「……やれやれ、今まで戦った人間共の中で、おまえがいちばん脆弱だったぞ。なぜおまえのような非力な者を仲間に迎えようと思ったのか……、新選組の連中も妙なことをする」
その日一番の侮辱を、冷笑を浮かべた風間が口にする。ずぶりと刃が肉を断つ音が空気を震わせた。
「井上殿!」
逃げようとしていた足を止め、井上を振り返って、は絶叫にも近い声で井上を呼ぶ。振り返ったの視線の先で、悲鳴ひとつ上げずに、井上の身体が地面にくずおれた。
駆け寄ったは、全身朱に染まった井上の身体に手を伸ばす。絶命した身体はずっしりとして、の腕ではとても抱き起せない。その重みが、井上の命が失われたことを、に実感させた。
「井上殿、嫌、死んでは嫌、起きて……お願い、起きて、返事をして……井上殿っ」
必死に呼びかけながら、は井上の身体を仰向けさせる。ごろりと転がすしかできず、心が痛んだが、抱き起せないのでは他にやりようもなかった。膝の上に抱えたかったが、膝の上まで井上の上体を持ち上げることもできない。仕方なく地面に寝かせて、井上の顔についた土を手で払う。
そうしながらも、は井上に触れたその瞬間から、絶えず治癒の神力を注いでいた。見開かれたまま瞬きをしない井上の瞳が光を宿していないことも、その意味するところも、本当はわかっているのだけれど、認めてしまったら井上は帰ってこない気がして。
まだ井上の身体は温かい。間に合ううちに、急がなくては。
いまのうちに血を止めたら。深手の傷だけでも、すこしでもふさげたら。
井上はまた優しく笑ってくれるかもしれない。
急がなくては。
は変化の術を解いて、術のために使っていた神力も井上に注ぐ。ありったけの神力を井上に注いで――しかし、井上の傷はすこしもふさがらなかった。
自然治癒力を壊された傷を回復することはできない。以前、自身が山南に説明したその理を、いまのは拒んでいた。
亡骸にいくら神力を注いでも、それは底が抜けた瓶に水を貯めようとしているのと同じことだ。だが、いまのはそれを認めることを拒む。
が注げる限りの神力を注いで、これ以上注げる神力がなくなって、ようやくは井上の死を認めなくてはならない現実を直視せざるを得なくなる。呆然としながら、無意識に手が動いて、見開かれたままだった井上の瞼をそっと閉じてやる。
虚ろに座り込むの心を逆撫でたのは、風間の無情な一言だった。
「稲荷一族と事を構える気はない。命拾いしたな、東国稲荷の姫」
「本当にそう思うの?」
は静かに風間を睨みつける。
「わたくしにも新選組副長補佐の矜持くらいある。仇討ちが美徳であることも知っていたわよね?」
「ちっ」
みすみす行かせはしないと気迫を漂わせるに、風間は面倒くさそうな舌打ちをした。を殺したくないのは本心のようだ。
風間に敵わないことはわかっている。それでも、そういう問題では、もうない。稲荷の姫として、そして新選組副長補佐としての矜持をかき集めて、井上を殺された悲しみと一緒くたにして支えに変えて、は立ち上がる。
風間と戦うために使える神力は残っていない。風間と戦っている間に、充分量が回復する見込みもない。頼れるのは、実家から持って出てきた打刀一振りと、母の形見の短刀だけだ。だが、それだけでもあるなら、退きはしない。
歩みの途中で道を断たれた井上の無念を晴らさなくては、敵わぬまでも風間に一矢報いなくては、土方に会わせる顔などない。
打刀の柄に手を掛け、が抜刀しようとした時だった。
「おい、誰がそんな真似を許した? お前の任務は使者だろうが。結果の報告をどうするつもりなんだよ」
足音と共に土方の声がする。井上との後を追って来ていたのだった。
狐の耳と四本の尾を露わにしたと、その向こうに横たわる井上。どちらも血で真っ赤に汚れている。そのと対峙している風間。
土方が状況を把握するには、それだけで充分だった。
「……くそっ、嫌な予感が的中しやがったか」
「土方殿……っ!」
土方の姿を目にした途端、の中で張り詰めていたなにかが切れる。震え出す眼差しと声で、は絶対に伝えなくてはならない言葉を告げた。
「井上殿から……伝言を預かりました。力不足で申し訳ない。最後まで共に在れなかったことを許して欲しい。こんな私を京までいっしょに連れて来てくれて、最後の夢を見せてくれて、感謝してもしきれない。……と」
