土方と君菊への屈託がまだ消えないの返事は、素直で歯切れ良いが、どことなく切ない。がいつになく儚げに見えて、土方はが自分の傍近くを離れることにつかみどころのない苛立ちを感じた。だからといってなにが言えるわけでもなく、土方は屯所に戻るべく足を踏み出す。
「ほな、行きまひょか」
君菊に促されて、は気を取り直して島原に向かった。
以前に来た時もにぎやかな場所だと思ったものだが、島原はつくづくにぎやかで華やかな場所だった。
毎日違う着物を着て、座敷に上がらなくても情報収集のために店の中を歩いて、その度には狂騒に気圧される。騒がしい場所を好まないには、島原の揚屋は苦手な場所の最たるものだった。
店が営業している夜の間中、喧騒に神経をすり減らしているにとっては、昼間の静かな時間は束の間の平穏だった。
「はん、ちょっとよろしおすか」
重い打掛と横兵庫から解放されて自室でくつろいでいたところに、廊下から声が掛けられる。くったりと脇息にもたれていたは、姿勢を正して返事した。
「はい、どうぞ」
入ってきたのは、君菊だった。君菊も重たい衣装から解放されて、間着姿だ。
「休んでおいやしたのに、かんにんえ。ちょっと話したいことがおしたさかい」
「かまいません。なんでしょうか?」
わざわざ訪ねてきた相手を、用件も聞かずに追い返すことはできない。島原に着いてから、なんだかんだと君菊を避けてきたが、どうやらもう逃げられないようだ。観念したは、君菊に自分の向かい側を勧めた。
襖が閉まり、廊下と空間が遮断されると、ふと苦笑いして、君菊は口調を変える。
「そのまえに、言葉遣い変えてもよろしおすか?」
「? ……ええ」
申し出の意図がわからないままにが了承すると、君菊はほっとした表情を浮かべた。
「実は、京都弁は苦手で。必要だから使っていますが、やはり馴染めません」
「そういうことでしたか」
説明する君菊に、はうわの空でうなずく。京の育ちでない者には、京都弁は確かに難しい。だが、それよりも君菊がわざわざ訪ねてきた理由が気になった。
「土方さんのことなんですけど」
さらりと君菊が話題を切り出し、途端に、の表情が強張る。君菊の口から土方の名を聞くのは、にはかさぶたにさわられているようなものだ。
君菊はそんなの様子を見て、「やっぱり」と言った。
「最初にお座敷でお会いした時にも、気になっていたんです。立場上、そのお座敷でいちばん上座にいる方のお相手をするのですけど、わたしが土方さんの隣に座った途端、とても悲しそうな顔をなさったでしょう?」
「あ……」
顔に出ていたと知って、は息を飲む。もしかして、土方はそれが不快でを遠ざけ、君菊を側に置いたのだろうか。充分あり得る可能性がの気持ちを苛んだ。
君菊はそんなの心の動きを知って、笑って首を振る。
「土方さんは知りません。わたしが偶然気付いただけです。ああ、あの人は土方さんが好きなんだなぁって、そのときわかりました」
「許されないことです。身の程も弁えずに……」
「そんなふうに考えていらしたのですね」
小さくなるに、君菊は優しい微笑みを向ける。
「さんはそんなに恐縮することないと思いますよ」
「とんでもないことです。土方殿のお傍に置いていただけるだけでも過ぎたことなのに、美味しくお酒を飲んでいるのを悲しむなんて、厚かましいことを……」
消えてしまいたいと言うかのようにうつむくを見つめながら、君菊は首を振っての言葉を否定した。
「あの日、土方さんは、わたしの話に相槌を打ちながら、ずっとあなたを気にしていました。あなたが美味しい料理を食べて、その場を楽しんでいるかどうか。だからなんだか悔しくて、わたしは必死に土方さんに話しかけてしまったんです」
「そんなこと……土方殿が、わたくしを気にするなんて」
