを引き取った。

「もし何かあったら、屯所まで文をよこしてくれ。手紙を受け取った隊士を客として行かせるから、そん時に状況を詳しく報告してくれりゃいい。念の為、斎藤と山崎を角屋に待機させとく。もし万が一の事態が起こったら、奴らに助けを求めろ。……いいな」

「……はい、わかりました」

 うなずきながら説明を聞いていた二人は、土方の念押しに大きくうなずいた。

 角屋に戻る君菊と一緒に行く方が自然に紛れ込めると言われて、と千鶴はこのまま島原に向かうことになった。先に料亭を出る近藤たちが座敷を出ていく中、見送ろうと立ち上がったの前で、土方が足を止める。

「何度も言うようだが、くれぐれも危ねえ真似はするんじゃねえぞ」

「はい」

「千鶴を助けてえ気持ちはわかるが、無理して酔っぱらいの相手をすることはねえからな。箱入り育ちが付け焼刃で相手できるほど、酔っぱらいは優しくねえ」

「はい」

「無理だけはするな」

「はい」


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