言いながら、の目に新たな涙が溢れる。使命感に駆られて預かった言葉を伝えるけれど、それは井上を失った悲しみをさらに呼び起こすばかりだ。
井上の遺言を届けるの泣き声を聞きながら、土方は骸となった井上を見つめる。実直な兄貴分は、その人柄のままに己が職務に命を捧げたのだろう。が無傷でそこにいることが、なによりその証明だった。
束の間悼むように目を閉じた土方は、激しくも冷たい怒りを宿して目を開く。刀を抜き、風間に向かって突きの構えを取った。それは、井上の無念を晴らすと決めた剣士としての行動だった。
「……やれやれ、無駄死にがまた増えるか。何故そこまで死に急ぐのか、理解できぬな。手間はかかるが、仕方あるまい。かかって来い」
「……無駄死に、って言いやがったか、今。この俺の前で、無駄死にとほざきやがったか!?」
億劫気な口調で井上を侮辱する風間の物言いにぎりっと目の色を変え、土方は風間の間合いに飛び込む。その勢いのまま、風間の首筋めがけて一撃を繰り出すが、風間は刀の棟で土方の刃を防いだ。
「くっ……!」
咄嗟に防いだものの、力が拮抗して、風間の口からうめき声が漏れる。そのまま圧し負けた風間は、その事実に愕然とした。
「なんだと……!?」
その隙を逃さず、土方はさらに打ち込みを重ねる。がむしゃらに、勢いに乗って次々と繰り出される打ち込みを、風間はようやくのことで凌いでいく。
「くっ……!」
人間に圧し負けるなどあり得ないという慢心を崩された動揺から立ち直らないうちの土方の猛攻は、経験したことのない劣勢に風間を追い込んでいた。
焦りを浮かべ始めた風間に対し、土方は口元に薄く笑みを浮かべて、渾身の一撃を振るう。しかし、その瞬間――
「……まさか、この姿を人前にさらすことになるとは思わなかった。喜べ、人間。本物の鬼の姿を目にした瞬間に、死ねるのだからな」
「ぐっ――!」
白髪に金色の瞳、そして額に二本の角を表した風間が言葉を発するのと同時に、凄まじい速さで刀が走った。優勢だった土方は、目視するのが精一杯の太刀筋に攻め込まれ、たった数合のうちに防戦一方になる。
「どうした、さっきまでの勢いは!? おまえの感じていた悔しさとは、その程度のものだったのか!?」
「くそっ――!」
息も乱さずに打ち込みを重ねる風間に対して、土方はすこしずつ呼吸が上がっていく。攻める隙が見つけられず、流れを変えるきっかけが掴めない。このままでは、大してかからずに土方の体力は尽きてしまうだろう。
は井上の亡骸の隣で、二人の打合いを見ているだけしかできなかった。神力が残っていれば、土方の援護くらいはできたかもしれなかったが、それも叶わない。そもそも土方の意地と誇りを掛けた戦いに割って入っていいとも思えなかった。
邪魔にならないよう気を配りながら、静かに、けれど急いで神力を貯めることしか、いまに出来ることはない。こんなとき、もっと尻尾の数が多い、神格が高い稲荷神だったなら、きっと土方の助けになれただろうに。
悔しさを噛み潰して見守るの視線の先で、ついに土方が反撃に出る。
「くそったれ――!」
起死回生とばかりに斬りかかった土方の動きを、しかし風間は易々と見切って、その手から刀を叩き落とす。
「ぐあっ……!」
うめいた土方は、堪りかねて地面に膝をついた。呼吸はすっかり上がっていて、全身から疲労がにじみ出ている。風間はそれでも容赦なく、刀を土方に向けた。
「……これで、終いだ。人間というのは、愚かなものだな。敵わぬと知りながら我らに立ち向かう……。それは勇気ではなく、蛮勇と呼ぶのだ。鬼の力を軽んじ、恐れることを忘れたおまえたちが悪い。……己の不明を恥じて死ね」
勝利を確信した風間の言葉に耳も貸さず、土方はほとんど力が残っていない体を引きずって、落とした刀を拾う。
「なにをしている。まさか、逃げるつもりか?」
嘲り、挑発する声に構わず、土方は握力も尽きた手で、それでも柄を握り、風間に向かって構えた。
「……まだ足掻くつもりか。あれだけ虚仮にされて、まだ彼我の実力差を理解できんとはな」
風間の嘲りを聞き流し、土方は袂から小瓶を取り出す。小瓶の中には、赤い液体が詰まっていた。血のような赤い色が不吉に見えて、は眉をひそめる。
