桜守 31

「土方殿が?」

「そうです。さんは我々が思うほど、か弱くない。万が一のことを起こすほど愚かでもない。いま動かせる人員の中で、俺を手伝わせられるのはさんだ、と。だからさんに手伝わせろ、と」

「そうなの……」

 思いがけずに自分に対する土方の評価を聞いて、は恥ずかしげにうつむく。

「副長が信用しろと言う以上、遠慮なく頼らせていただきます。さんも遠慮なく、もし手に余ると思う事態になったときは、かならず知らせてください」

「わかったわ。……でも、それはかえって山崎殿のお仕事を増やしてしまうことにならない?」

さんの手に負えないほどのことが起きたという情報は重要なものです。重要な情報を報告することも監察方の任務の一つと心得てください。それに、さんに手伝いをお願いできる分、俺の負担は減っています。さんを助けに行くことになっても、俺の全体の仕事量としては現状より減っていると思われますので、ご心配なく」

「わかったわ」

 会話しながらも、山崎は声を絞り、周囲に聞かれていないことを抜け目なく確認している。これが監察方というものなのだと思うと、は自分も同じように振る舞えるだろうかと不安になる。

「すこし、緊張するわ。わたくし、期待通りに務められるかしら」

「副長が心配ないと判断したんですから、大丈夫でしょう。それに、いきなり危険なことをお願いすることはありません」

「そうね……。ありがとう、山崎殿」

 安心したわけではなかったが、山崎の精一杯の励ましが嬉しくて、は微笑む。山崎もつられるように表情を緩めた。

「このまま、この店にいてください。しばらくすると人が来ますので、その人に先ほどのものを渡してください」

「わかったわ。誰が来るの?」

「それは伏せておきます。さんが知っている人ですから、その人が来ればわかりますよ」

「そう。わかったわ」

 山崎が言わないのは訳があるのだろうと推測したは、それ以上訊ねずにうなずいた。

「それと、さんのお茶代は、その人が持つそうですよ。遠慮なく好きなものを頼んでいいとの伝言です」

 山崎は自分のお茶代を縁台に置き、「では」と短く口にしてするりと人波のなかに紛れて行った。

 代金はその人物を待たなくてはならないとなると、余計にこの場を離れられない。はお茶を飲みながら、そのままそこにしばらく座っていた。

 行き交う人々を見るともなしに眺め、はいつ来るともわからない誰かを待つ。外出先でこんな風に時間を過ごすのは、京に来てから初めてだった。土方の仕事がどうなっているかは気になったが、山崎の手伝いをするときは他のことを考えるなと、その土方に釘を刺されていた。

 早く〝その人〟が来れば、早く屯所に帰れるのに。そうしたら、早く土方の手伝いに戻れる。

 監察方の務めをおろそかにするつもりは毛頭ない。だが、土方の直接的な指揮下を離れたことで余計に、土方を補佐する仕事に対しての想いが強くなった。

「待たせたな」

 ふと声がして振り返ると、ちょうど斎藤が縁台に腰を下ろすところだった。驚いたが眼を瞬かせると、斎藤はふっと微笑を零した。

「その様子では、山崎は俺が来ると伝えていなかったか。偶然を装うには上策だな」

「そうかもしれないわね。斎藤殿が来ると先に知っていたら、きっとこんなには驚かなかったわ」

 まだ驚きから立ち直りきれないの表情は硬いままだったが、手だけは動いて、袂から取り出した紙を斎藤に差し出す。斎藤はそれを受け取り、注文を聞きに来た看板娘にお茶を頼んだ。

