桜守 38

 山崎を盾にしたことを罪に感じている土方に告げるには、酷な内容かもしれない。けれど、耳触りのいい嘘でごまかすことはできない。隠したところで、土方にはすぐに伝わってしまうだろうから。

 は努めて平淡な声で答える。

「はい。わたくしの神力では、痛みを和らげたり、出血を抑えたりする程度しか、できることがありません」

「……そうか」

 土方はの言葉を言われたままに受け止める。どこかで、形にならないながらも覚悟をしていたのかもしれなかった。それでも声はいつものように、ただひたすらに前を向いている。

「松本先生の腕に託す。は山崎が踏ん張れるよう、痛みを軽くしてやってくれ」

「承知しました」

 土方はもともと歯切れよく話すが、それにしても今日は声に陰りがなかった。こんなことは、拠点を伏見奉行所に移して以来、久しぶりのことだ。の口元にもほんのりと笑みが浮かぶ。

「なにかよいことがあったようですね?」

「……ああ、もちろんだ。決まってるじゃねえか。この城は、絶対に落ちねえ。ここにこもってる限り、俺たちの負けはねえってことだ。真田幸村でもできなかった戦を、できるかもしれねえんだぜ。しかも、仲間の仇を討てるときた」

 城壁の向こうには、難攻の大坂城。そこには幕軍の兵たちが続々と集結している。絶対に負けない状況で、起死回生の戦をする。それが土方の心を駆り立てているのだ。

 も自然と、背筋がしゃんと伸びた。心なしか、風の匂いも変わったように感じる。は大きく息を吸い込んで、自身の中の空気を入れ替えるように深呼吸した。

「土方殿がそうおっしゃるなら、幕軍は勝ちます」

「ああ」

 そこへ、島田が駆け寄ってきた。

「副長、こちらにいらっしゃいましたか!」

「どうした?」

「その……、これから江戸に引き上げるので、船に乗って下さいとのことです」

 思いがけない島田の言葉に、は息を飲む。土方は呆気にとられて島田を問いただす。

「江戸に? どういうことだ。ここで、薩長の連中を迎え撃つんじゃねえのか?」

「それが、その……。……徳川慶喜公は、船でもう江戸に向かってしまっているとのことです。ですので、これ以上ここにいても……」

 土方は唖然とした表情で島田を見つめた。

「船で江戸に向かってるのってのは、どういうことだ? 幕軍が命懸けで戦ってたってのに、それを放り捨てて、てめえだけさっさとお逃げあそばしたってことか?」

「そ、それは、俺にもよくわかりませんので……」

 島田も、乗船命令だけを言い渡されて来たのだろう。らしくなく曖昧な回答を口にして、肩を縮める。自身が伝える情報の内容に、彼自身も納得していないことは、声音だけで十分なほどわかった。

「くそっ――!!」

 衝動的に手近な木を蹴りつけて、土方が悪態を吐く。ぶつけどころのない怒りのはけ口に、そのまま木を二度、三度と蹴る。ようやくたどり着いた希望の地で、その先に進む道をまた絶たれたのだ。土方の悔しさは察して余りあるに違いなかった。

 渾身の力で木の幹を蹴った土方は、地を這うような低い声で、気持ちを切り替えるかのように吐き捨てる。

「……まあいいや。そもそも俺は最初から、徳川の殿様のために戦ってきた訳じゃねえからな。いくら上にやる気がなかろうが、俺たちにゃ関係のねえことだ。伝習隊もいるし、幕府が海外から買った何隻もの軍艦だって無傷のまま残ってる。……江戸に戻ったら、喧嘩のやり直しだな」

 まっすぐ前を睨みつける土方は、もう大坂城を見ていない。江戸で薩長を迎え撃つ、それだけを見据えていた。

「島田、もう少し状況を探ってこい。幕軍の今後の方針や薩長の動向が掴めるなら、それに越したことはねえ。、おまえは怪我人をいつでも船に乗せられるよう、まとめろ。特に近藤さん、総司、山崎は、間違いのねえようにな」

