桜守 39

 江戸に着いた新選組は、品川の旗本専用の宿屋『釜屋』に拠点を置いた。近藤と沖田は療養のため松本良順のところに身を寄せている。千鶴は看病のために沖田に付き添って行った。

 は男装を解き、普段の服装に戻った。そうするとなんだか、ただ屯所の場所が変わっただけで、いつもの日常が返ってきたような気もすこししたが、見ることがなくなった顔や、聞くことがなくなった声をふと思い出すと、元通りになどなってはいないのだと現実に立ち戻る。

 太陽のような存在だった近藤の不在、負け続きの戦局、がくんと減った隊士の数、徳川慶喜の恭順。次々と起こる出来事は不安ばかりを運んでくる。土方は寝食を惜しんで動き回っているが、状況を打開するような明るい話題は聞こえてこなかった。平隊士たちを監督する立場の永倉、原田でさえ、苛立ちを隠しきれずにいる。

 次の戦に勝つために、それぞれがそれぞれの立場で奮闘していることは間違いないはずなのに、先行きに重く垂れ込める暗雲は一向に晴れる気配がなかった。

 お茶を土方の部屋に運んだは、文机に向かう背中を見て顔をしかめた。顔を見なくてもわかるほど、土方の全身に疲労が滲んでいる。休んでほしいと何度も言ったが、結局、休憩らしい休憩は取らなかったのだろう。

「土方殿、お茶をお持ちしました」

「……そこに置いといてくれ」

 そっけない声は、の声など聞こえていないかのようだった。

 羅刹になると快適に活動できる時間帯が普通の人間と逆転することは、山南や藤堂から聞いていた。昼日中に起きているだけでも辛いはずなのに、土方は体調も顧みずに書状を書き続けている。

 何か手伝えることはないかと思うが、いまある仕事は土方自身がやらねばならないことばかりだからと、京にいた頃のような関わり方はできずにいる。土方は近くに他人を置きたくない様子を見せて、でさえ必要なとき以外は部屋に入れなかった。

 山崎を失って足りなくなった監察の人手を補おうともしたが、それも島田にやんわりと断られてしまった。確かに手は足りないが、を監察にしたら土方の手伝いがいなくなると言われては、も食い下がることができなかった。

「副長、いらっしゃいますか?」

「おう、どうした?」

 急いだ様子でやって来た島田は、土方の応えを聞いて部屋に入る。

「今日、お目どおりがかなうはずの、幕臣の方なんですが……。なんでも、約束を反故にして、別の場所に出かけようとなさっているみたいで」

 島田の報告を聞くなり、土方は舌打ちして持っていた筆を置く。

「……今日こそは、なんとしても話を聞いてもらわなきゃ始まらねえ。ちょっと出かけてくるからな」

「はい、いってらっしゃいませ」

 は慌てて、土方に差料を渡す。出かける支度ももどかしく、土方は青い顔色で飛び出していった。

 いまの顔色だけで、土方が体調が悪いなどという生易しい状態ではないことは一目でわかる。は心配を隠しきれない表情で、土方の後姿を見送った。

「いやはや、江戸に戻って来てからというもの、獅子奮迅の働きぶりですね。副長は、なんとか薩長と再戦の機会を得るべく、連日、幕府のお偉方に直談判しに行ってるみたいです。隊士たちも、副長はあれだけ働いているのにいつ寝てるのかって不思議がってますよ」

「それで、土方殿はお出かけばかりなのね。……島田殿も、少し痩せたみたい」

「まあ……、山崎君が亡くなって、仕事が増えましたからね。彼の置き土産ですから、多少きつくてもなんとかこなさないと」

「もう、みんなで無理して……。わたくしがお手伝いできないのは仕方がないけれど、せめてもう少し、休息を取ってほしいのだけど」

「あれだけ頑張ってる副長を見てたら、俺ひとり休むなんて到底できませんよ」

「……それはそうね……。お疲れの出ませんように」

「ありがとうございます。それでは、俺も出てきます」

「いってらっしゃいませ」

「そうそう、最近、辻斬りが増えているらしいです。夜の外出は、控えるようにお願いします」

「わかったわ。ありがとう」

 島田も部屋を出て行くと、一人残ったは手を付けられずに残ったお茶を下げて、土方の部屋を出た。

 仕事を手伝えないのは残念だが、それを殊更に言い立てる気はない。自分に手伝えるほどの能力がないのが理由なのだから。伏見でも、が無力だったために井上を死なせ、その事実を受け入れられなかったがために無為に神力を使い果たした。そしてそれが山崎の怪我を治すべき局面で何の役にも立たない事態を招き寄せ、結果、山崎も戦死した。

 戦いにおいて無力な己は新選組で仕事がないということになる。役立たずがのうのうと居座っていていい戦局ではない。なにか自分にできることを見つけなくては。そうは思うが、お茶を淹れることくらいしか見つからない。お茶を淹れることは仕事に入るのだろうか?