「なにか食べるか? 団子か、餅か」

「ありがとう、でもいいわ。間食の習慣はないの」

 があまりに驚いていたせいか、斎藤は気遣わし気に問いかけた。ようやく小さく笑みをこぼして、は首を振る。

「もともと、あまりたくさん食べる方ではないのよ。間食したらお夕飯が入らなくなっちゃうわ」

「そうか。……すまない、女人はたいてい、甘い物が好きだろうと思っていた。甘いものは好きではないのか?」

「甘いものは好きよ。でも、三度の食事以外でなにかを食べることは、ほとんどしたことがないわ」

 の言葉が意外に思えた斎藤は、だが、次の瞬間に思い直した。は姫育ちと言っても、物理的な裕福さとは縁が薄い環境にいたのだった。

「そうか。なら、いまは茶だけでいいか」

「ええ。充分よ、ありがとう」

 すまなさそうな顔をするでもなく、実際に詫びるでもなく、の言葉をそのままに受け止める斎藤の反応は、にとっては嬉しかった。微笑んでうなずいたは、手の中の湯飲みを空にすると、立ち上がった。

「もう行くわ。ごちそうさま、斎藤殿」

「気を付けて戻れ」

 昼日中とはいえ、町の治安は決してよくない。本当なら屯所まで送るところだが、そういうわけにもいかない斎藤は短い気遣いを口にした。

 は小さく手を振り、茶店を出ると、足取りも軽く屯所に戻った。

「ただいま戻りました」

 声を掛けて土方の部屋に入ると、文机で書状を書いていた土方は一瞬振り返った。

「ご苦労だった。戻ってすぐに悪いが、こっちの書状に封をしてくれ」

「はい」

 はさっと土方の脇に寄り、示された書状をくるくると畳む。土方は変わらず書き物を続けていたが、ふと問いを掛けた。

「なんともなかったか?」

「はい。山崎殿が、わたくしでも務まるように、気遣ってくださいました」

「そうか」

 監察方の任務のことを訊かれたと、すぐにわかってがうなずくと、土方は安心したように息を吐いた。

「しばらくは忙しいだろうが、しっかり頼むぜ」

「はい」

 こうしての職務に〝監察方手伝い〟が加わった。

 副長補佐と監察方手伝いの二足のわらじは思いの外、多忙で、普通の人間と比べて疲労しにくい神族のでも、体力が持たないと感じることも珍しくなくなった。

さん?」

 ふいに至近距離で人の声がして、ははっと顔を上げる。目の前に山崎が立っていて、を心配そうに覗き込んでいた。

「大丈夫ですか?」

「……ええ。ごめんなさい、すこしぼうっとしていたみたい」

 島原で斎藤から繋ぎを受け取ったは、それを山崎に渡すために、七条近くのこの稲荷社に来ていた。本当なら、いまの京都市中は女が一人でぼうっとしていられるような町ではなかったが、幸い、ここはすこし大きな稲荷社の境内だった。同族の結界に守られて、はすこし気が緩んでしまったようだ。

 光源が少ない建物の中ではわかりにくいが、の顔には疲労が滲んでいた。日中の屋外は明るくて、その影は隠しようもない。が新選組に来て何年も経つが、が疲労している姿を山崎が見るのは初めてだった。

「申し訳ありません。俺の責任です。すこしさんに頼りすぎました」

「そんなことないわ。任務中にぼうっとするなんて、士道不覚悟ね。土方殿には内緒にしていてくれるかしら?」

 におかしなことがあれば、すぐに知らせるようにと土方に言い含められていた山崎は、に口止めされて言葉を失った。

 疲労の度合いが目に余るということなら、躊躇なく報告できた。だが、士道不覚悟は軽々に報告できることではない。士道不覚悟が認定されれば、その先にあるのは切腹のみだ。

 だからは、わざと自分が士道不覚悟だと言葉にした。山崎が大切にしてくれている気持ちを逆手に取って、自分の疲労を土方に隠し通すために。

さん、わかっていて言っていますよね?」

「ごめんなさい、山崎殿」

 思わず苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべた山崎を、誰が責められるだろうか。はすまなさそうに微笑んだ。

