桜守 35

 女である自分が、こんなに重要なことを託されていいのかと、ちらりと考えないこともなかったが、近藤と沖田の負傷離脱や、初めて経験する敗戦からの立て直しで、他の組長たちは多忙なのに違いない。本当は井上を付けるのも無理してくれたのだろうけれど、どこで薩長の兵と鉢合わせるかわからない状況では、護衛がいることはとても心強くてありがたかった。

 淀まではだいぶ距離がある。体力の配分を計算しながら、可能な限りの早足で歩き、街道を進んでいく。

「土方殿のあんな顔、初めて見たわ」

 歩きながら、ぽつりとはつぶやいた。しゃべった分だけ、体力を使う。その分、歩みが遅くなるかもしれない。けれど、無言で歩き続けていると、不安で足が止まってしまいそうだった。

「あんな……あんな土方殿、見たくなかったわ……」

「そうだね」

 井上はの言葉にうなずいて、しみじみと応じる。

「あの人にゃ、負けは似合わない。私も、もう、あの人のあんな顔は見たくないな。あの人がどんな思いで撤退の言葉を口にしたか……、付き合いの長い私には、よくわかってるつもりだ。負け戦なんてのは、一度経験すればもう充分だよ」

「井上殿」

「私は、刀としてはまるっきり勇さんたちの役に立たないと思ってる。ただ、こんな私でも、新選組を勝たせる為にできることはきっと何かあるはずだ。だから……、頑張ろうな」

「はい」

 井上が、らしくなく長口舌を振るったのは、落ち込むを奮い立たせるためだとわかって、はきっぱりとうなずく。そして、再びしっかりと歩を進め出した。

「不思議ね。井上殿と話していると、とても安心して、気持ちが前に向くわ」

「そうかい?」

「ええ。……わたくしが後妻の娘でなかったなら、お父様も井上殿のように接してくれたのかしら……」

 言っても仕方のないことを、つい、つぶやくと、井上は眉間に皺を寄せて難しい顔をした。

は私とそんなに離れていないだろう。父親はひどいよ」

「あら、ごめんなさい。井上殿、御歳が近かったのね」

「私とトシさんは、確か六つ違うんだったかな。はトシさんと同じくらいだろう?」

「ええ、同い年かひとつ違うくらいだったと思うわ。……ああ、ごめんなさい。確かに、井上殿をお父様の引き合いに出すのは失礼だったわね」

「ははは、かまわんさ。私は歳より老けて見えるらしいからね。でもまあ、トシさんも勇さんも、私にとっては弟みたいなものだし、も兄さんくらいにしておいてくれると嬉しいかな」

「ええ。……でも、お兄様も井上殿のように優しくはなかったのよ」

「そうなのかい……。もしが嫌じゃなかったら、私を兄だと思ってくれて構わないよ」

「えっ……いえ、とんでもない。井上殿をお兄様なんて、図々しいわ」

「図々しいことはないさ。弟の嫁さんなら、妹でおかしくないだろう?」

「えっ!?」

「さ、もうすこし早く歩こう。トシさんが私たちの帰りを待っているよ」

 思いがけない井上の言葉にが驚いているうちに、井上はすたすたと歩いて行ってしまう。置いて行かれないように足を速めたは、歩くことに精いっぱいで、井上に発言の真意を問いただしそびれてしまった。

 数刻後、休むことなく歩き通して、と井上は淀城に到着した。しかし、城門は固く閉ざされて、戦に備えている様子もない。

「これは……どういうことなのかしら。薩長軍に備えているということ……?」

 困惑するの横で、井上は難しい顔をして考え込む。やがて、顔を上げると、大音声で口上を述べる。

「我々は、幕命を受けて参った! 御上に弓引く逆賊を迎え撃つ為、力を貸して貰いたい!」

 しかし、城門は一向に開くことなく、城内にも動きの気配がなかった。不審と不安で顔を曇らせたを、不意に井上が抱きかかえるようにして地面に押し倒した。

「危ない、伏せなさい!」

 パン! パン! パン!

