桜守 34

 それからふた月あまり過ぎ、年の瀬が迫る頃、新選組は伏見奉行所に入ることになった。

 軍備を整えて集結する薩長連合軍との戦闘に備えるためだった。

 と千鶴も一緒に伏見奉行所に入り、いざというときの人員として数えられる。

 は念のために男装するように命じられた。大人の女性であるは、身なりを男物にしたところで性別を誤魔化せるものではないが、それでも遠目にもあからさまに女だとわかるよりはマシだろうということになったのだ。

 男物の袴に着替え、打刀を腰に差す。母の形見の短刀も、脇差の代わりに腰に差した。ふと思いついて、肩の下で緩く束ねていた髪を、土方と同じような高さできりりと結い直した。せっかく男装したのだから、髪型も合わせた方がいいだろうと思ったのだ。

 身支度を整えて、は部屋を出る。幹部会議に同席するよう、土方から指示を受けていた。今後の方針を決めなくてはならない会議だ。

 近藤が銃撃され、容態が思わしくない。負傷したのは肩で、生命に別状ないとはいえ、決して浅いと言えない傷だった。は自身の治癒能力を使いたいと申し出て、時間があるときには近藤の怪我に神力を注いでいたが、目に見えるほどの効果は出ていなかった。犯人についての情報はなく、近藤を狙撃した目的もわからない。

 隊務室になっている広間に入り、は末席に腰を下ろす。部屋に入るなり号令も待たずに話し始めたと見える永倉は、上座の土方に詰め寄っていた。

「で、今後、どうするつもりなんだ? 薩長の連中は政権返上だけじゃ飽き足らず、幕府の持ってる領土も何もかも返せって言ってやがるんだろ? どう考えても、戦争をおっ始める気満々だ。今のうちに、戦う準備を進めておくに越したことはねえ」

「……だろうな。奴ら、年若い天子様を担ぎ上げて、我が物顔で朝廷に出入りしてやがる。ついこの間まで、朝敵として京への出入りを禁じられてた連中のくせにな。で、そいつらとの戦争の準備をどうするかだが――」

 土方の鋭い眼に見回されて、島田が口を開く。

「山南さんは、羅刹隊の増強を強く主張しているようですが……」

「俺は反対だ。これからの戦は、不逞浪士を取りしまってた頃とは違う。敵味方入り乱れて戦う中で、連中の手綱をうまく取れるとは思えねえ。戦力にはなるが、危険過ぎるぜ」

「……だな。何より、人道的に見て問題があるだろ」

 島田の発言に、反対した原田の口調は強かった。当てにできないという理由の他にも、原田の中でわだかまる何かがあるようだった。永倉が原田の意見にうなずくと、斎藤が静かに口を開く。

「……では、他にどんな方法がある? 異を唱えるなら、代案を出すべきだ」

「だから、俺らだって考えてんだろ。そんなすぐ、いい案が出たら苦労しねえよ」

 斎藤の反論は正論であるだけに、言い返す永倉の語気は強くなる。代案がない反対など、議論の邪魔でしかないことは、永倉自身もよくわかっているのだろう。

「副長は、どう思われます?」

 島田に助けを求めるように問いかけられ、腕を組んで考え込んでいた土方は顔を上げた。

「……とりあえず、もう少し考えさせてくれ。薩長の出方を見なきゃ何とも言えねえし、幕府側の意向もあるからな」

 土方に結論がないというのは意外に思える事態だったが、同時に、場を畳むにはちょうど良かった。

 会議が終わって、幹部たちがそれぞれの持ち場に戻って行く。も治療のために近藤の部屋に行こうとしたところで、土方に呼び止められた。

「近藤さんの具合はどうだ?」

 土方の問いかけに、は無言で首を振った。

「わたくしの経験が乏しいのがいけないのですが……思うように傷がふさがりません。出血を抑えるのが精一杯です」

「おまえの経験ってのはなんだ」

「銃で撃たれた傷は、いままで見たことがありませんでしたし……どういうふうにできた傷なのかも知識がありません。ですから、どうすれば傷がふさがるのか、見当がつかないのです」

「そういうことか」

「なんとなく、えぐられた傷に似ているかと思って、それで血が流れるのを抑えることはできています。ですが、それ以上の効果は出ていません……。……力が及ばず、どうお詫びしたらいいか」

