桜守 25

 その花見の数日後のことだった。

 その日の仕事を終えた土方を手伝ってが書類を片付けていると、屯所の奥からがたん!と大きな音がした。

「なんでしょう?」

「俺が見てくる。おまえはここに居ろ」

 驚くにそう言い置くと、土方は和泉守兼定を掴んで部屋を出ていく。は手にしていた帳面を文机に置くと、土方の後を追った。物音がしたのは、千鶴の部屋の方向だ。ただ待っているだけはできなかった。

「……きゃああっ!!」

 が土方の部屋を出た直後、今度こそ千鶴の悲鳴が聞こえてくる。

「誰か――、助けてくださいっ!」

 やはり千鶴が襲われているのだ。着物の裾が乱れるのもかまわず、は千鶴の部屋めがけて走る。走りながら、懐の短刀に手を掛け、いつでも抜けるように構えた。

 より先に駆けつけていた土方は、抜刀するなり千鶴の部屋に踏み込む。

「おい、生きてるか!?」

「――はいっ!」

 土方の呼びかけに、すがるような叫び声で千鶴が答える。聞こえた会話に安堵しながら、千鶴の部屋の前に着いたも中を覗き込んだ。

「千鶴ちゃん……なんてこと!」

 部屋の中では、千鶴が片隅に追い詰められ、その目の前には抜き身を持った羅刹の隊士が立ちふさがっていた。畳にへたりこみ、身じろぎもできずに怯える千鶴の右腕は、血で濡れている。

「!!!」

 が千鶴に駆け寄ろうとするよりも先に、羅刹の隊士が土方に飛びかかろうとする。 が。

「ぎゃああああぁッ!!」

 土方が刀を振り下ろす方がずっと速かった。斬られた隊士は悲鳴を上げて……けれど、変わらずに刀を握ったまま立っている。

「今のうちだ。早くこっちへ来い!」

「は、はい!」

 土方に呼ばれ、千鶴は弾かれたように土方に駆け寄る。逃れてきた千鶴を、は腕を伸ばして抱き寄せた。

「千鶴ちゃん、よかった」

さん……!」

「こりゃあ、ひでぇ。話が通じる状態じゃねえな」

「そうさな……。ここまで狂われちゃあ、生かしておけないな」

 抱き合って無事を確かめあう二人の横で、駆けつけてきた永倉と原田が苦い表情を浮かべる。だが、口調と表情とは裏腹に、刀を抜く動作にためらいはない。

「新八っつぁん、左之さん! 抜かるんじゃないぜ!?」

「平助、この野郎! 誰にもの言ってやがる!?」

「羅刹だろうと平隊士に後れを取るようじゃ、組長を返上しなきゃなんねぇぞ」

 藤堂の軽口に言い返しながらも、羅刹の隊士を取り囲む態勢に隙はない。そして全員で一斉に斬り込むと、決着はその一撃で充分だった。

「な、なんなんですか、これは!?」

「……ちっ」

 誰の声か確かめるまでもない甲高い声に、土方が舌打ちする。伊東が来たのだ。

「そこの隊士はどうしたんですか!? あぁっ、部屋を血で汚すなんて! なんて下品なっ!! 幹部がよってたかって隊士を殺して……。説明しなさい! 一体、何があったんです!?」

 予想してもいない惨状を目の当たりにして、伊東は顔を引きつらせ、うわずった声で喚く。幹部が顔をそろえる血の海の部屋の中で、なます斬りにされた平隊士の遺骸が転がっているのだ。無理もないと言えば無理もないが、羅刹の存在を明かしていない伊東が相手では、土方たちも説明のしようがない。厄介な奴が来た……と、内心でため息を吐いた時だった。

「皆、申し訳ありません。私の監督不行届です」

 事態をさらにややこしくする存在が、すまなさそうに現れた。と千鶴も、予想外の人物の登場に驚いて、抱き合っていた腕を解き、向き直る。当然、伊東はさらに金切り声を張り上げた。

