桜守 27

「今夜はお休みにならないのですか?」

 の問いかけに、土方は「それ以上言うな」と言うように首を振った。

 伊東が離隊し、隊士を連れていくことは、言葉ほど簡単なことではない。土方が斎藤を送り込むように、伊東も誰かを残して行くかもしれない。明日は、その駆け引きと態勢準備にかなりの労力を要するはずだ。いまのうちに考えておくべきことは、土方の言葉通り山積みなのだろう。

「千鶴のことを頼んだぜ」

「承知しました」

 がうなずくと、土方は静かに部屋を出て行った。

 しっかり眠るには朝が近すぎたため仮眠を取るだけにとどめ、は夜が明けると簡単な朝餉を用意して、千鶴の着替えと一緒に土方の部屋に運んだ。

「千鶴ちゃん、起きている?」

「はい、おはようございます」

 すぐに返事があり、すらっと障子が開く。千鶴はちょうど起きたところのようだった。

 中に入ったは、文机に持ってきた朝食の盆を置くと、千鶴が寝ていた布団を上げ始める。

「調子はどう?」

「ぐっすり寝たので、いつも通りです。それより、お布団、自分で上げます」

「いいわよ。腕の傷、まだ消えていないでしょう?」

「あ……はい。でも、もう痛みもないし、たぶんふさがっています」

「そうね、夜の間にずいぶん癒えただろうとは思うわ。でも、念のためにね。千鶴ちゃん、その間に着替えておいて。そうしたら、朝ご飯にしましょう」

 言いながらもはてきぱきと布団を上げる。千鶴はから渡された着物に慌てて着替えた。

「今日は一緒にここでご飯にしましょう」

 は朝食を乗せた盆を引き寄せて、千鶴と差し向かいに座る。

「広間で、なにかあるんですか?」

 千鶴は「いただきます」と手を合わせると、おにぎりを手に取って首を傾げる。は苦笑すると、自分もおにぎりを取った。

「昨夜のことで話し合いをするのですって。伊東殿がずいぶんと動揺していたから、あまりいい話し合いにはならないみたい。終わるまで近づいては駄目ですって」

「そうですか……。すみません、私が騒いだせいですよね」

「そんなことはないわ」

 昨夜の出来事を悔やんでうなだれる千鶴に、はきっぱりと首を振る。

「もし、千鶴ちゃんがあのとき悲鳴を上げなかったら、千鶴ちゃんはきっともっとひどい怪我をしていたわ。いいえ、土方殿の助けが間に合わなかったかもしれない。殺されていたことは充分にあり得たわ。千鶴ちゃんが叫んだから、助けが間に合ったの。千鶴ちゃんはなにも悪くないわ」

「でも」

「昨夜のことは、仕方のないことよ。あの羅刹の隊士以外誰も死なずに済んでよかった。……それはもちろん、事後処理で心配するべきことはいくつもあるけれど……それだって、被害が最小限で済んだからこそのものよ。千鶴ちゃんが無事でよかった」

さん……」

「これがわたくしの感想。千鶴ちゃんには、千鶴ちゃんの感じたことがあると思うわ。でも、少なくともわたくしには、騒ぎになったことよりも千鶴ちゃんが無事だったことの方が大事。たぶん土方殿もそうなんじゃないかしら。だから、千鶴ちゃんは、周囲がどう思ったかなんて、気にしなくていいのよ」

「……ありがとうございます」

 言葉を尽くしたの慰めに、千鶴には礼を言うしかできることがなくて、一生懸命微笑む。そのぎこちない微笑みで、は千鶴がまだ吹っ切れていないことに気付いたが、知らないふりをして微笑み返した。

「そういえば」

 千鶴なりの努力なのだろう、打って変わった明るい声で話題を切り替える。は話の先を促すように首を傾げた。

「二条城で風間さんがわたしを連れて行こうとした時のことを土方さんに訊かれたとき、さんが誤魔化してくれたことがありましたよね。どうして助けてくれたのか、ずっと不思議だったんです。あれは、さんがわたしの出自を知っていたからなんですね」

「ああ、あのときね。あのときは、千鶴ちゃんがまだなにも知らないみたいだったから、話を逸らそうと思って」

 千鶴の言葉に、はうなずく。とっさに難しいことはできなかったけれど、千鶴が風間に狙われている理由から周囲の目を逸らせればいいと思って、は矛先を自分に向けさせたのだった。

