「でも、今はいつもの山南さんです。どうして戻ったのかは、わかりませんけど……」
「どうしてなのか……? 自分でも……わかりません」
きっかけがなんであろうと、戻ったのならそれでいい。そう言うかのような千鶴の言葉に、山南は恐れさえ混じった声音でつぶやく。
一度気が触れてしまった羅刹は二度と正気に戻れない。殺してやるのが最後の慈悲だ。というのが、これまでの共通認識だった。どうして、山南は正気に戻れたのか。戻れてよかったと安堵していい展開は、しかし、これまでの常識ではあり得なさすぎた。
呆然とする一同を正気に引き戻したのは、またも土方の指示だった。
「……考えるのは後にして、とにかく後始末だ。そこの死体を片づけて部屋の掃除だ」
山南に対峙したはいいものの次の行動に出られなかった先ほどと同じように、原田たちの意識が切り替わる。刀を鞘に納めると、掃除をするためにそれぞれが動き始めた。
「あぁ、この畳はもう駄目だな」
「こっちのふすまも変えなきゃだぜ」
血塗れの内装を前にため息を吐く原田たちに室内の処理を任せた土方は、千鶴の前に立つ。
「それと、おまえは……」
「はい、私も手伝います」
言いかけた土方に、千鶴は健気な返事をする。ただ、その声にはまだ怯えが残っていて、言葉通りに受け取るには心配が残った。もう自分が動いても邪魔にはならないと判断した葛葉は、そっと千鶴に近寄った。
「怪我人は引っ込んでろ。身体を休めるのが先だ」
千鶴に言い聞かせるように、土方は有無を言わせない口調で告げる。でも、と言いかけた千鶴の肩に、葛葉は包むように手を置いた。
いまの千鶴には、体力的にも精神的にも、負荷がかかりすぎている。その上、血だらけの部屋の片づけなど、させられるはずがない。まして、その血の一部は千鶴自身のものだ。申し出のままにさせることなどできることではない。
「葛葉さん……」
「休みましょう、千鶴ちゃん。怪我の手当ても必要だわ」
肩を包んだ手の主を確かめるように振り向いた千鶴に、葛葉は優しく穏やかに語りかける。千鶴は張っていた気が緩んだのか、長く深い溜息を吐いてうなずいた。土方は葛葉に「よし」と目配せをすると、部屋を見回して、
「と言っても、この部屋は使えねぇか……。今夜んとこは俺の部屋を使ってろ」
「土方さんのお部屋を……いいんですか?」
「しょうがねえだろ。さっさと行け!」
「は、はいっ」
ぴょこん!とお辞儀をして、千鶴は小走りに部屋を出ていく。土方は葛葉に「おまえも行け」と目で合図した。葛葉はうなずくと、自室に立寄って薬箱や手拭い、着替えなどを用意して、土方の部屋に向かう。
土方の部屋では、先に着いていた千鶴が、所在無げに座っていた。葛葉は持ってきた物を横に置くと、千鶴と差し向かいに座る。
「それじゃ、千鶴ちゃん。傷を見せて」
「あ……いえ、その……自分でできます」
葛葉に促された千鶴は、うろたえて断った。確かに浅くはない刀傷だったが、見せるわけにはいかない事情が千鶴にはある。
「自分でできる位置ではないわ。片手では包帯も巻けないでしょう。遠慮しなくていいのよ」
「遠慮というわけでは……。ただ、わたしは医者の娘ですし、怪我の手当ても慣れていますから」
「医者の娘でも、自分の手当てをする機会は多くないと思うわ。それとも、手当てをする必要はなさそうかしら?」
当たり前のように葛葉が訊ねると、千鶴ははっと息を飲んで葛葉を見た。その反応で、葛葉は確信する。
「やっぱり、千鶴ちゃん、傷の治りが早いのね。……鬼の一族なら当たり前のことよ、特別なことじゃないわ」
「葛葉さん、知って……!?」
「ええ。千鶴ちゃんの持っている小太刀、鬼の一族に代々受け継がれているものよ。誰でも知っているものではないけれど、わたくしは風間との縁談の時に鬼の一族のことを学んだから、知っているわ。小太刀を見たときから、千鶴ちゃんが鬼だということはわかっていたわ」
「じゃあ、葛葉さんは、いままで知らないふりをしていたんですか?」
