「最初の5日ほどは特にお伝えするほどのことはなにもありませんでした。雪村君もさんも、酔っぱらいに困らされるほどのことはなく、座敷に上がっていました。様子が変わったのは、そのあとです。さんを指名する客が増え、執拗に、その……さんを求める者もちらほらと出始めました」
「を求める?」
「はい。つまり……今のさんは、花魁ですので」
言いにくそうな山崎の口ぶりと今の台詞で『を執拗に求める客』の意味を理解した土方は、はっとしてを振り向く。横兵庫の向こう、大きく抜いた襟から露わになったうなじが、途端に艶めいて見える。慌てた山崎が補足した。
「そういう客は、俺や斎藤さんが追い返しましたので、さんに危害は及んでいません」
だとしても、の男慣れしていないことと言ったら、箱入りなどという言葉で表現しきれる程度ではない。酒に酔った見知らぬ男に抱かせろと迫られて、さぞ恐ろしい思いをしたことだろう。
そこまで思いを巡らせて、土方は、それでこの有様かとの様子に合点がいった。いくら山崎と斎藤が守ってくれているとはいえ、座敷に一緒にいるわけではない。どちらかが駆けつけてくるまでの間、千鶴に不安な思いをさせないように表情を取り繕いながら、叫びだしたくなるほどの恐怖に耐えていたのだろう。ようやく緊張を解くことができる場所に戻れて、安心したのだ。
「千鶴に心配させねえように頑張ってたのか」
土方の問いに、こくんと横兵庫が動く。しゃらんと歩揺のかんざしが揺れた。
「よく頑張ったな」
本当は頭を撫でてやりたいところだが、せっかくの髪が崩れてしまってはもったいない。その代わりにの肩を抱き寄せると、の手がそっと土方の着物を掴んだ。
「この先どうしますか、副長。さんが役目を降りると言うのであれば、潜入は雪村君が一人で……」
「いいえ」
土方の指示を仰ごうとした山崎を、の小さいけれどしっかりとした声が遮った。
「大丈夫です。まだやれます」
「やめておけ、。山崎が俺に繋ぎつけてきたくらいだ。おまえにはもう無理だ」
「でも、千鶴ちゃんが」
「おまえが無理して正体がばれる方が、千鶴にとっても危険だ。……山崎、をこのまま連れて帰ることはできるか?」
「本日このまま、ということは難しいでしょう。ですが、早急かつ安全に島原を去る方法はあります」
食い下がるを抑えつけるような土方の問いかけに、山崎は淡々と即答した。
「副長がさんの客になり、数日居続けすれば、落籍の交渉ができるでしょう」
思いも寄らない山崎の回答を聞いた土方とは、きょとんとした顔で山崎を見つめる。山崎は平然としたまま、「事を荒立てずにということなら、それがいちばんかと」とまとめた。
「……山崎」
「はい」
「おまえ、斎藤に影響されたな」
しれっと最善策で土方に心理的打撃を与えるやり方が似てきている。角屋に二人で張り込ませていたせいかもしれない。
「は都合で花魁に化けてるだけだ。俺かどうかは別にして、そもそも客取ってどうするんだよ。だいたい、が男の相手をできるわけがねえだろ」
ため息混じりの土方の言葉を聞いた山崎は、一瞬反論しようとして、やめた。が男慣れしていなくても、男がに相手をさせることはできるし、花魁らしからぬ初々しさが美貌とともに評判を呼んでいたのも事実だ。だが、土方はそんなことを知りたいとは思うまい。
黙った山崎に代わるように口を開いたのは、だった。
「わたくしのことなら、そんなにご心配なさらないでください。誰にも嘲笑われることなく、こんな豪華な身なりをさせていただけるなんて、初めてですし……」
「……。だが」
「それに、もう大丈夫になりました」
きっぱりした笑顔で、顔を上げて背筋を伸ばし、は土方に向き合う。
「土方殿が……」
来てくれたから。
言いかけた言葉は、往来から聞こえてきたざわめきに飲み込まれた。
「貴様の顔、見覚えがあるぞ! 新選組の沖田だな!?」
「……どうしてあんた達が僕の名前を知ってるのかな? もしかして僕、意外と有名だったりする?」