ありえない、とはつぶやく。確かに土方は優しいし、いつも周囲を気にかけているが、自分が特別に扱われていると思ったことは一度もない。
「気にしていると思いますよ。少なくとも、新選組の他の人たちにしているのと同じくらいには。わたしには、気にしているというよりも、大事にしているように見えましたけどね」
「新選組と、同じくらい?」
「ええ」
厳密には少し違うが、君菊はあえて訂正せずにうなずく。の素性は千姫から聞いていた。低姿勢は生い立ち環境のせいだと想像できたが、ここまで度が過ぎると痛々しい。意識してやっているのなら嫌悪感も露わに非難しただろうが、大事にされ慣れていないだけだとわかっていれば、ただ悲しいばかりだ。
「あの日もわたしはいろいろな話題で話しかけたけれど、最後はかならずさんのことになりました。いつも仕事で屯所に詰めっきりにさせているから、こんな機会には美味しいものを食べさせてやりたい、息抜きをさせてやりたい。女だから芸者に興味はないかもしれないけれど、華やかな席で羽目を外させてやりたい。そんなことばかりを」
「土方殿が……そんなふうに?」
「ええ。自分が見ていたら気になって楽しめないかもしれないから、見ないようにしているって。そのくせ、隣にいるわたしの顔なんて、ろくに見てもくれませんでしたよ」
「そうですか……」
ようやく、ほんのりとの表情が和らぐ。君菊はそれに気付いて、ほっと息を吐いた。の重く沈んだ表情は、数日前料亭で会った時からずっと気になっていたもので、偽りとはいえ客商売をする立場でしていていい表情ではない。それに、千鶴から本来は明るい人だと聞いて、元気づけることができたらとも思っていた。
「よかった」
「はい?」
つい、君菊の口を突いて出た言葉に、が顔を上げる。
「いいえ、なんでも。お休みのところ、お邪魔しました」
問いかけるの視線をかわして、君菊は立ち上がる。ここで余計ななにかを言えば、を励ますための方便だと疑われてしまいかねない。その前に退出するに限る。
「あ……わざわざ、ありがとうございました」
部屋を出ていく君菊を、は丁寧にお辞儀して送り出す。入れ替わるように、髪結いの女性が入ってきて、今晩の身支度を促した。
は髪結いに背を向けて座ると、初めて、飾り立てられていく自分の姿に胸を躍らせて身支度をした。
と千鶴が島原に潜入してから十日ほど経った頃。
屯所で仕事に追われる土方のところに、永倉と原田、藤堂がやってきた。
「いったいなんだ。くだらねえことだったら蹴り出すぞ」
訪いに応える間もなく入ってきた三人に、土方は苛立ちを含んだ声を掛ける。が島原に行ってから、彼女が片付けていた細々としたことも自分でやらなくてはならず、効率の悪さに土方は閉口していた。が補佐に来る前はすべて自分でやっていたのだから、やってできないことではないとわかっていても、雑務に煩わされずに済んでいたいままでの感覚は、なかなか昔に戻らない。
そんな土方の様子にかまわずに、三人はにやにやと話を切り出した。
「土方さん、近いうちに島原に行かねえか?」
「こっちはそんな暇なんざねえよ。行きてえならてめえらだけで行け」
「そう言うなって、土方さん。島原で話題の花魁に会ってみたくねえ?」
「……話題の花魁?」
「そうそう。最近島原に来た花魁で、えらい別嬪だって持ち切りだぜ。連日通い詰めてでも旦那になりてえって男がひっきりなしだが、当の花魁は酌はしてもその先は許さねえってんで余計に話題になっててな」
「おい、まさかそれ」
「困る花魁に構わずに強引に事を運ぼうとすると、黒ずくめの用心棒が二人出てきて、店から叩き出されるんだと」
「てめえら、何が言いてえんだ!?」
ついに吼えた土方に、三人はけろっとした顔で応えた。
「だから、島原に行こうぜ」
「話題になるくらいだから、、きっとすげえ可愛いんだぜ。あの美貌で可愛げがあるとか、放っておけねえだろ」