 そんなことを考えながら、とにかく目の前の細々としたことを片付けているうちに、はふと、ひとつの考えを思いついた。

 もし羅刹が日中も夜間と同じように活動する方法があるなら、それを調べるのはどうだろう?

 土方の助けになるかもしれない。あるいは、山南がそこからさらに研究を進める取り掛かり口になるかもしれない。調べてみる価値はある。それに、江戸には千鶴の実家がある。綱道が変若水の記録や資料を残していないか、探しに行ける距離だ。

 そのためには、千鶴に連絡を取って、一緒に出向く日を決めて……

 行動すべき目的が見つかったことで、の気持ちはすこし明るくなった。あとは土方に外出の許可を取らなくては。

 だが、日が沈んでも、土方はまだ戻ってこない。吉原へ行くと言って出かけた永倉と原田を見送り、が広間に戻ると、藤堂が入ってきた。

「新八っつぁんたち、出かけたんだな」

「ええ、いまお見送りしてきたわ」

「オレ、留守番しとけって言われたんだぜ。あの人たちの使いっ走りでもなんでもねえんだけどな。雑用押しつけられても困っちまうぜ」

「平助殿のこと、昔と同じように思っているのでしょ」

「まあ、そうなんだとは思うけど……以前と変わらない扱いをしてくれるっていうのはうれしいけどさ」

 変わってしまったことが多い中で、その部分は変わらない。けれど、藤堂だって立場が変われば、思うところも変わる。変わったことと変わらないこと、変えてほしいことと変えられないこと、さまざまな現実のすれ違いは、疲れた心をすこしずつ苛む。

 藤堂の複雑そうな微笑も、そのすれ違いを分かった上でのものなのだろう。

「山南殿は、どこかにお出かけ?」

「山南さんなら、夜回りだってさ」

「あら……江戸では、お役目としての夜回りはないと聞いていたけれど」

「そうなんだよ……夜になってからいきなり『外を巡察してくる』なんて言い出して。オレも行くって言ったけど、ひとりで平気だって言われちまってさ。……最近、山南さんの様子がおかしいんだ」

 は藤堂と二人で難しい表情になり、後が続かなくなる。よくないなにかがあるような気はするが、それを具体的に言葉にすることができない。なにをすればよいかわからないが、放っておいていいことではないように思える。

 なにを言うべきか、なになら言えるのか、考えているうちに広間の入り口に人影が差した。

「土方殿。おかえりなさいませ」

……まだ起きていたのか」

 が袂を巻いた手を差し出すと、土方は差料を外してそこに乗せた。

「お疲れ様でございました。お茶をお入れしましょうか?」

「ああ、頼む」

 土方の顔色は相変わらず悪い。すぐにも休んでほしかったが、それを藤堂の前で言うのもはばかられて、はお茶の支度だけを言いつかる。

 土方の部屋に差料を戻し、台所でお茶の支度をして戻ると、藤堂はまだ広間にいて、土方と話をしていた。

「お待たせしました。あまり大したお茶請けがなかったのですけれど……」

 言いながら、土方の前に湯飲みと落雁を乗せた皿を置く。土方は湯飲みを手に取ると、低く答えた。

「構わねえ。飲んだら、すぐ仕事に戻らなきゃならねえからな」

「そんなに働いて大丈夫なのか? 羅刹になっちまったんなら、昼間は寝てて夜だけ働いた方がいいんじゃねえの?」

 心配げな藤堂の進言に、土方はお茶を一口飲んで、思い出すような顔つきになった。

「……大坂城から引き上げる時にな、近藤さんに言われたんだ。もし自分が大将だったら、たとえ兵士が二、三百人になっちまっても、大坂城に立てこもって、とことんまで戦って――。最後は腹を切って、武士の生き様を見せつけてやるのに、ってな。大将がさっさと腹を詰めちまってどうするんだよ、あんたは潔すぎだ、ってたしなめておいたんだが。……肩に弾食らって寝込んでるあの人がそこまで言ってる時に、具合が悪いからって俺だけ休んでられねえだろ。近藤さんが戻ってくるまでに、少しでも戦いやすい状態にしとかねえとな」