千鶴の問いに、葛葉は静かにうなずく。千鶴は葛葉が黙っていたことに怒るかもしれないが、千鶴にとって重大なことを無神経に暴き立てることは葛葉にはできなかった。
「千鶴ちゃんの様子を見ていたら、自分の系譜を知らないのだとわかったから。然るべき時が来るまで、わたくしから教えることはするべきではないと思ったわ」
「それで、わたしが鬼だって風間さんからあんなふうに知らされて、沖田さんに迷惑をかけることになっても……?」
「それでも、言えないこともあるのよ。神族って、思うほどいいものじゃないわ」
「葛葉さん」
それでも詰る口調の千鶴に、葛葉はすまなそうに微笑んだ。
「神族って、意外と数は多くてね。誰もが好きなことをできてしまったら、世の中がめちゃくちゃになってしまいかねない。だから、自分の社を持っていない神族に出来ることなんて、人間よりちょっと不思議なことを起こせる程度なの。千鶴ちゃんの力になりたいなんて言っても、千鶴ちゃんが傷つかないように千鶴ちゃんが鬼だという話をすることもできない」
言いながら、すっと手を伸ばして、千鶴の寝間着の袖をまくりあげる。羅刹の隊士に斬られた傷は、浅い傷ではなかったのにもう血が止まっていた。傷に触らないように気をつけながら腕にこびりついて乾きかけている血を手拭いでふき取ると、葛葉はくるくると包帯を巻いていく。
「それでも、千鶴ちゃんの隠し事を手伝うことはできるわ。わたくしは耳も尾もあるちっぽけな神族だけど、これも何かの縁と思ってもらえたら嬉しいわ……」
包帯を結んで止めると、まくっていた袖を直して、葛葉は薬箱を片付ける。そして、千鶴に畳んである寝間着を差し出した。
「血で濡れた寝間着のままでは、気持ち悪いでしょう? わたくしので申し訳ないけれど、使ってちょうだい。着替えたら、今夜はもう休むといいわ」
「葛葉さん……」
条件反射で寝間着を受け取った千鶴に、葛葉はにこりと微笑む。
「疲れたでしょう? おやすみなさい」
そう言うと、葛葉は立ち上がって部屋を出る。閉まりかけた障子の隙間から、「ありがとうございます、おやすみなさい」と千鶴の声が聞こえた。
葛葉が自分の部屋に戻って間もなくのことだった。
「起きてるか?」
廊下から声が掛けられ、葛葉は寝支度の手を止めて障子を開ける。そこには、土方が立っていた。
「ちょっといいか、話がある」
「どうぞ」
葛葉は土方を部屋に入れると、布団を畳んで座布団を出す。土方は腰を下ろすと、難しい顔で口を開いた。
「こんな時間にすまねえ。ここしか、確実な場所を思いつかなかったんでな」
「そうですか。お役に立てて嬉しいです」
「このあと、二人来る。そいつらも入れてくれ」
「はい」
土方が密談のために訪れたのだとわかって、葛葉はうなずく。誰が来るのかはわからなかったが、先ほどの一件から、伊東への対処方法を話すのではないかと見当がついた。
やがて、忍びやかな足音がして、部屋の前で立ち止まる。
「葛葉、起きているか?」
声は斎藤のものだった。土方を振り返ると、土方ははっきりとうなずく。葛葉はそっと障子を開けると、斎藤を招き入れる。すぐに、廊下からひそめた声がした。
「山崎です」
土方がまたうなずき、葛葉は山崎を部屋に入れる。葛葉の決して広くない部屋は、すっかり窮屈になった。
「わたくしは千鶴ちゃんの様子を見に行きますね」
「いや、いい。ここにいろ」
自分が聞かない方がいいだろうと思って声を掛けると、土方は即答した。斎藤と山崎もうなずくので、葛葉は部屋の隅に腰を下ろす。
すると、土方は3人に「もっと近くに寄れ」と合図した。4人は膝を突き合わせて丸く座る。
「伊東が新選組からの離隊を言い出した」
切り出された内容に葛葉ははっと息を飲んだが、斎藤と山崎は眉ひとつ動かさない。まるで知っていたかのような平静さで、土方に先を話すよう視線で促す。
「さっき、俺と近藤さんで変若水の説明をした。その後のことだ。伊東の言い分は、もともと水が合わなかった。前から考えていた、あんな場面を見ちまった今がいい機会だ、俺らみてえな獣の集団とは一緒にいられねえ、とよ」
