桜守 37

 土方はその風間の怒りを、笑って受け止める。

「……本性を現わしやがったな。いいぜ、できるもんならやってみやがれ」

 言われるがままに打ち込まれた風間の刀は、しかし、先ほどとは比べ物にならないほど重く、鋭かった。

「ぐ、うっ……!」

 受け止めた土方が、苦悶に呻く。全力の鬼の打ち込みは、羅刹の力でも受け止めるのがやっとということなのか。理性を失った風間は、そのまま続けて打ち込みを重ねる。

「貴様が……! 貴様ごときまがい物が、この俺の顔に傷をっ……!」

「くそったれ……!」

 激しい打ち合いに刀の刃はボロボロにこぼれ、今にも折れそうなほど刀身がたわむ。刀が折れては終いだ。土方は折れそうになる刀をかばいながら、それでも打ち合いが続く。

 怒りに我を忘れた風間はもちろん、羅刹になった土方も、正気のようには見えない。正気ではない者同士の打ち合いは、常軌を逸した迫力を持っていた。は止めることはもちろん、口をはさむこともできず、ただひたすら鬼と羅刹の殺し合いを見守る。

「てめぇだけは、絶対に許さねえぜ。地獄に落ちる時は、共に引きずり込んでやる」

「ほざけ! 地獄に落ちるのは貴様だけだ!」

 が見たことのある斬り合いは、決して多くない。けれど、池田屋事件や、蛤御門の変など、新選組の大きな出動には同行してきて、殺さなければ殺される命がけの斬り合いは何度か目にした。その中でも、殺し合いという言葉がこれほど似つかわしい斬り合いはなかった。

 相手が死ぬまで終わらない斬り合い。繰り出される一撃一撃が、確実に相手の生命力を削いでいく。壮絶な戦いの中に、ふとは違和感を見つけた。

 土方は、捨て身の戦法を採ってはいないか?

 いつもの、激しさの中にあっても常に大局的な視点を失わない土方と、今の姿はあまりにかけ離れている。羅刹化したことで理性を失ったことは充分にあるが、それでも、太刀筋に土方らしさがない。

 これはいけない。止めなくては。そう思ったが、いまのに打てる手はいくつも残されていなかった。神力は誰かと事を構えるにはまだ充分と言えるほどの量は回復していない。剣技では二人に遠く及ばない。腕力なんて言うまでもない。

 あとは、間合いを計って割って入るしかないか――

 あの斬り合いに割って入れば、致命傷は免れないだろう。それでも、それで斬り合いが止んで、土方が正気を取り戻すなら、やるだけの価値はある。だが、それができるのは一回きり。間合いを間違えることはできない。

 がきっと目を凝らして、その瞬間を探そうとしたときだった。

さん?」

 背後から聞き慣れた声が呼びかける。が声の主を振り向くのと、しなやかな足音と共に山崎が現れたのとは、ほとんど同時だった。

「山崎殿」

さんですよね? ……その耳と尻尾は……?」

 山崎はの正体を知らない。後姿に見覚えを感じて声を掛けたはいいものの、とてもただの人間とは思えないの見た目に、戸惑っているのがわかった。

 狐の耳と、4本の尻尾。それだけでも充分なくらい普通ではないのに、その純白の毛並みは血で真っ赤に汚れている。山崎がうろたえるのも無理はないことだ。

 だが、いまは山崎に説明している余裕がない。山崎がつられて落ち着きを取り戻してくれたらいいと期待しながら、はあえて冷静に答える。

「ちょっと事情があるのだけど、話すと長くなるわ。それより、山崎殿はどうしてここに?」

 が思った通り、自身の任務を思い出した山崎は、先程の狼狽が嘘のように平静を取り戻した。

「副長が、淀藩の様子を見に行ったきり戻ってないんです。途中で会いませんでしたか?」

「土方殿は……」

 黒装束の山崎は、まだ風間と戦う土方の姿を見つけていないようだった。は山崎を促すように視線を土方に移す。

「……なんだ? あの白い髪の鬼は……。羅刹、か……? いや、片方の鬼が着ている着物には、見覚えがある。あれはまさか……!」

 の向こうで繰り広げられる斬り合いに目を向けた山崎は、驚愕のあまり独り言を連ねる。は努めて静かに告げた。

「ええ、あれが土方殿よ。相手は風間」

「では、副長は……」

「変若水を飲んだの。井上殿の弔い合戦のために……いえ、ご自分の信念のために」

「なん、だと――!?」

 絶句する山崎の視線の先で、土方の刀が風間の剣に弾き飛ばされる。

「……勝負あったか。そのなまくらで、よく今まで持ちこたえたものだ」

「く……!」

 姿勢を低くして身構えたまま、土方はじりじりと風間との間合いを取る。冷や汗をにじませつつ少しずつ土方が開ける距離を、風間は弄るかのようにゆっくりとした歩調で詰めていく。