「さ、さ、ささ、山南さん!? な、なぜ、あなたがここに……!!」

 切腹したと告げられていた山南が、当たり前のように現れたのだから、驚くのは当然だ。驚愕する伊東に、山南は淡々と

「その説明は後ほど。とにかく、この場の始末をつけなくては」

 口調は淡々としていても、声には沈痛な感情がにじみ出ていた。羅刹隊を預かる身として、暴走した羅刹を出してしまったことに責任を感じているのだろう。

「山南さんのせいじゃねえよ」

「薬の副作用、ってやつなんだろ? しかたねぇって」

「ちょ、ちょっと、どういうこと!? 薬? 一体何の話、山南さん!?」

 永倉と藤堂の慰めも、伊東には火に油を注いだだけだった。山南に慰めが届く前に、頭に響く高い声で山南を問い詰める。それに対して、山南の答えは簡素だった。

「……この件に関して、お答えできません」

 まるで爪弾きするような回答に、さらに激昂するかと思われた伊東は、しかし、すっと一気に冷静さを取り戻した。

「私は、山南さんは亡くなったと聞かされておりましたのにねぇ。皆して、この伊東をたばかっていた、と? この伊東は、仮にも新選組の参謀ですよ? その私に黙ってはかりごとを……。納得のいく説明をしてもらえるんでしょうね!」

 この間合いで冷静に戻るのは、やはりさすがと言うべきだった。もともと頭の切れる人物なだけに、一度冷静さを取り戻されると、一筋縄ではいかない。感情的に喚いてはいるものの、驚愕と混乱から立ち直っている伊東を口先で煙に巻くのは至難の業だった。

「ああっ、いちいちいうるせえんだよ、てめえは。ちっとは黙っていやがれ!」

 冷静な伊東を相手に、事態を誤魔化さなければならない。まず不可能に思える事態に、土方がつい声を荒げる。乱暴な物言いに、伊東はさらに声を高くした。

「なっ!? なんて口の利き方を……。土方君、あなたは……!!」

「まあまあ、伊東さん。トシも悪気があるわけじゃないんだ。状況が状況だ、勘弁してもらえないかな」

 割って入ったのは、いつのまにか来ていた近藤だ。穏やかな声になだめられて、伊東はかえって余計に苛立った。

「あぁ、なんて野蛮な人たちっ。この伊東、こんな方々と一緒になんていられませんわ! 山南さん、あなたの口からちゃんと事情を説明してもらいますからねっ」

「……くっ」

「聞いてるんですか、山南さん?」

 伊東が執拗に山南に食って掛かっているのは、死亡したと偽られていたことに対する憤りももちろんだが、この場で信用してもいいと思えるのは山南だけだという意識があるからかもしれなかった。近藤を含め、ここにいる全員が、伊東を欺いていたからだ。

「……うぐぅ……。っぐぁぁああ!」

「山南さん?」

「どうした、山南さん?」

 問い詰める伊東に窮したかと思われた山南が、突然悲鳴を上げ始める。山南の様子が変わったことに気付いた千鶴と永倉が声をかけたのと、ほぼ同時だった。

「下がれ! 千鶴!」

「えっ!?」

 土方の警告に驚いた千鶴がそちらに気を取られた合間をついて、山南が千鶴の手首を掴んでいた。

「きゃあああっ!?」

 山南の髪は真白く変化し、瞳は血のように赤く染まっている。

「千鶴ちゃん! 山南殿っ!」

「い、痛いっ……ううっ、山南さんっ!?」

 の声も千鶴の声も耳に入らず、山南は千鶴の腕をぎりぎりと握りしめる。それは人の握力ではなく、羅刹のそれだった。骨が砕けそうなほどの力がこもっていることが傍から見てもわかる。そして、山南はうつろにつぶやく。

「血……血です」

 言いながら、千鶴の腕の傷口から流れる血を指で掬い取る。

「血をください。君の血を、私に……」

「い、いやぁ! は、離してくださいっ!!」

 恐怖に突き動かされるままに千鶴が叫ぶ。だが、山南の手は緩まない。

「山南殿。千鶴ちゃんを離して!」

 も呼びかけるが、効果はない。千鶴のことももちろん心配だが、幹部たちとは別の心配がにはあった。千鶴の血は普通の人と違う、特別な血だ。ただでさえ、薬で強制的に生み出された存在である羅刹のことはよくわからないというのに、千鶴の血を口にさせてよいのだろうか。普通の人間には劇薬に近いかもしれない千鶴の血を、山南に舐めさせて良いのか、どうか。