「そんな、獣だなんて!」
「葛葉、静かに。それに重要なのはそこではない。……副長、変若水の秘密について、伊東さんはなんと?」
思わず声を上げた葛葉をたしなめ、斎藤は話の筋を戻す。土方は忌々しげに舌打ちをした。
「黙っている代わりに、自分が離隊するときに隊士を連れて行くのを認めろ、だとよ」
「それでは、ただの離隊ではなく、隊の分割になりますね」
「そうだ。自分が連れてきた同志を始めとしたいわゆる〝伊東派〟を連れて出る。それが伊東の要求だ」
「局長はそれを了承したんですか?」
「ああ。本人の承諾を得ること、と条件を付けてたがな。……近藤さんらしい決定だろ?」
「まったくです」
「分離した後、伊東さんはどうするつもりでしょうか」
「孝明天皇の御陵衛士になるんだとよ。表向きは、孝明天皇の御陵を守るために新選組から分隊する形を取るとか言ってたが、袂を分かつことに変わりはねえ」
「なるほど」
事情を確認した斎藤と山崎は静かにうなずく。その様子を見ながら、土方はそれまでの忌々しげな表情を消して、姿勢を正した。
「斎藤。おまえ、伊東について行け」
「御意」
「繋ぎは山崎、おまえに頼む。状況に応じて葛葉も使え」
「承知」
命令に、くどくどとした説明は必要なかった。斎藤も山崎も、短い返答に覚悟が籠っている。自然と、葛葉の背筋も伸びていた。
「明日の朝、幹部全員に伊東の離隊と同志の募集を告知する。斎藤はその時に手を挙げろ」
斎藤はこくりとうなずく。
「新選組と御陵衛士は協力関係にある、という建前だが、基本的に相互の交流は認めねえ。おそらく、明日の朝を過ぎれば、伊東派を表明した連中とは会話もなくなるだろう。斎藤と山崎はいまのうちに繋ぎの方法を打ち合わせとけ」
「それでは、後程、お部屋にうかがいます」
「いや、場所は雪村の部屋で。俺の部屋にあんたが入るところを見られるのはまずい。今夜なら、あの部屋に近づく者もいないだろう」
山崎が申し出ると、斎藤は小さく頭を振った。話がまとまったところで、土方はぐるりと3人の顔を見回す。
「この件に関して、俺はここにいる奴以外信用してねえ。頼んだぞ」
土方の命令に、3人は力強くうなずく。それを見届けて解散しようとした土方を、斎藤が思い出したように引き留めた。
「副長。諜報の目的は如何様に?」
葛葉は斎藤の問いの意味がわからず、首を傾げる。間諜をするということは、情報を掴んで知らせるということだ。それが目的ではないのだろうか?
だが、土方は斎藤の言わんとするところをわかっていた。すっぱりとした口調で答えを言い切る。
「伊東派の殲滅だ」
「御意」
つまり、伊東派を一人残らず葬ることができる情報を入手しろ、ということだ。
物騒な命令を静かに引き受けた斎藤は、一礼すると部屋を後にした。
すこし間を空けて、山崎も部屋を出ていくと、土方と二人残った葛葉は、畳に視線を落として思考する土方を見つめる。
この人は、近藤と新選組を守るために、どれほどの汚名を着るつもりなのだろう?
腹心だけを呼んだ場に同席できたことを喜ぶ余裕などないくらいに胸が苦しくなって、葛葉は膝の上できゅっと拳をつくる。助けになりたいと願っても、自分などでは物の数にもなれないような大きなものを、土方は背負っている。その荷が大きすぎて、それを負う背がとてつもなく遠く見えて、葛葉は悲しくなる。
いつも、その背中を見つめて、追いつけない後姿を追いかけて、葛葉はここにいる。
物思いに沈みかけて、葛葉ははっと我に返った。空が白むまで、あとどのくらいあるだろうか。明日も激動の展開が待ち受けている。土方にはすこしでも休息が必要なはずだった。
「土方殿」
思い切って、思索にふける土方に声を掛ける。土方はゆらりと顔を上げて、葛葉を見た。
「そろそろお休みになったほうがよろしいのではありませんか。この部屋をお使いください」
葛葉の申し出に、いまさらながら状況に気付いた土方は、少し考えた後立ち上がる。
「いや……、朝までに考えなきゃならねえことが山とある。気付かなくて悪かったな。俺ももう行く」