その日、は機嫌よく歓談する伊東の盃に、次々と酒を注いでいた。
不審に思われないように、適度に土方や近藤の盃にも酒を注ぎながら、頻繁に伊東の盃をたっぷりと満たす。
「もう攘夷などと、声高に叫んでいる場合ではございませんわ。なにせ、長州も薩摩も、このままでは外国に対抗できぬと悟って、外来の文化を取り入れ始めていますもの」
「ほほう、というと、例えばどのような?」
「そうですわねえ……例えば銃よ。外国から多くの銃を取り寄せ、洋式の訓練を積んだ部隊をつくっているのよ」
「へぇ……、近藤さん、こりゃ新選組も、いろいろ道を考え直したほうが良さそうだなぁ」
「そうでしょうそうでしょう! あなたたちも大局を見なさいな!」
「ああ。今は違う道だが、目指すところは同じだ。……もう一杯どうだい、伊東さん」
近藤と土方、二人がかりで得意の話題を振られ、上機嫌で声高に話す伊東は、促されるままに酒で喉を潤し、盃を空ける。そこに、が新しい徳利を運んできて、土方が酒を注いだ。
こうして、折に触れて、土方や近藤が自ら伊東に酌をする。もちろんも絶え間なく伊東の盃に酒を注いでいるので、伊東は自然とかなりの量を飲んでいた。
伊東は弁も立つが剣の腕も立つ。うかつに斬りあえば、こちらの損害も軽くは済まないだろう。だから酔わせて、抵抗もままならない状態にして、暗殺する。がこうして飲ませている酒が、すこしずつ伊東の命を削いでいるも同然だ。
上機嫌の顔見知り……それも、決して好意的な存在ではなかったとはいえ、一時は屯所で共に生活さえした人を、殺すために接待する。汚い仕事だと近藤は言ったが、汚いなどという言葉では表現しきれないとは感じていた。
千鶴がその手を汚さずに済んだことは、この計画の中の唯一の救いだ。千鶴がこの席を手伝うことにならなくてよかった。
だが、自分が汚れたとは、は思っていない。汚れたとか、汚れていないとか、そういう問題の話ではない。土方の配下として、為すべき務めを果たしている。ただ、それだけだ。
注がれた酒をくっと飲んで、伊東は徳利を持つに視線を向ける。
「それにしても、近藤さんのお宅で、こんな美人にお酌してもらえるなんて、思っていませんでしたわ。確かさん、でしたわね。あらためて見ると、本当に美しい人だこと」
「ありがとうございます」
「上洛したばかりの頃は、土方さんが周囲もはばからず隊内に妾を置いて、なんてこと……と思いましたけど、これだけ美人じゃ、目を離したくない気持ちもわかりますわ。うっかりしたら、どこの誰が横恋慕するか、わかりませんものね」
「そうだろ。こいつほどの女はそうそういるもんじゃねえんでな。もっとも、俺の目が黒いうちは、他の男にみすみす渡す気はねえが」
は妾ではないと何度も言い返していたのが嘘のように、土方は伊東の言葉を肯定する。この後に殺すと決めている相手の言葉に、いちいち目くじらを立てても意味はないということだろうけれど、わかっていても、こうも手放しに褒められると、恥ずかしくて顔を上げていられない。
うつむいてしまったを、伊東の笑い声が追いかける。
「あらあら、照れてしまって、可愛らしいこと。土方さんの妾でなかったら、私が妾にしてあげたのに」
「おや、伊東さんは君のような女性が好みですか」
「近藤さんまで、よしてくれ。どう言われても、誰にもを譲る気はねえよ」
「あらまあ、ごちそうさま」
伊東と近藤の口調は冗談めかしたものだったが、土方の声が思いの外、本気で伊東は目を丸くした。
「はっはっは、その君のお酌で酒が飲めるとは、我々はずいぶん運が良いようです。ところで……」
近藤がおおらかに笑って、また伊東に国事の話題を振る。伊東は手元の盃を口に運びながら、また熱心に外国について語り始めた。
それから一刻ほどして、すっかり酔いが回った伊東は、近藤の別宅を辞した。自分がしたたかに飲んだのは殺すための酒だったと、最後まで露ほども気付くことはなかった。