「覚えているだろうな? 貴様は、ただでは殺さん。およそ思いつく限りの苦痛を味わわせて、いたぶりながら殺してやる。ああ、お前を慕う新選組の連中の元に、皮をはいで塩漬けにした骸を送りつけてやるのもいいな……。まずは、その両腕を斬り落とさせてもらうか。そしてその肉を、野犬にでも食わせてやろう――!」

 風間の余裕綽々とした語気には、渾身の憎しみが込められている。振り上げられた刀は、過つことなく土方の命を奪うだろう。

「土方殿!」

 が叫んで駆け寄ろうとするのと、すぐ隣から伸びてきた腕に強く押し退けられるのとは、同時だった。踏み堪えることもできずに転がったの耳に、肉が斬られる独特の音が届く。

「――!? 貴様!」

 先程までの優位を確信した声とはまるで違う驚愕の声が風間から発される。

 は状況を確認しようと顔を上げる。その先にあったのは、返り血を浴びて真っ赤に染まった風間と、風間の刀に深く斬りつけられた山崎、その山崎を信じられないものを見る目で見つめる土方の姿だった。

「……なにをしているんですか、副長! あなたは頭で、俺は手足のはずでしょう。そんな風に我を忘れて敵陣に突っ込んで、どうするんですか……」

「山崎、おまえ……」

「手足なら、たとえなくなっても代えは効きます。ですが、頭がなくなってしまっては、なにもかもおしまいです。副長と局長は、ふたりでひとり……、なのですから……」

 いつもの鋭い眼差しで、けれど満足げな笑みさえ浮かべて、山崎は土方に語りかける。伝えるべき言葉を伝えきった山崎は、そのまま地面にくずおれる。傷口から流れ出した血液が、地面に広がっていく。

「山崎殿っ」

 立ち上がったは、山崎に駆け寄る。山崎の傷は、治る見込みが低い深手だった。さっき自分を突き飛ばしたのは山崎の手だったのだと、傷を検めながらは気付く。

「山崎……、おまえ、どうして……」

 呆然とつぶやく土方の真っ白だった髪に色が戻る。正気を失ったような深紅の瞳も、理性の光を宿した元の色彩に変化した。いつもの土方が帰ってきたと、はほっと息を吐いた。

 土方の心配がなくなったのはよかったが、山崎の傷は深刻だった。神力はようやくいくらか溜まってきていたが、山崎の容態を落ち着かせるにはとても足りない。止血をするのが精一杯だった。

「おーい、土方さん、山崎、源さーん! どこにいるんだ!?」

 ふいに遠くから、土方たちを探しながら近づいてくる永倉の声が聞こえてきた。帰隊が遅いのを心配して探しに来たか、それとも情勢が変わって合流しに来たか。いずれにしても、新選組の人数が増える。

「く……! 仲間が駆けつけてきたか。かくなる上は、お前たちだけでも……!」

「……やめなさい。これ以上の戦いは、いたずらに犠牲を増やすだけです」

 突然の山崎の介入で勢いを失っていた風間が、刀を握る手に再び力を入れる。それを止めたのは、音もなく現れた天霧の落ち着いた声だった。

「この俺に、退けというのか? 俺の顔に傷を負わせた愚か者を、見過ごせと!?」

「我々がここで手を下すのは容易です。だがそれは、薩摩藩の意向に反する。彼らはあくまでも、自らの手による倒幕を望んでいます。……我ら、鬼の手によるものではなく」

 天霧の声は静かだったが、威圧感に満ちていた。風間は不満そうだったが、今の自分の状態と、天霧の実力とを天秤にかけたのだろう。あるいは、ここで天霧と戦っても益はないと、計算したのかもしれない。苦々しげに刀を収め、構えを解いた。