「承知」

「はい」

 うなずいて、島田は幹部たちが集合している場所に向かって走っていく。も松本良順を探して、その場を後にした。




 島田とが立ち去るのを見送った土方は、自身も撤収の指揮を執ろうと足を踏み出す。そこへ、顔見知りの会津藩士が声を掛けてきた。

「土方さん。あんたのところの補佐は、確か女だったよな?」

 土方と何度も会合で顔を合わせている会津藩士は、のことも知っていた。書状を届ける使いに出したり、あるいは書類を受け取りに行かせたりして、土方はを会津藩邸に出入りさせていたので、特別不思議なことではない。

「ああ、それがどうかしたか?」

「忠告があって、探していたんだ。土方さん、あの補佐は大坂に置いて行ったほうがいい」

「どういうことだ?」

 思いがけない内容を告げられて、土方の表情が険しくなる。会津藩士は「怒らないで聞いてくれ」と前置きして、事情を説明した。

「これから江戸まで、幕府の軍艦で撤退することになっただろう。船乗りには迷信深いものが多くて、軍艦の操船をする者にも、女を乗せるとその船は難破すると信じている者が多いと聞いた。あんたの補佐を乗せようとしても、女を乗せるなと揉めるのが目に見えている。出港に手間取ったら、すぐに薩長に追い付かれて、撤退どころじゃなくなる」

「そんなの、乗っちまえばこっちのもんだろう」

「そうかもしれないが、万が一、出港後に見つかって海に投げ込まれでもしたら、そこで終わりだぞ。そんな危険を冒すくらいなら、最初から大坂に置いて行ったほうが安全ってもんだ。いくら新選組の副長補佐だって言っても、女一人をわざわざ探して追い回すほど、薩長も暇じゃないだろう」

 命あっての物種だ。行って思わぬところで命を落とすくらいなら、行かずに残った方が生きられる。武士としては噴飯物の意見で、土方には想像したこともない内容の忠告だった。さらに加えて、女なんか連れて行くのかと嘲られることは想定していたが、まさか、砲火飛び交う大坂に置いて行ったほうがいいと言われるとは思っていなかった。

「補佐を置いて行くなんて、すぐに決断できることじゃないだろうが、時間はさほどない。……まあ、考えてみてくれ」

 会津藩士はそう言うと、急ぎ足で去って行った。彼もまた、江戸への退却の支度で忙しくしているところだったのだろう。

 その背中を見送って、土方も思案顔で歩き出した。

 の安全を考えれば、彼の意見は一理あった。そして、は以前、何かあれば伏見稲荷を頼れるようなことを言っていたし、伏見稲荷でなくとも稲荷社は大坂にいくつもある。力を貸してくれる稲荷を探して、安全なところに身を移すことは、そう難しいことではないはずだった。万が一を避けて、大坂に置いて行くとしても、それほど無理な判断ではない。

 を置いて行くのか……?

 降って湧いた選択肢は、珍しく、土方を迷わせた。

「土方殿。傷病者の手配ですが……」

 折よく、なにやら確認をしようとが駆け寄ってくる。の顔を見た土方は、反射的に命じていた。

、狐になれ」

 驚いてぴたりと立ち止まったは、二、三度瞬きをした。

「狐ですか?」

「そうだ。俺と最初に会ったとき、狐だっただろう。あれだ」

「ああ。はい、それはなれますが……」

「できれば子犬くらいの大きさがいい」

「はい……なれますが、いまですか?」

「いまだと不都合か?」

「はい。着ている物や刀の片づけが必要ですから」

「そうか。なら、それは俺がやる」

「えっ!?」

「どの狐がおまえなのかわからなくなるのも困るし、他の連中に狐のお前が見つかるのも厄介だ。いまここで狐になれ。後のことは俺がやる」

 なぜそんな命令を受けるのかも、土方が自分をどうしたいのかもわからないは、困惑しきった表情で土方を見つめ返す。だが、命令を拒むという発想はにはなかった。

「はい、では……あの、あとはよろしくお願いします」

 傷病者のまとめの手控えを土方に渡して、は狐に変化する。の着ていた着物がばさりと地面にわだかまり、その布の中から、真っ白な毛並みの子犬の大きさの狐が顔を出した。

 その白狐になったを、土方はひょいと片手で抱え上げると、無造作に懐に押し込んだ。

「……!!」

「さすがに温けぇな。……俺がいいって言うまで出てくるなよ」

 驚いて鳴き声も出せないを着物の上から撫でた土方は、地面に落ちたの着物と刀をざっとまとめて小脇に抱える。そして今度こそ、撤収の指揮を執るために歩きだした。




 近藤と沖田を乗船させるときに、看病役の小姓として千鶴を紛れ込ませ、は自分の懐に隠して軍艦に乗り込んだ土方は、山崎を寝かせている船室に入ると、を床に降ろした。

「おまえの着替えや刀は、山崎の私物と一緒に行李に入れて、そこに運ばせた。元の姿に戻ったら、山崎の看病を頼む。江戸に着く頃にまた迎えに来るから、それまでここから出るなよ」