 井上の声をいくつもの銃声が追いかける。少し離れた地面にビシッと着弾があったのを見て、は自分たちが銃撃されたのだと知った。

「どういうこと!? 淀藩は佐幕のはずでしょう?」

「薩長の勢いに気圧されたか、はたまた民を戦乱に巻き込みたくないとの深謀遠慮か……とりあえず、本隊に戻ろう。これ以上ここにいるのは危険だ」

 土方の補佐をしていて、淀藩は佐幕側だと知っているからこそ、の驚愕は大きい。呆然とするを引き起こして、井上は帰還をうながす。

 は腕を引く井上に逆らい、

「でも、そうしたら援軍は……!? 土方殿は淀藩の援軍を待っているのに!」

ももうわかってるだろう。彼らは、我々の味方ではない。ここに長居すればするだけ、を危険にさらすことになる。トシさんのために増援を呼びたいのは、私だって同じだ。だが、私はの護衛でもある。もしに何かあれば、命令に背くことになるんだ」

 井上の、聞いたことがないほど厳しい声と真剣な眼差しに圧されて、はそれ以上言い返す言葉もなく、井上に引かれるままに淀城の城門を後にする。

 なんのためにここまで来たのか。という思い以上に、こんなときに井上の足を引っ張り、土方の希望を叶えられない無念を井上に味わわせたという情けなさが、を襲った。

 井上は、剣の腕が立たない自分にもできることはあると、援軍要請の使者に立ったというのに。

 自分ではなく、永倉や原田だったら、こんな風に井上に撤退の判断をさせずに済んだかもしれない。いや、井上一人でも、きっと自分と一緒よりずっと、粘ることができていただろう。

 なのに。

 せめてなにか役に立てることはないかと、は井上の後ろを歩きながら考える。

「大阪城まで行く……のは、無理だわ、間に合わない。伏見様はきっとお社と眷属を守ることを優先なさっているだろうし……あと、援軍を頼めそうなところ……」

「愛宕一族に供物を用意する余裕はないし……」

、もういいよ」

 ぶつぶつと独り言を言いながら考え込んでいたを、井上の優しい声が現実に引き戻した。

「なに、トシさんのことだ。きっとこの状況をひっくり返すだけの奇策を考えてくれるさ」

「井上殿……」

「まずは、二人無事に戻ること。使者は結果を持ち帰るまでが任務だよ。さあ、急いでトシさんに報告に行こう」

 井上自身も相当悔しい思いを抱えているだろうに、それをちらりとも見せずに微笑んで言い聞かせてくれる姿は、とても頼もしく安心できるものだった。

「……そうね。急ぎましょう」

 うなずいたは、背筋を伸ばし、顔を上げて、供をしてきた隊士たちが待っている場所に向かって、しっかりとした足取りで歩きだした。

 程なくして井上とは本隊を待機させていた地点まで戻ってきたが、肝心の本隊の姿が見えない。不審な面持ちを隠しきれず、顔を見合わせた二人は、辺りの気配を窺いながら慎重に足を進めた。

 二人もいて道を間違えたとは考えられない。井上の部下は、組長に似て実直なものが多い。勝手に場を離れて歩き回っていることはあり得ない。万が一脱走したにしても、待機させた全員がいなくなるとは思えない。第一、誰かがいる気配はあった。だが、妙に混濁していて、それが隊士たちの気配だと言い切ることができない。なにか異常な事態が起きている可能性が極めて高かった。

 足音を殺して林道を進んだ先、角を曲がったところで、思いがけない……でも心のどこかに予感があった光景が、視界に飛び込んできた。

 折り重なる物言わぬ隊士たち。その隊服は鮮紅で汚れている。現実にならないでほしかった、脳裏をかすめた予感と同じ。

 その中心の立つのは、嘲笑と言うべき微笑を湛えた風間。まさかこんなところにいるとは思いもしなかった存在。

 ああ、だから気配が混濁していたのか。とは悟る。存在はしているけれど生きていないたくさんの気配に、隠す気がない人外の気配が混ざっていたからなのだと。

「見覚えのある羽織を着た連中がうろついていたのでな。もしや千鶴が来ているかと期待したのだが……千鶴ではなく、東国稲荷の姫だったか」

 思わずその場で足を止めたと井上の姿を見て、風間は億劫気に口を開く。

「戻って来るまでの退屈凌ぎにこの連中と遊んではみたが……暇すらつぶせなかった上に、千鶴はいないときた。無駄どころの話ではない」

「……」

 の隣で、井上が小刻みに肩を震わせる。部下を失った悲しみ。部下を侮辱された怒り。きっと、部下を犬死にさせた自責もある。でさえ許し難いと思った風間の発言は、組長である井上にはこの上ない暴言だった。

 だが、風間を相手にして、弔い合戦などするべきではない。井上の剣術の腕前がどうという問題ではなく、そもそも鬼の身体能力に人間が敵うはずがないからだ。種族では風間より格上のにしても、戦闘向きに鍛えている風間と互角に戦えはしない。なんとか二人でこの場を離れる術はないものかと、は周囲を窺う。