「ありがとうございました。自分でもよくわからなかったことを訊かれて、どうしたらいいのか困ってたんです」

「助けになれたのなら、よかったわ」

 微笑んだは「ごちそうさまでした」と手を合わせる。同じように食べ終えた千鶴は、ふと心配そうな表情で広間の方向に目を向けた。

「心配なら、様子を見てきたらいいわ。そろそろ終わっている頃じゃないかしら」

「はい。ありがとうございます」

 空になった食器をまとめるにぴょこんと頭を下げると、千鶴は部屋を出て行った。くすりと笑って千鶴を見送り、土方が戻ってきたらすぐに仕事を始められるよう、は部屋の中を整える。

 伊東派と認知されている者たちと一緒に、斎藤は御陵衛士に行ってしまう。そうでなくとも伊東派の分離は損害を伴っているというのに、新選組設立時からの幹部が御陵衛士に行くことは、事情を知らない者たちには衝撃的なことのはずだ。

 には手伝えることさえない難局を、土方は一人で背負って進むのだろう。

 土方の文机をはそっと撫でる。使い込まれた文机は、どっしりとした風合いを放っていた。その貫禄は鍛え抜かれて引き締まった土方の背中のようで、はふと手の動きを止める。

 仕事を手伝えないなら、せめて、疲れた土方がひと息つくことができる場所になりたいとは思った。




 伊東派が出ていくと、屯所は急にがらんとした印象になった。

 斎藤と藤堂が伊東について行ったことは、試衛館派幹部たちの心に小さくない傷を負わせた。敵対すれば斬るなどと言いながら、内心で苦渋の選択に心を痛めていることは、その眉間にかすかに寄るシワを見れば明らかだ。土方にしても、自分の指示に従った斎藤はともかく、藤堂が伊東と共に行くことは予想していなかったらしく、副長室で苦い顔をしていた。そんな幹部たちの心中を察した千鶴もどことなく浮かない顔をしている。

 男の人なのだから情よりも志の方が大切で当たり前だ。そうは思うが、自身、無邪気な藤堂の笑顔と、藤堂と一緒に笑う原田や永倉の屈託のない笑顔はもう見られないことが、たまらなく寂しかった。

 転機を迎えた春が夏に差し掛かり、欠けてしまった顔ぶれにも慣れ始めた頃、君菊を伴って千姫が屯所を訪れた。

「あら、お千ちゃん」

 千姫の姿を見つけて驚くに、千姫はにこりと笑いかける。

「千鶴ちゃんに用があってきました。会わせていただけますか?」

「土方殿に訊いてくるわ。広間に案内するから、そこで待っていてくれるかしら」

 千姫と君菊を促して、は広間に足を向ける。広間で二人を待たせると、千鶴に取り次ぐより先には土方の判断を仰いだ。

「千鶴に客?」

「はい。以前、千鶴ちゃんとわたくしが島原に潜入するときに手はずを整えてくれた女の子を覚えていらっしゃいますか? その子です」

「ああ……その折は世話になったな。千鶴と仲がいいそうじゃねえか、会わせてやったらいい」

「わかりました」

 客が誰かを知った土方は、あっさりと許可を出す。うなずいたは、ひとつ意見を口にした。

「私見ですが、申し上げてよろしいでしょうか」

「いいぜ、なんだ?」

「あの子が千鶴ちゃん個人に用があるのなら、千鶴ちゃんが外出した時に声を掛ける方法を選ぶはずです。事実、島原に潜入する動機となった情報は、そのようにして彼女から千鶴ちゃんに伝わりました。それなのにわざわざ屯所を訪れたということは、千鶴ちゃんの外出を待てないほど緊急か、新選組にも関わる内容か、どちらかである可能性が高いと思われます」

 だからどうしろ、とはに言えることではないが、情報を耳に入れて、土方の判断を仰ぐことはするべきだと思った。の意見を聞いた土方は、すこし考えた後、立ち上がりながら指示を出す。

「総司たちに広間に集まるよう声を掛けてこい。俺は近藤さんを呼んでくる」

「はい」

 は立ち上がると、沖田たちを探して回った。程なく呼び集められた試衛館派幹部が広間にそろう。巡察に出ている井上は不在だが、伊東が離隊したことで隠れる必要がなくなった山南も席に着いた。は広間の末席、自分の定位置に腰を下ろす。

 やがて、土方に呼ばれた千鶴が広間に入ってきた。

「千鶴ちゃん、お久しぶり~!」

「お千ちゃん!?」

 千鶴が入ってくるなり、千姫が朗らかに声を掛ける。自分に客とは、いったい誰かと訝しんでいた千鶴は、驚いた声で問いかけた。

 どうして千姫が訊ねてきたのか、量りかねた千鶴が視線を動かすと、横には君菊の姿もある。もっとも、君菊は千鶴が見覚えている花魁姿ではなく、一目で誰かはわからない。千鶴の視線に気付いた千姫は事も無げに