「……変若水か。どこまでも愚かな真似を」
「愚か? それがどうしたってんだ。俺たちは、元から愚か者の集団だ。馬鹿げた夢を見て、それだけをひたすら追いかけてここまで来た。今はまだ、坂道を登ってる途中なんだ。こんな所でぶっ倒れて、転げ落ちちまう訳にゃいかねえんだよ……!」
嫌悪感も露わな風間に、歪んだ笑みを浮かべて、土方は啖呵を切った。追い込まれただけでは終わらない。それが土方歳三という男だ。生き様を貫くためなら、それがなんであれ躊躇なく掴み取り、囲みを破って突き進む。
実際の変若水を見たことがなかったは、風間の反応で初めて、土方が持つ小瓶の正体を知った。同時に、瓶の中の液体を不吉だと感じた自身の直感に納得する。あんな禍々しい気配の液体など、他に見たことがない。
けれど、変若水がどんなものか知っている土方が飲むと決めたのだから、いま土方には変若水が必要なのだ。土方が変若水を飲むと言うのなら、に止めるつもりはない。自分のしたいことは、土方の行動に干渉することではない。信念のままに進む土方について行くことだ。
あれを飲んだ山南や藤堂、沖田が副作用に苦しんでいることも、知っている。副作用で土方が血に飢えるなら、自分の血を差し出せばいい。夜しか行動できなくなるなら、昼は自分が名代になればいい。
土方がそのために必要だと判断して変若水を飲んだからには、土方は風間に勝つのだ。
「……たとえ羅刹となったとしても、所詮はまがい物。鬼の敵ではない」
「……そんなのは、やってみなきゃわからねえぜ」
変若水をひと息に飲み干した次の瞬間、土方の髪は真白に変わった。瞳は赤く光り、眼差しに力が戻っている。体力も回復しているようだ。
「……うるせえんだよ。いい加減、我慢ならねえ。腰抜けの幕府共も、邪魔くせえ鬼も。まがい物だと? それがいったいどうしたってんだ。俺たちは今までも散々、武士のまがい物として扱われてきたじゃねえか。だけどな……、今の世の中、どこに武士がいるってんだよ? 腰が引けて城ん中閉じこもって、日和見決め込んで……。あわよくば勝ち馬に乗ろうなんて考えてる卑しい連中ばかりじゃねえか。俺たちはそんな連中より、よっぽど武士だぜ! なにがあっても、てめえの信念だけは曲げねえ。どんな時でも、絶対に後退はしねえ。俺たちは、それだけを武器にここまでやって来た。まがい物だろうがなんだろうが、貫きゃ真になるはずだ。つまり……、この羅刹の力でおまえを倒せば、俺は……、俺たちは、本物になれるってこったろ?」
薄く笑みさえ浮かべて、土方は地面を蹴る。その太刀筋に、疲労はもう見えなかった。猛然と、羅刹の速度と膂力で斬りかかる。
「くっ……!」
風間は土方の刀を受け止めて防ぐが、先程の余裕はなくなっていた。二撃、三撃と襲ってくる打ち込みを、風間はなんとか受け止め、凌ぐ。形勢は再び土方に傾いていた。
「ほら、どうした!? 俺たちは虫けらなんだろ? 押し負けてるぜ、鬼さんよ!」
赤い瞳をぎらつかせて、土方は狂気すら感じられるほどの笑顔で風間を追い詰めていく。風間は打ち返すどころか、息をする余裕さえ奪われていた。
「ぐ……!」
呻いて、土方の刀を防ぐも、受け止めるのが精一杯の風間はその刀を弾き飛ばされた。
「くっ――!」
勢いで、風間の体勢が崩れる。土方はその瞬間を見逃さなかった。
「ぐぁああっ……!」
顔を十字に斬りつけられ、風間は飛び退いて大きく距離を取った。うつむき、顔を手で押さえた風間を、土方は嘲った。
「へっ、こりゃいいや。……凄みが増して、いい男になったじゃねえか。さあて、まがい物に傷をつけられた感想はどうだ? 鬼の大将さんよ」
声も発しない風間の手から、ぽたぽたと血が滴り落ちる。だが、それもつかの間のことだった。鬼の治癒力は瞬時にその傷を塞いでしまう。しかし、矜持についた傷は消えない。逆上した風間はギッと土方を睨みつけた。
「おのれ……! 虫けら以下のまがい物の分際で……! よくもこの俺の顔に傷をつけたな!? 貴様だけは……、絶対に許さんぞ! この世に存在するあらゆる苦痛を味わわせ、なぶり殺してやる!」
憤怒に顔を歪める風間は、まさに悪鬼のごとき形相だった。人間に傷をつけられたことも、誰かに顔に傷をつけられたことも、初めてだったのだろう。