 けれど、それ以上前に出ないように土方に遮られていて、は山南にも千鶴にも近づけない。

「やめろ、山南さんっ!」

「くそっ、山南さんまで、血の匂いにあてられやがったか!」

「山南さん! そいつを離せよっ!」

 周囲に腕に覚えのある幹部たちが居並んでいるとは言っても、次に山南がどういう行動に出るか予想がつかない状況では、うかつに動くこともできない。しかも、相手はあの『山南敬助』なのだ。沖田や斎藤をはじめとする組長たちの陰になっていて忘れられがちだが、山南はその秀でた知略に劣らない優れた剣士でもある。誰もが手を出しあぐね、言葉をかけるのが関の山だ。

 ギリギリのところで拮抗したその場の空気を破ったのは、迷いのない土方の命令だった。

「取り押さえろ! 多少、手荒になってもかまわねえ」

「ちっ、しかたねぇ」

「悪く思わないでくれよ、山南さん」

「千鶴を殺らせるわけにはいかないんだよ」

 普段から実働を担っている永倉、原田、藤堂が刀を構え直す。彼らの迷いが吹っ切れたことは、その気迫で容易に察せられた。

「君たち、まさか山南さんを……!? 勝手なことは、この伊東が許しませんわ!」

「伊東さん、ここは危険だ。後はトシたちに任せて、俺たちは部屋から出ていよう」

「あっ、近藤さん!? なにを……わっ、わっ、離しなさいよっ!」

「ありがてぇ。後はこっちの始末をつけるだけか」

 この期に及んで自分の立場を理解していない伊東を、近藤が有無を言わさずに部屋から連れ出す。ある意味一番厄介な役目を自ら引き受けた近藤に感謝しつつ、しかし山南から目を離さないまま、試衛館派は山南との間合いを量る。

「だが、それがなかなか……」

「山南さんの腕は半端じゃないし、まして今は……」

 今は山南は只人ではない、羅刹だ。羅刹と化した人間が、常人とどれだけかけ離れているかは、羅刹を生み出した自分たちがいちばんよくわかっていた。

 女の自分が混ざれる雰囲気ではない。は廊下から、全体の様子を見渡し、成り行きを見守るのが精一杯だ。邪魔かもしれないとも思ったが、千鶴が山南から解放された時に駆け寄ってやりたくて、立ち去れない。

「くくっ……そうです、血が欲しい。私の身体が血を欲しているのです」

 ついに山南が指に掬った千鶴の血を口に運ぶ。激昂した藤堂が叫んだ。

「もう許せねぇ! いくぜ、新八っつぁん! 左之さん!」

「おう、一度にかかるぜ!」

 幾度も実戦を共にしている息の良さで、原田が返事する。そのままの勢いで藤堂、原田、永倉が踏み出そうとしたときだった。

「……いや、待て!」

 訝しげな土方の声が三人の動作を制止した。

「何だってんだ、土方さん!?」

 勢いをくじかれた永倉が苛立たしげに問いかける。状況を見極めようと目を凝らす土方は、鋭い声で指摘した。

「山南さんの様子がおかしい」

「……んぐうあああ……ああああ!!」

「お、おい……山南さん……どうしたんだ?」

 土方の声にかぶさるように、山南が苦悶する唸り声が響く。思いがけない展開に面食らった永倉は、つい構えを解いた。

「……ん……んんん……わ、私は、一体?」

 その場の全員が固唾を飲んで山南の様子を窺う中、白く染まっていた山南の髪が元の黒髪に戻って行く。瞳には理性が戻り、周囲に焦点が合った目つきになった。

「……山南、さん?」

「雪村……君。わ、私は一体、何を……?」

 恐る恐る問いかけた千鶴に、山南も困惑しきった声で問い返す。山南は自分が千鶴を抱き寄せる体勢になっていることも認識できていなかった。ただ、至近距離で自分を見上げる千鶴に驚いている。

「良かった! 正気に戻ってくれたんですね!?」

「こりゃあ、どういうことだ?」

「俺に聞かれてもわからねぇよ」

「……俺にもわからん」

「そうか、私も彼らのように……気が触れていたのですね」

 戸惑う原田たちが顔をしかめる中、山南はさすがと言うべき聡明さで、状況を把握し始めた。血の海の部屋。血だまりの中で事切れている羅刹の隊士。怪我している千鶴。その千鶴を拘束している自分。知らずに済むなら、その方が良かったであろう現実を。


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