「、柔順だからなあ。勘違いして、自分に気があると思っちゃう男、多いんじゃねえ?」
「俺は島原に行く時間なんざねえという話をしたばかりだったと思うんだが?」
地を這うような低い声は、土方の怒鳴り声に慣れた永倉達さえ、一瞬怯むような迫力があった。三人はぴたりと黙る。
「だいたい、島原には情報収集のために潜入してるんだろうが。話題になっていろんな座敷に呼ばれるんなら、願ってもねえ。早いところ綱道さんも見つかるってもんだ。違うか?」
「いや、まあ……そうなんだけどよ」
「綱道さんかもしれねえ男が一緒にいるのは、不逞浪士の可能性が高いんだろう? なら、新選組幹部の馴染みだなんて噂でも立とうもんなら、足引っ張るのと同じだろうが。浮かれてんじゃねえよ」
淡々と正論で諭されて、3人は残念そうに顔を見合わせた。の着飾った姿をもう一度見たいのもそうだが、なにより、を巻き込んだ本来の目的を達するために土方を花魁姿のに会わせたいのだ。
「失礼します。副長、山崎君から繋ぎが来ました」
廊下から声を掛けた島田が、紙縒りのように細くねじった紙を差し出した。受け取った土方は、返信の有無を告げるまで待てと目顔で合図する。
「山崎、なんだって?」
原田が訊ねるのと、土方が眉をぎりぎりと吊り上げるのとは、ほぼ同時だった。土方は無言のまま筆を執ると、短い文を書いて島田に渡す。
「山崎への返信だ」
「承知しました」
指示書を折りたたんだ島田は、それを懐にしまい、その場を去る。いったい何事かと土方の説明を待っていた永倉たちに、土方は苦い顔で告げた。
「今夜、島原に行く。夜勤じゃねえなら、ついてきていいぜ」
「お?」
「になにかあったのか?」
土方が急に方針を変えた理由に思い当たった原田が表情をあらためて訊ねると、土方は隠しても仕方がないとうなずいた。
「詳しい話は、今晩角屋で聞くことになってるが……山崎がわざわざ繋ぎつけてくるくらいだ。見過ごせねえことになってるんだろう」
「そりゃ心配だな」
眉を寄せた原田に、土方はため息を吐きながらうなずく。すると、真剣な面持ちで聞いていた永倉が
「そういうことなら俺は遠慮するぜ、土方さん」
「新八?」
「あの山崎が、土方さんが忙しいのを知ってて呼び出すなんざ、が相当困ったことになってんだろう。山崎が手に負えねえくらいが追いつめられてんなら、余計な面子はいねえほうがも気兼ねしねえで済むってもんだ」
「そうだな」
「俺もやめとくよ、土方さん」
永倉の申し出に原田も同意する。兄貴分二人の判断に、藤堂も素直に従った。面食らったのは土方だ。先ほどまでの誘い方から、てっきり、二つ返事で乗ってくるとばかり思っていた。
「悪いな。気を使わせる」
理由を瞬時に理解した土方は、短い断りを口にした。
日が沈み、隊務を終えた土方は島原に向けて外出した。
角屋には事前に山崎が話を通していたので、すんなりと座敷に通される。中に入った土方が腰を下ろすために刀を外そうとすると、どんっと鈍い衝撃があった。
「……」
豪華に結い上げた横兵庫が土方の右腕にすがりついている。土方は自由になる左手での肩をぽんぽんと叩いた。
「とりあえず、座ってゆっくり話を聞こうか。それと、そんなにくっついてたらせっかくの艶姿が見えねえよ」
土方が言い終えないうちに、するりと山崎が座敷に入ってくる。手にはお茶の支度を持っていた。必要な顔触れはそろったと、土方はを促して座に着いた。
「で、山崎。報告を聞こうか」
「はい」
飼い主から引き離されることを恐れる仔犬のように、はぴたりと土方に寄り添って離れようとしない。うつむきがちなために、大きな横兵庫の髷が邪魔をしての顔は見えなかったが、の気持ちは伝わってきた。そんなを咎めることもなく、土方は口火を切った。