「今日は有意義なお話ができましたわ。それでは御機嫌よう」
上機嫌に帰っていく伊東の背中を並んで見送りながら、近藤がぽつりとつぶやく。
「……後味が悪いものだな……」
それは、も内心で思っていたことだった。だから嫌だ、だからやりたくないなどとは微塵も思わないが、正直な感想はまぎれもなくそうだった。
けれど、これは必要なことだった。近藤を失うわけにいかないし、新選組を失うわけにもいかない。
すると、土方の重い声が、夜の闇に響いた。
「これが俺たちの選んだ道。俺たちの仕事だ。……威張れるもんじゃない。こんな汚い仕事だってある……。大将も、も、あまり深く背負い込むな。計画したのも指示したのも、俺なんだからな」
それは重くひそめた声で、甘さなど一欠片も含んでいなかった。けれど、まぎれもなく優しさそのものの声だった。
自分がしたことの責任を土方に負わせる気はない。自分が望んで、自分の務めとして全うしただけのことだ。だが、土方は、わざわざ言葉にして、すべてを独りで背負ってくれた。は土方の優しさを受け取りながら、背筋をしっかりと伸ばして、二度と見ることのない伊東の背中を見えなくなるまで見送った。
それから程なく、千鳥足の伊東は、ろくな抵抗もできぬまま、永倉・原田が率いる暗殺実行部隊に殺された。
続く計画、伊東を油小路七条に遺棄し、遺体を引き取りに来た御陵衛士との戦闘に、天霧・不知火が同行する薩摩が介入してきた。その中で秘密裏に逃がすはずの藤堂が瀕死の重傷を負い、変若水を飲んで命を取り留めた。
同時に、風間が屯所を襲撃し、留守居の隊士たちに甚大な被害を残す。その最中、千鶴の兄と名乗る南雲が沖田に変若水を飲ませた。
後に油小路の変と呼ばれる事件は、こうして、新選組に大きな変化を残した。
が勝手場で朝食の後片付けをしていると、千鶴が空になった膳を持って入ってきた。
「さん、手伝います」
「ありがとう、千鶴ちゃん。沖田殿のお食事、もう済んだの?」
「はい。今日も残さず食べてくれました。少しずつですけど、よくなっているみたいです」
最近の沖田は、もともと患っていた病がよくなっていく一方で、日中に体を起こしていることが辛いらしく、食事も自室で一人で取るようになっていた。
が食器を洗う手を止めて千鶴から膳を受け取ると、手が空いた千鶴は袂から紐を取り出して襷をかける。
「よかったわね」
「はい。でも……まさか沖田さんが変若水を飲んでしまうなんて……。……私が……沖田さんの傍に居たりしたから……」
二人でタライを挟んで、食器を洗い始める。いつもは手際よく洗う千鶴だったが、今日は手が止まりがちだった。そして、手の動きと重なるように、口調も重たい。
「沖田殿は、千鶴ちゃんのせいじゃないって、言ってくれているのでしょ?」
「そうですけど……私が沖田さんの傍に居なければ、薫さんだって沖田さんに変若水を飲ませようとはしなかったでしょうし……」
すっかり消沈している千鶴に、いまは励ましの言葉は響かないのだと察して、は目を伏せる。
「ごめんなさい……。きっとあのとき、わたくしがもっと、千鶴ちゃんの兄弟のことを追及しておくべきだったのね」
「そんな、さんのせいじゃないです。私自身、兄がいるなんて知らなかったし……」
「でも、わたくしは知っていたわ。千鶴ちゃんに兄弟がいること。名前がわからなくても、稲荷一族の情報網を使えば、その行方だって調べられた。わたくしの怠慢だと言われても、返す言葉はないわ……」
伏見稲荷に頭を下げれば、千鶴の兄弟の情報は手に入れられただろう。だがそれをすれば、東国稲荷である兄と伏見稲荷との力関係に悪影響を及ぼすかもしれない。やってやれないことではないが、積極的にやりたいことではない。そんなの迷いが、千鶴の兄弟に関する調査に二の足を踏ませていた。
こんなことになるのなら、千鶴が何と言おうと、南雲の動向を把握しておくべきだった。そうすれば、こんな事態は防げたかもしれなかった。そして、ほかの者ならともかく、はやろうとすればできたのだ。