「……土方といったな。おまえの名前は、決して忘れぬ。今日の借りは、必ず返すからな」

「そりゃ、こっちの台詞だ。てめえだけは絶対に、地獄に堕としてやらなきゃ気が済まねえ」

 土方を睨みつける風間の視線は、それで人が殺せるなら、間違いなく土方を射殺していただろうというほど強かった。土方も負けじとその視線を受け止める。

 風間はそのまま、天霧と共に森に消えて行った。その姿が見えなくなったかどうかの瞬間、土方はいつもの冷静な口調で口早にに命じた。

、耳を隠せ」

「え?」

「新八たちが来る。早く耳と尻尾を隠せ」

 土方たちを探す呼びかけの声と足音は、先程よりも近付いてきている。土方に言われるまま、は急いで変化の術で耳と尻尾を隠した。

「山崎の具合はどうだ?」

「神力で止血するのが精一杯です。かなりの深手ですが、お医者様に診せるまでの時を稼ぐくらいなら、なんとか」

「そうか。頼む」

「はい」

 その会話が終わったかどうかの頃合いに、永倉たちがやって来た。

「あっ、いたいた! 土方さん、こりゃ一体どうなってるんだ?」

「隊士たちがやたら死んでるみてえだが……、もしかして、薩長の連中と戦ってたのか? だがこりゃ、どう見ても刀傷だよな……」

 口々に問いかける永倉と原田を、土方は静かな口調で遮った。

「……山崎を見てやってくれ。まだ、死んじゃいねえ。が止血してるが、傷の手当てがまだだ」

「えっ――!」

 言われて初めて、足元の人影に気付いたらしい。

「お、おい、どうしたんだよ!? しっかりしろって、山崎――! 誰か、綺麗な布持ってねえか!? あと、酒! 焼酎でも清酒でもなんでもいい!」

「布だったら、俺のサラシ使ってくれ」

「おう、ありがてえ! 借りとくぜ、左之!」

 山崎の応急手当てを始める永倉と原田に場所を譲ったは、土方の様子が気になって振り返る。土方には斎藤が歩み寄っていた。

「……副長、ここで一体何が?」

「……まさかこの俺が、隊士を犠牲にして生き延びることになるなんてな」

「犠牲……?」

「井上さんの亡骸が、あっちにあるんだ。埋めるの手伝ってくれねえか? あと、井上さんの部下の連中も。……さすがにこの時期の野ざらしじゃ、いくらなんでも寒過ぎるだろうからな」

 斎藤の質問に答えない土方の無理に明るく振る舞おうとする声を聞きながら、は井上の傍に戻る。着物の袂で井上の顔の汚れを拭い、乱れた髪を撫でつける。

 妹扱いして見守ってくれた。兄と呼んでいいと言ってくれた。新選組の中で、家族的な温もりをいちばん与えてくれたのは井上だ。慕う人を守れもしないで、なにが神族なのか。情けなくて、やりきれなくて、また涙が溢れる。

 は笑っている方がいいよ。トシさんもその方が喜ぶ。

 ふと井上の声が聞こえた気がして、は井上の冷たくなった胸に顔を埋めた。

 ごめんなさい。貴方を葬ったらまた笑うから、だからいまは許して。

 はそうして、井上を埋めに来た斎藤に肩を叩かれるまで、声を震わせて泣いた。




 この日の夜、日が沈めばこちらが優位と見込んだ山南が、夜を待って羅刹隊を率いて出撃した。

 予想通りの戦果を挙げて、形勢を取り戻せると思われた矢先、敵の鉄砲隊が羅刹隊を次々と撃破した。普通の鉄砲なら、羅刹が損害を負うことはない。だが、この時の鉄砲は普通ではなかったのだろう。羅刹隊はそれ以降、本来の戦力を発揮することができず、結局、味方は総崩れとなった。佐幕と見られていた諸藩の裏切りもあり、援軍の見込みもない幕府軍は大坂城への撤退を余儀なくされた。

 大坂城に着くなり、山崎は松本良順の元に運ばれていく。道中ずっと止血のために山崎に神力を注いでいたは、ふと気が緩んで、ため息を吐いた。

「疲れたか?」

 聞きつけた土方が、気遣うような笑みを浮かべて声を掛けてくれる。はくすりと笑って首を振った。

「いまのは深呼吸です。それより、土方殿こそ、昼の光はお辛いのではありませんか?」

「今んとこ、どこも変わりねえな。そのうちお日様を見るのさえしんどくなってくるんだろうし、今のうちに目に焼きつけとくか」

「ご存分に」

 すっきりとした口調の土方の近くに、柔らかな笑みを絶やすことなくは控える。土方は太陽を見上げながら、ぽつりと訊ねた。

「山崎はどうだ。おまえの治癒能力で治せるか」

 それは、期待通りの答えを返すことができない問いだった。の表情から笑みが消える。

「申し訳ありません……。わたくしの能力では無理です」

「それは、山南さんみたいに、不自由が残るってことか」

「……いいえ。山崎殿のあの傷に、自分で塞がる力はありません」

「傷は塞がらねえ……? それは、つまり」


Page Top