「わかりました。副長には言いません。ですから、さんはここでしばらく休んでから屯所に戻ってください」

「それは……」

「いえ、聞いていただきます。任務中とわかっていて、ここでぼうっとしたということは、この神社はさんが安心できる場所ということですよね? なら、ここで一刻ほど休んで行ってください」

「でも、土方殿には、半刻ほどで戻ると言って出てきたのよ。そろそろ戻らなくては、約束の時刻に遅れてしまうわ。わたくしなら大丈夫よ」

「副長には、俺から説明します。さんに追加でひとつ頼みごとをしたことにしますから、さんが勝手なことをしたことにはなりません。いいですね?」

「山崎殿……」

 からもらう予定だった紙片を受け取り、山崎は稲荷社から立ち去る。はどうしようか迷ったが、やはり屯所に戻ろうとしたところで足元がふらりと揺れた。

 悔しいが、山崎の判断は正しかった。は気配を切り替え、稲荷社の結界に意識をなじませる。稲荷社の結界と同族の神気に守られて、は回復に集中した。

 すっと身体が軽くなったのは、それからどのくらい経ってのことだっただろうか。目を開けると、すこし日差しが弱くなっていた。いつのまにか出ていた耳と尻尾を術で隠し、は稲荷社の社から離れる。

 鳥居の下に、土方が立っていた。

「土方殿?」

「もう身体はいいのか?」

 驚くに、土方は真剣な表情で問いかけた。思わずうなずいたは、はっと息を飲む。せっかく山崎が隠してくれたのに!

 の様子に気付いた土方は苦笑して、

「山崎はちゃんと、おまえに頼みごとをひとつしたって説明してくれたぜ。いまから一刻、屯所に戻るなって頼んだ、ってな」

「え?」

「おまえ、山崎が見てもわかるくらいに疲れてたらしいな? おまえは大丈夫だと言ったが、山崎の判断で休息を取らせたって報告を受けた」

「そうでしたか……」

 結局、土方にはバレてしまったのか。うつむくに、土方はひとつ溜め息を零した。

「おまえがよく働いてくれてるのに甘えて、きちんと状態を見ていなかった俺の落ち度だ。お前は悪くない。てめえの部下の体調管理も、上役の仕事だ。おまえは気にするな」

「土方殿」

「気付いてやれなくて、悪かった」

 悔いる表情で詫びる土方に、はそっと首を振った。いまの言葉だけで、また頑張るには充分だった。




 そうして夏は過ぎ、秋も過ぎて、季節は冬に差し掛かっていた。

 その日、は副長補佐の仕事で土方の部屋にいた。少し前に訪れた島田から、坂本竜馬が暗殺され、新選組の仕業と濡れ衣の噂が流されていると、報告を受けた。島田を下がらせ、その対応策を土方が考えている、ちょうどそのときだった。

「副長」

 廊下から山崎の声がした。は障子に近寄り、するりと開ける。膝をついた山崎が、緊迫した面持ちで膝をついていた。

「御陵衛士について、火急のご報告があります」

「入れ」

 聞くなり発された言葉に、山崎は反射的に従った。間髪入れず、は障子を閉める。

「伊東派の動向について、重大な情報が入りました」

 山崎の報告は、重大という言葉では表現しきれないほど驚くべきものだった。ひとつ、坂本竜馬暗殺の下手人が新選組だという噂は伊東派が流した。ひとつ、伊東は羅刹の存在を公表しようとしている。そして最後のひとつは……

「近藤さんの暗殺だと!?」

「はい。斎藤さんが掴んだ、確かな情報です」

「そんな……暗殺なんて」

 予想もしなかった情報に、ついも声を漏らす。土方が山崎の報告を受ける場面であり、自分が発言していい場ではないことは承知していたが、言葉は無意識で零れていた。

「暗殺計画の詳細はつかめたのか?」

「いえ、斎藤さんの繋ぎにそこまでは。おそらく、まだ具体的になっていないのではと思われます」

 山崎は淡々と言い切る。土方はふむ……と息を吐いて考え込んだ。


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