「いや、血が抑えられてるだけでも充分だ。山は越したとも聞いてるしな。……それはそれとして、おまえは大丈夫か?」

 項垂れていたは、不意に気遣われて、驚いて顔を上げた。心配そうな土方が、眉間にシワを寄せて、を見ている。

「連日、近藤さんに神力を注いでて、疲れてねえのかって聞いてるんだ。俺には神力とか稲荷のことなんかわからねえからな。おまえが自分から言わねえと、倒れそうなのかどうかも気付いてやれねえ」

「土方殿……」

「で、どうなんだ?」

 いくつもの難題を近藤の分まで背負って、自身も疲れているはずなのに、土方はこの瞬間、の体調のことしか考えていない顔をしていた。はそれに気付かなかったけれど、土方が気遣ってくれたことが嬉しくて、にっこりと微笑む。

「どうぞご心配なく。夜はきちんと休んでいますし、倒れたりしないよう、自分でも気を付けています」

「本当だな?」

「はい。わたくしが倒れたら、その日、近藤殿の出血を抑える者がいなくなってしまいますから」

 わかっているから大丈夫だと言外に含ませて、は土方をまっすぐに見つめ返す。土方は確かめるようにしばらくから視線をそらさなかった。

 やがて、ため息をひとつ零して、土方はに背を向ける。

「ならいいが、近藤さんも山を越したんだ。おまえも無理するなよ。倒れたら、伏見稲荷に叩き込んで、二度と新選組に戻らせねえからな」

「……胆に銘じます」

 まさか伏見稲荷を持ち出されると思っていなかったは、言葉に詰まりながら、なんとかそれだけ応える。一礼して広間を出ようとすると、土方の低いつぶやきが耳に届いた。

「……結局、すべての責任は俺にあるってことか」

 土方はに聞こえているとは思っていないようだった。は聞こえていないふりをして、そのまま近藤の部屋に向かう。

 いいことはすべて、近藤の采配によるもの。

 よくないことはすべて、土方に責任があるもの。

 舵取りが難しい局面だというのに、そんな構図がいまだ当たり前に存在していることが、だからと言って土方のためになにができるわけでもないことが、には切なかった。




 大坂城で松本良順の治療を受ける。

 数日後、土方がそう決定して、近藤と沖田が大坂に向かうことになった。近藤は肩の銃創のために。沖田は労咳のために。そして、二人には千鶴が付き添うことになった。

 三人を送り出して、年明け一月三日。

 薩長連合軍が伏見奉行所に攻撃を開始した。

 すぐ近くの御香宮神社から大砲をひっきりなしに打ち込まれる。着弾の度に、地震かと思うような揺れと轟音が起きて、奉行所内は騒然となった。

「土方さん、もう無理だ! 奴ら、坂の上にバカでかい大砲を仕掛けてやがる! 坂を登ろうとした端から撃ち殺されちまう。ありゃ、斬り合いに持ち込むなんて無理だぜ」

「……しかも奴らの持っている銃、射程が恐ろしく長い。かなり離れているというのに、二発に一発が命中している」

 近藤が負傷で戦線離脱しているだけでも充分悪いのに、日中とあっては羅刹隊を使うこともできず、戦況はどんどん悪くなっていく。戦況報告に来た原田と斎藤が口々に告げたのも、想像したことがないほど悪い内容だった。

「新八の奴はどうしたんだ? 見当たらねえが」

 ふと室内を見回した原田が疑問を口にする。土方はなんでもない口ぶりで答えた。

「新八なら、二番隊十五名と共に、敵陣へ斬り込みに行ってる」

「敵陣に斬り込みって……、正気か!? どう考えたって、生きて帰って来られるはずがねえだろ!」

 実際の戦闘を見ている原田の危惧は、現実になっておかしくないものだった。

 ここで永倉を失うことになれば、深刻な痛手を被ることになる。戦力としてはもちろん、精神的支柱としても、永倉の存在は大きかった。試衛館派にとっては江戸からの同志であり、結成当時からの仲間でもある。剣の腕にしても、組長の中でも指折りの実力者だ。感情的になりやすいのが珠に瑕だが、土方を相手に堂々と正論を言えるのは、永倉ぐらいのものだ。