「黙れ! 我が肥後勤王党の誇り、宮部先生の仇。取らせてもらうぞ!」
「ちっ、総司の奴!」
土方は舌打ちすると、刀を掴んで立ち上がる。
「山崎、斎藤を呼んで来い。総司に加勢だ」
「承知」
「、外に出るなよ。いま千鶴を探してくるから、二人で一緒に居ろ」
「はい」
指示を出しながら、土方が慌ただしく座敷を出ようとしたときだった。
「きゃぁあああああああっ――!」
窓の向こうに少女の悲鳴が響き渡る。千鶴の声だ。
「千鶴ちゃん!?」
「外に出ていたのか。なら、総司が守るな……。……、いいからここにいろ」
「はい。……ご武運を」
「ああ」
山崎に続いて土方が出ていき、は一人で座敷に残される。やがて、窓から剣戟の音が聞こえ始めた。
「ぐぁっ」
「ぐはっ」
男のうめき声が時折聞こえ、風の中に血の匂いが混じる。剣の音の合間に聞こえる声は、言葉がはっきりと聞き取れず、数人の声が重なっていて、誰の声かわからない。はここで、土方たちが無事であることをただ祈るしかできない。
うかつに外を覗くわけにもいかず、がひたすら祈っていると、やがて外のざわめきが消え、土方が戻ってきた。
ほっとしたは、山崎が置いて行ったお茶道具で土方のお茶を淹れ直した。
「ご無事でなによりでした」
「俺は外の斬り合いには加わってねえからな」
「あら」
無事で当然、と土方はうなずきながらお茶を受け取り、ひと息に飲み干す。てっきり土方も浪士たちと戦ってきたのだとばかり思っていたは、意外な思いで目を瞬いた。
「そうだったのですか」
「ああ。角屋や島原の組合に、騒がせた詫びを入れて話をつけてきた。ここには隊士共もよく酒を飲みに来てるからな。総司の喧嘩っ早さのせいで新選組全員が出入り禁止になったら大ごとだ」
空になった土方の茶碗に、は二杯目のお茶を注ぐ。土方は今度はゆっくりとお茶をすすった。
「幸い、話はすんなり収まった。おまえと千鶴も、明日には屯所に戻れるぜ」
「まあ。ずいぶん早くに決まりましたね」
「おまえがここ数日、かなりの金額を稼いだおかげで、角屋の機嫌がよかったんだよ。おまけに、正体は俺の補佐で、隊務で花魁のふりをしてるだけだって説明したら、務めが終わったらできるだけはやく屯所に戻ってほしいって言われてな」
「……巻き込まれたくないから、ですね? もう、今日ご迷惑をおかけしてしまいましたけれど」
「店に実害出してなきゃ、数に入らねえよ」
くつくつと笑いながら、土方は空になった茶碗を置く。おかわりを注ごうとしたを手で制して、土方は立ち上がった。
「さっき総司たちが捕縛した浪士どもの取り調べをしなきゃならねえ。今日はこれで戻る」
「そうですか」
土方を見送ろうと、も立ち上がる。そのまま座敷を出ていくかと思った土方は、そんなの立ち居振る舞いをじっと見ていた。
「……土方殿?」
「さすがだな。堂に入っていやがる」
庶民であればまず着る機会のない打掛を難なく捌く身ごなしは、そうとしか言いようがないものだった。が意識してやっているわけではないことが、余計にその育ちを実感させる。土方に感嘆されて、は恥ずかしそうに顔を伏せた。
「ただ慣れているだけです。土方殿が剣の型を当たり前のように演じられるのと、大して違いません」
「そうかもしれねえが、むさくるしい男が竹刀振るのとは、見ていて違うだろ」
苦笑しながら言った土方の言葉は、の胸をほんわりと温かくした。外見や身ごなしを褒められたことはいままでなかった気がする。見た目よりも、土方の役に立てているかどうかが価値基準だと思っていただが、容姿を褒められるのは嬉しかった。
「今日で見納めかと思うと、惜しい気もするな。よく似合ってるぜ」
の顎に手を掛け、土方は慣れた仕草で顔を上げさせる。
「まあでも、男に近寄られて悲鳴を上げる箱入り娘には、花魁は務まらねえな?」
「土方殿……っ」