悔やんだところで事態が変わるわけではないが、それでも悔やまれてならない。言葉が続かなくなってしまったに、千鶴も言葉が出なかった。
無言のまま、二人は洗い物を続ける。やがてタライが空になる頃、千鶴はためらいながら口を開いた。
「……さんは、さっき、自分が薫さんのことを調べていればよかったって言いましたけど……私は、もしさんが調べてくれていても、同じ結果になったんじゃないかという気がします」
「千鶴ちゃん?」
「あの日の薫さんを思い出すと、そんな気がするんです。きっと、あの日あのときじゃなくても、いつか薫さんは沖田さんに変若水を飲ませに来たと思います」
「……そう」
それはあの日の南雲と言葉を交わしているからこその確信なのだろう。千鶴がここまで言うのなら、間違いなく、南雲はあの日に来なかったとしても、いずれやってきて、沖田に変若水を差し出したのだ。
「そして……もしそうなるとわかっていても、私は……沖田さんのそばを離れられなかったと思います」
懺悔するような千鶴の細い声は、悲しくてどこか甘い声だった。
「。ひとつ、お前の仕事を増やしていいか?」
夕食後、自室で仕事をしている土方にがお茶を持っていくと、土方がふとを振り返った。
湯飲みを土方の文机に置いたは、先を促すように首を傾げる。
「なんでしょうか」
「監察方の手が足りてねえのはわかってるが……しばらく千鶴から目を離さねえでいてくれるか」
「千鶴ちゃんになにかあったのですか」
「山南さんが、千鶴の血を欲しがってる」
「それは……!」
「以前、お前が言ってたことがあったよな。山南さんと千鶴を近付けねえほうがいいと。……それが現実になった」
土方によれば、今日の午後、山南が千鶴の部屋を訪れ、刀を突きつけて血を差し出すように迫っていたのだと言う。が土方の指示で斎藤宛ての書状を届けに外出していて、屯所にいない間の出来事だった。
「それで、千鶴ちゃんは……?」
「無事だ。傷ひとつ負ってねえ。おまえの忠告が活きたな」
既のところで土方が割って入り、山南に刀を引かせたが、山南は納得していない。
「山南さんがまたいつ千鶴に近づくかわからねえが、山崎や島田を張りつかせるわけにはいかねえ。最近は総司が千鶴の傍にいることが多いが、あいつも本調子とは言えねえしな。だから、それとなく千鶴に気を付けていてくれ。もし山南さんが千鶴に近づく気配があれば、すぐに知らせろ」
「承知しました」
「監察方の仕事も減ってねえってのに、負担をかけるな」
「どうぞお気遣いなく。わたくし、丈夫が取り柄です」
「どうだか。山崎がおまえに休息を取らせたの、忘れてねえぞ」
痛いところを突かれて、はうっと言葉に詰まる。あのときはつい、と言いかけて、ただの言い訳でしかないと飲みこむ。他に反論の言葉がない
「神だろうと稲荷だろうと、女の体力なんだ。無理するな。いま、おまえに倒れられたら困る」
「……はい。気をつけます」
「山南さんが千鶴に近づいた場合も、おまえが助けに入ったりしなくていいからな。下手すると山南さん、今度は稲荷の血が欲しいなんて言い出しかねねえ」
「稲荷の血なんて、なんの力もありませんよ」
「そう思ってるのはお前だけかもしれねえだろ。現に、千鶴は本人の自覚に関係なく、山南さんに血を狙われてるんだ。いいから、自分で何とかしようとするな」
「はい」
がうなずくと、土方はが持ってきたお茶を飲み、帳簿の確認に戻る。も立ち上がって文箱の前に移動すると、書状の整理を始めた。
紙を捲る音だけが響く中、土方がぽつりとこぼす。
「山南さん……血に飢えてるわけじゃねえよな……?」
問いかけているものの、が答えるとも思っていない。そんな口調だ。
は自分が応えを返して良いものかどうか少し迷って、それから口を開いた。
「わたくしの知っている山南殿は、新選組総長にふさわしい誇り高い剣士です」
「……そうか」
土方の声には、感謝と安堵が籠っていた。