 その永倉を、ここで失うのか。

「…………」

 土方は青ざめるほど強く唇をかみしめる。

 土方の無念さを感じ取ったは、気配が一つ増えたことに気付いて顔を上げた。

「よっ、ただいま! 今、戻ったぜ」

「……新八!」

 部屋の入り口に永倉の姿があった。激しい戦闘から戻ってきて、埃と泥、返り血で汚れているものの、大きな負傷があるようには見えない。

「い、生きていたのか!? まさか……」

「おっと、幽霊じゃないぜ。よく見てくれよ、足もちゃんとついてるから。ただ、敵本陣に飛び込むのはどうやっても無理だった。先に出て行った会津の部隊も、押し返されてるみてえだ」

 永倉が無理だと言い切るからには、兵力の限り突入を試みたに違いなかった。おそらく、率いていた二番隊十五名は、ほとんど帰還していないだろう。人数では新選組を上回っているはずの会津の部隊も押し返されているのなら、現存兵力で太刀打ちできると考えない方がいい。

「……副長、これ以上は無理です。撤退のご決断を」

 誰かが言わなくてはならない、でも誰も言えないでいた進言を、島田が口にする。土方はぎりっと眉間に皺を寄せ、かつてこれほどの怒りを見せたことがあったかと思うほど、険しい表情を浮かべた。

 それでも、土方は〝撤退〟の指示を発しない。土方の決断を、全員が待ち構えていたそのときだった。

「おい、何だこりゃ? どこかから煙が流れてきてやがるぞ」

「大砲の火が、奉行所に燃え移ったか! さっさと逃げねえとやばいぜ! 土方さん、撤退だ!」

 話している間も絶え間なく続いていた砲撃が、ついに奉行所の建物を燃やし始めた。気付いた原田が上げた声を聞いて、永倉も土方に決断を迫る。

 それでも土方はうつむいたまま、指示を出さない。

「トシさん……」

 それまで静かに場を見守っていた井上が、気遣うように土方に呼びかけた。

 新選組はいままで撤退したことなどなかった。士道ニ背キ間敷事と局中法度にあるのだから、撤退など言語道断だ。撤退することがないよう、土方が心血を注いで、作り上げた。寝る間も惜しんで、手を汚すことも厭わず、誰よりも新選組にすべてをつぎ込んできた。

 その土方が、自分で、新選組にそれを命じなくてはならないのか――

 言葉にならない悔しさが、の胸中を駆け巡る。だが、この場でいちばん悔しい思いをしているのは、自分ではないとわかっていた。

「……なるほど。もう、刀や槍の時代じゃねえってことだな」

 土方の口から、溜め息と共に、つぶやきがこぼれる。諦めなのか、現実を受け入れたのか、低い声からはどちらともわからない。

 きつく握りしめられた土方の両手には、うっすらと血がにじんでいる。その瞳は滾る悔しさでぎらぎらと燃えていた。

「…………ここは撤退だ。だが、まだ負けたわけじゃねえ。この借りは必ず返してやるからな」

 言い放った土方の声は、決意に満ちた力強い声だった。




 燃え上がる伏見奉行所から怪我人や物資を運び出し、撤退した新選組は、翌日、幕府兵や会津藩兵と共に鳥羽に陣を敷いた。ここから薩長連合軍を押し返すはずだったが、戦況は思いの外悪く、再び敗走する。

 結局、鳥羽からさらに後退したところで、あらためて陣を敷くことになった。新選組の陣と決められた場所で、人員配置や偵察、情報収集に入り乱れる隊士たちの中、も怪我人の手当てや物資の補給で忙しく動き回っていた。

 不意に声を掛けられ、振り返ると、土方が手招きしている。近くを通りかかった隊士に、持っていた荷物を引き継ぐと、は小走りに駆け寄った。

 土方の隣には、井上もいた。

「いまから淀藩に援軍を要請して来い。淀藩の兵を足して、戦況を立て直す。そう簡単に破られるつもりはねえが、薩長が持っている銃は射程が長い上に照準の精度も高い。加えて、こっちは昨日の敗戦で動揺して、士気ががたがただ。できるだけ急いで行って来てくれ」

「承知しました」

「副使と護衛で源さんに同行してもらう」

「はい」

 うなずいたは、井上に頭を下げる。

「忙しいところにお手数をかけてしまうけれど、よろしくお願いします」

「こちらこそ、頼りない護衛かもしれないが、精一杯務めるよ。さあ行こう、時間が惜しい」

「はい。それでは土方殿、行ってまいります」

「頼んだぜ」

 土方にも一礼したは、井上と共に出立した。


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