 そう語る土方の顔色はよくなかったが、目つきに明るさが宿り、表情も心なしか張りが出ていた。近藤の存在と気概が、土方の支えであり、希望でもあるのだと、実感するにはそれで充分だった。

 お茶を飲み終えた土方は、仕事の続きをすると言って部屋に戻って行った。無理に無理を重ねているとすぐにわかるその背中を見送っていると、藤堂が隣でぽつりとつぶやいた。

「でもさ、きついのはきっと、これからだぜ。土方さんはまだ羅刹になったばっかで、吸血衝動は出てないみたいだからな」

「吸血衝動……」

「羅刹になるとな、血が呑みたくて呑みたくて、仕方なくなっちまうんだよ。剣の稽古で思いっきりぶっ叩かれるのなんか、比べ物にならねえくらい苦しくて……、いっそ殺してくれって思うくらいだもんな」

「そう……羅刹にはそんな症状が出るのね」

 それは羅刹である藤堂だからこそ語れる症状であり、また同時に、なにより語りたくない症状であるに違いなかった。誰が好き好んで、普通の人間なら決して起きない、血を呑みたくなる話などしたいだろうか。だが、藤堂は土方のために、土方についていくのために、話したくない話をしてくれている。

「その吸血衝動というのは、出てしまったらもう、血を呑むしかないのかしら」

「血を呑めば、嘘みたいに良くなっちまう。でも、それはあくまでもその場しのぎに過ぎねえからな。時間が経つと、また苦しくなる。……しかも最初の頃は少しの血でよかったのに、そのうち、多くの血を呑まなきゃ落ち着かなくなってくるんだ」

「そうなのね。……ありがとう、平助殿」

「役に立てたんならよかった」

 お礼を言ったに、藤堂は笑顔を見せた。それは、しばらく見ることがなかった、藤堂らしい屈託のない微笑みだった。




 が千鶴と連絡を取ることは難しいことではなかったが、千鶴が沖田の傍を離れるのは簡単に行くことではなかった。代わりの看病人を手配して、千鶴が外出できるようになったのは、が千鶴に連絡を取ってから数日経ってからのことだった。

 千鶴の実家には綱道の膨大な研究資料が残されていた。数年間無人だった家の中には、分厚く埃が積もっている。荒れ果てたその中で、は千鶴と手分けして、それらしい資料を片端から読み漁っていった。

「これも違った……さん、そちらはどうですか?」

「こちらも違うみたい」

 は斜め読みしていた帳面を閉じて、傍らの帳面の山にまたひとつ積み上げる。

「なにか、資料の目録とかないかしら。でなければ、内容で分類されていたりとか」

「あるのかもしれないけど、わたしも父様の研究資料にはあまり触らないようにしていたから……ごめんなさい」

「そうなのね。……仕方ないわ、そのときはこんなことになるなんて、思っていなかったんだから」

 言いながら、は次の帳面に手を伸ばす。千鶴もぱたんと見ていた本を閉じて、次の書類を手に取った。

 黙々と資料をめくり、帳面を開いて、探すこと数刻。その紙束は、何気なく本に挟まっていた。

さん、ありました!」

「ああ、よかった!」

 二人でその紙束を覗き込む。そこには羅刹の吸血衝動に対処するための薬についてが書かれていた。書かれている内容から察するに、京都に行っていた雪村綱道は江戸に戻って来ていたらしい。千鶴は綱道と入れ違いに京都に行ったことになる。京都で羅刹に関する情報を集めた綱道は、それを材料に研究を進め、羅刹のための薬を調合した。その書き付けが、いま見つけたこれというわけだ。

「材料はまだ蔵にあるはずです。作れるだけ作って、持っていきましょう。さん、手伝ってください」

「わかったわ」

 は千鶴と二人で、雪村家の蔵に向かった。蔵には綱道が使った材料が残っていて、潤沢にとはいかなかったが、何度か使える程度の量は調剤することができた。

 ただ、はこの薬を作れるのはこれきりになるだろうと予感していた。実際に調剤したのは千鶴で、は隣で介助していたに過ぎない。見ていて、手順は一通り飲みこんだが、粉砕の程度の見極めや混和の手つき、力加減などは、一朝一夕で身に付くものではない。千鶴でなくては調剤できないだろう。そして千鶴には、沖田の看病がある。沖田が回復して新選組に復帰するまで、千鶴も戻ってこない。

 できあがった薬包を、土方、沖田、山南、藤堂それぞれの分に振り分ける。と千鶴は、自分が持ち帰る分を手拭いに包んで懐の奥にしまい込んだ。


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