 返事の代わりにぱたりと尻尾を振ったを見て、土方はひとつうなずくと、ぐしゃぐしゃと耳ごと頭を撫でて船室を出て行った。

 土方の懐に入っている間に聞こえてきた会話で、なぜ狐になれと命じられたのかを理解したは、さっそく人の姿に変化すると、伏見以来続けている男装に身を包んだ。これで少しでも人目をごまかせたらいい。

 山崎は奥の寝床に寝かされている。松本の手当てを受け、薬ももらっているが、容体は芳しくなかった。は船室のわずかな灯りを頼りに、山崎にいつでも飲ませられるようにと、飲み水と薬を用意する。

 江戸まで、どのくらいかかるのだろうか。それまで山崎が持てばいいのだが。

 ろくな設備もなく、同じ船に松本が乗っているかさえわからない状態では、不安ばかりが募る。の神力は、山崎には効かない。痛みを軽くしたり、出血を抑えたりはできても、傷そのものには働かない。山崎が急変しても、にできることは土方を呼ぶことくらいだ。

 山崎の傍らに腰を下ろしたは、うなされるように眠る山崎の手を取り、祈るように神力を送った。

 海の独特な揺れにも慣れてきた頃、山崎が小さくうめいて目を覚ました。

「……さん?」

「山崎殿……、具合はどう? お水があるけれど、飲む?」

「はい……」

 起き上がる力も残っていない山崎の口元に、水を注いだ湯呑みを宛がい、はそっと水を飲ませる。

「お薬も飲めそう?」

「いえ……薬は結構です……。貴重なものを……無駄にしたくない」

「山崎殿……」

 どうせ飲んでも、もう自分は助からないのだと、言外に告げられて、の胸はきゅうっと痛む。山崎はもう覚悟しているのだ。水を飲ませて、神力で痛みを和らげるくらいしか、できることがない無力感が、またを苛む。

「仕方ないわね、山崎殿にはよくなってもらわないと困るのよ。わたくしも、土方殿も」

 深刻な様子を見せないように、わざと苦笑いして湯呑みを置き、山崎の額の汗を拭っていると、山崎がをじっと見上げて口を開いた。

「あの鬼と戦っていた副長に……言った言葉の、続きがあります……。副長は頭で、俺は手足……そして、さんが心だ……。副長が前に進むために置き去りにする心を……さんが拾ってついて行く……」

「山崎殿、あまりしゃべったら傷に障るわ。いまはこのくらいで……」

 なんとなく嫌な予感がして、は山崎の言葉を止めようとする。このまま最後まで聞いてしまったら、山崎は彼岸に行ってしまいそうな気がした。

 だが、山崎は聞いてくれと目で訴える。彼自身にも予感があったのだろう。伝えるなら、もういましかないのだと。

さん、どうか副長の傍にいて………副長から決して離れないで……」

 副長を頼みます。

 声にならなかった山崎の最後の言葉は、けれど、の耳に確かに届いた。




 山崎は、同乗していた旧幕臣、榎本武揚の指揮によって水葬された。

 葬儀はもちろん、亡骸を葬ることさえしてもらえない戦死者がほとんどの中、全員が正装して参列する葬儀が営まれたことは、山崎がどれほど大切な腹心とされて来たかの証でもあった。

 も正装して参列したかったが、事情が事情だということもあり、狐の姿で土方の肩に乗って、その亡骸が海の底深くに眠るのを見届けた。

 葬儀の間中、土方は射殺すような目で山崎を睨み続けていた。それは山崎を犠牲にして生き延びた己に対する怒りと、その生命を信念のために使い切るという誓いの眼差しなのだと、は思った。


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