 あるいはこの場を離れられなくても、周囲に人目がないなら、神力を使えるかもしれない。そうすれば、井上がこの場を離れるまで、が風間の足止めをするくらいはできるかもしれなかった。

「井上殿」

「……下がっていなさい」

 合図をしたら、この場を離れて。そう言おうと口を開くのと、井上がの前に出るのとは、ほとんど同時だった。

「早く逃げなさい。そして、トシさんにこう伝えてくれ。……力不足で申し訳ない。最後まで共に在れなかったことを許して欲しい。こんな私を京までいっしょに連れて来てくれて……、最後の夢を見せてくれて、感謝してもしきれない……、とね」

「なにを言うの、井上殿? そんな、遺言みたいなこと……」

 井上の声は明るくきっぱりとしていて、とても力強く響いた。その言葉に込められた覚悟の強さと、その覚悟が意味するものを察して、は思わず、井上の袖を掴む。

「だめよ、二人で戻るのよ。使者は結果を持ち戻るまでが任務なんでしょ? わたくしが神力を使えば、風間の足止めくらい……!」

「女を盾にして逃げろっていうのかい? そりゃ、武士の風上にもおけんだろう」

「井上殿!」

「だいたい、を置いてひとり逃げ戻って、私がトシさんに合わせる顔があると思うかい? 預かった嫁さんを無事に戻せなくて、なにが護衛だ。……さあ、は早くトシさんのところに戻りなさい」

「嫌よ! 井上殿を置いてひとり逃げて、それこそわたくしにどの顔で土方殿の元に戻れと言うの!?」

「どんな顔をしていても、は戻ればそれだけでいいんだ。さあ!」

 強い力で袖を掴む手を解き、悲壮感などまるでない優しい声での反論を封じると、をぐいっと押し遣って、井上は風間に向き合って抜刀した。

「今生の別れは済んだか。では、先程の言葉に込められた本気がどれほどのものか……、試してみるとするか」

「うぉおおおおお――っ!」

 押されたがよろめいて、たたらを踏んで後ずさった、その隙のことだった。

 挑発する風間に、井上は猛然と斬りかかる。渾身の気迫を込めて、風間の首筋を狙って刀を振り下ろした、その時。

 井上の刀が風間の首筋を切り裂くよりも早く、風間が井上のがら空きの胴を抜き打ちで斬った。

「ぐぶっ――!」

 井上の喉からくぐもったうめき声が漏れる。血液や胃液がせり上がって喉をふさいだのだろう。体液は口から溢れて、井上の口元から喉、隊服の胸までを赤く汚す。

「井上殿っ!」

 堪らずに膝をついた井上に駆け寄ろうとして、しかし、は迷って足を止める。井上は自分を逃がすために風間に挑んでいるのに、自分がここに踏み止まり、井上に駆け寄ることは、井上の気持ちを踏みにじることにはならないか? 井上の身を案じて割って入ることは、井上の矜持を傷つけることにならないか?

 だからと言ってこの場を去ることはできなかった。井上はを実の妹のように扱ってくれ、愛しんでくれた人だ。も井上を兄のように慕ってきた。いくら兄の願いでも、見捨てろと言われているも同然の願いなど聞けない。聞きたくない。

「どうした? 人間。先ほど、俺に殺された連中は、おまえの部下なのだろう? 仇を討ちたくはないのか。武士というのは、仲間の仇討ちを美徳すると耳にしたぞ」

「うぉおおおお――っ!」

 風間の挑発は、できたばかりの井上の心の傷をさらにえぐり、踏みつける。井上は深手の激痛の中、目を見開いて風間を睨みつけ、再び風間に斬りかかる。

 風間は冷笑を浮かべたまま、するりと井上の剣をすり抜ける。井上に新たにできた袈裟に斬られた傷から勢いよく血が噴き出した。

「……済まんな、どうも力が入り過ぎてしまったようだ」

「く……!」

 深手を二つも負い、残されたわずかな力でようやく踏み堪えた井上は、去ることができずに立ち尽くすを見つける。

「……なにをしている!? 早く逃げんか!」

 井上の鬼気迫る怒声は、の心を強く揺さぶった。この人の言うことを聞かなければ。反射的にそう感じたは、ぱっと井上に背を向ける。

 すぐに逃げなくてごめんなさい。

 言うことを聞くから。

 言われたとおりにするから。

 ちゃんと土方殿のところに帰るから。

 だから、お願いだから死なないで――

 の願いは、井上に背を向けたのとほぼ同時に、砕かれた。


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