「ああ、彼女は私の連れよ。まあ、護衛役みたいなものだと思ってね」

 説明を聞いて、余計に訳が分からなくなった顔で千鶴は訊ねた。

「それで、お千ちゃん。ここにはなんの用で来たの?」

「私ね、あなたを迎えに来たの」

「えっと……どういう意味? お千ちゃんの言うこと、よくわかんないよ」

 なぜ迎えに来たのか。なぜ千姫なのか。どちらの理由も千鶴はわからない。千鶴だけではなく、新選組幹部たちも千姫の真意をつかみかねて、面食らった反応を見せていた。その様子を見ながら、は心持目つきを険しくした。

 千姫が千鶴を迎え入れることを決断するような状況になったということか。

 千姫を頭領に頂く京の鬼たちは、人間の社会に上手く紛れ、争い事から距離を置いてきたはずだ。本人が望んだことではないとは言え、風間と揉め事を抱えている千鶴は、そんな彼らの方針を阻害する存在のはずだった。それをわかった上で千姫が迎えに来たということは、千鶴によほどの危険が迫ったか、あるいは……。

「まだ状況を理解していないのね。でも、心配しないで。私を信じて?」

 千姫の言葉を受け止めきれずに困惑する千鶴を、横から君菊が急かした。

「時間がありません。すぐにここを出る準備をしてください」

「ちょ、ちょっと待ってください。どうして、私があなたたちと一緒に?」

「そうだぜ、訳がわからねぇ! いきなりたずねてきて会わせろって言い出すし、会わせたら、いきなり連れてくだ? 頼むから、俺らにも理解できるように説明してくんねぇか?」

「私からもお願い、お千ちゃん」

 事情がさっぱりわからずに千鶴が訊ねると、永倉が援護するように割って入った。どうしたものかと考える千姫は、にちらりと視線を投げかけた。助けを求めているのか、それとも説明すれば場が治まるかどうかを訊きたいのか。どちらともわからなかったが、答えは同じだ。はゆっくりと首を横に振った。この場では、はただの傍聴者だ。

「……そうね。じゃあ、順を追って説明しましょう」

 そう言って、千姫はぐるりと一同を見回し、口調を改めた。

「あなたたち、風間を知っていますよね? 何度か刃を交えていると聞きました」

「……なんでそのことを知ってる?」

「ええと……この京で起きていることは、だいたい耳に入ってくるのです」

 出だしから土方に突っ込まれ、千姫はたじろぎながら答える。答えた内容は嘘ではないが、『どうして』『どのように』はぼかされていた。土方たちが鬼の存在を知っているかどうか、確信が持てない状況で、明かすことはできないのだ。

 曖昧な回答を聞いて、土方は薄い笑いを浮かべた。

「なるほど。おまえも奴らと似たような、うさんくさい一味だってことか」

「あんなのと一緒にされると困るんだけど。でも、遠からず……かしら」

「……まあいい、風間の話だったな」

 一緒にされると困るというのは千姫の本音だろう。同じ頭領でも、自分中心に行動する風間と己は違うという矜持があるのだ。だが、鬼の一族を統べる立場で、似通った点が多いこともまた事実だった。

「あいつは、池田屋、禁門の変、二条城と……。何度も俺たちの前に現れている薩長の仲間だろ」

「仲間って言うより、彼らは彼らで何か目的があるみたいだったけどね」

 風間に関する認識をまとめた原田の言葉を補足するように沖田が付け足す。土方はそれをさらに簡潔にした。

「どっちにしても、奴らは新選組の敵だ」

「では、彼らの狙いが彼女だということも?」

 千姫の視線が千鶴に向けられ、〝彼女〟が指す相手を示す。ここで自分が問題になるのかと、千鶴は息を詰めた。近藤が重々しくうなずく。

「承知している。彼らは自らを【鬼】と名乗っている。信じているわけではないが……」

「ですが、信じるしかないでしょうね。三人が三人とも、人間離れした使い手ですから」

 近藤の続きを引き取った山南の言葉を聞いて、沖田が笑った。

「……あはは、面白いな。山南さんがそういうこと言うんだ?」

 場違いなばかりか、誰もが触れないようにしているところに踏み込む沖田の発言は、広間に気まずい空気を産む。取り繕うように、千鶴が先をうながした。


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