内心で気にしていたことを、ははっと笑いながら言われて、は思わず土方を恨めしげに見る。土方は笑いながら手を離すと、歩き出しざまにを振り返った。
「早く帰ってこいよ、」
「はい」
の返事は、襖が閉まる直前、土方の背に届いた。
「聞いたぜ、土方さん。島原一の美女を身請けして、囲ったって?」
千鶴とが島原から戻ってきて数日後。巡察から戻ってきた原田が土方に声を掛けた。自室に戻ろうと歩いていた土方は、煩わしそうに足を止めた。
「その話なら、朝からさんざん聞いた。総司も新八も、他人事だと思って好き勝手言いやがる。原田、てめえも面白がってるだけだろう」
「そりゃ、鬼副長の色恋沙汰が町の噂になるなんて、そうそうあることじゃないからな」
にやにや笑う原田は、悪びれもせず土方の指摘を認める。新選組のため以外に目立った動きをしない土方が、私的なことで噂になることなど、初めてのことだった。
「……土方殿、どなたかお妾をお迎えになったのですか?」
土方の横で話を聞いていたは、恐る恐る質問する。君菊と土方の関係は誤解していただけだとわかったばかりだが、だからと言って土方に意中の女性がいないとは限らないのだ。囲うほど気に入った女性とはどんな人かと、かさぶたを剥がすような心境で土方を見る。
土方はの質問を聞くと、深々とため息を吐いて再び足を動かし、自室に入る。
「おまえまで変なこと言い出すんじゃねえよ。……おまえが角屋に潜入してた時、かなり評判になっただろう。おまえが屯所に戻ってきた後、おまえ目当てで来た客に角屋が言った説明が『新選組の土方が落籍たからもういない』なんだよ」
「そうそう。それでいま、京の町でもっぱらの噂になってるんだ。島原に来たばっかりの遊女を土方さんが強引に身請けして囲ったってさ」
「あら……そうでしたか。それはご迷惑をおかけしまして……」
「そんなことないぜ、」
が謝ることではない、と土方が言うよりも先に、原田がを遮る。
「迷惑って言うより、むしろ名誉だぜ。島原で話題の花魁をあっさり身請けするなんて、そんじょそこらの金持ちじゃできねえからな」
「そうなんですか」
が確かめるように土方を振り返ると、土方は苦笑いしながらうなずいた。
「花魁ともなると、大名や大商人でもなきゃ、身請けできねえのが相場なのは確かだな。新選組がそれだけ世間に認められてると思えば悪くねえ話だが、遊びで名が売れてもしかたねえだろ。騒ぐことじゃねえよ」
土方の言うとおり、新選組の立場を思えば、浮名で世に知られてもなんの役にも立たない。せいぜい、新選組がその程度には関心を寄せられていると実感できる程度だ。京の町での新選組の知名度は比較的高い方だとは言えるが、遊女を身請けした話が広まっても影響がないほど評価が高いわけではなかった。
千鶴を助けたくて動いた結果、土方に迷惑をかけたのか。鉛がどすんと落ちてくるように、の胸に重みがかかる。
そんなの心境を読んだかのようだった。土方は口調を変えて、話を続ける。
「まあ、おかげでと言うべきか、邪魔な恋文が激減したからな。悪いことばかりでもねえ。お前が気にすることはなにもねえよ」
「恋文……?」
土方の補足は、かえって逆効果だった。は立場上、公私に関わらず土方宛の書状の下読みをしていたが、恋文など目にしたことは一度もない。それはつまり、の目に触れないよう、手が回っていたということだ。
問い返すの声を聞いて、土方も失言に気付いたようだった。あっという顔でを見つめ返す。それに気付いた原田は、しかし、わざと話を進めた。
「ああ。土方さん、いろんなとこから恋文もらって、前から困ってたもんな。よかったんじゃねえか、日野に送りつける飛脚代もかからなくなって」
「送りつける……? 日野って、確か……」
「そう、土方さんの実家。普通、自分宛の恋文を実家に送るとか、しないよな」
原田は「どれだけもてるって自慢したいんだか」とくつくつ笑う。その横で、土方が苦い表情を浮かべて舌打ちをした。