沖田のところに帰る千鶴と別れ、出来るだけ人通りの多い道を選び、釜屋に戻る。すると、ちょうど羅刹隊を率いた山南と藤堂が出かけようとしているところだった。
「おや、随分遅いお帰りですね。最近物騒ですから、夜、ひとりで出歩くのは控えた方がいいですよ」
を認めた山南が声を掛ける。山南とこのように会話するのは久しぶりだ。以前から山南の様子がおかしいと言われてはいたものの、こうして話すと山南はすこしも変わりない。皮肉で棘があるように聞こえる物言いも、だがその内容はの身の安全を案じるものだ。
は山南に近寄ると、持ち帰った薬包を差し出した。
「心配をかけてごめんなさい。これを千鶴ちゃんと作ってきたの。山南殿の分だから、どうぞ受け取って」
「……これは?」
「羅刹の吸血衝動を抑える薬よ。千鶴ちゃんの実家で調合してきたの。飲めば、身体にかかる痛みの負担を軽くできるわ」
山南は束の間、の掌に乗っている薬包を見つめていたが、受け取ることなくふっと息を吐いた。
「気持ちはありがたいですが、私には必要ありません」
「そうなの? もし遠慮しているのなら……」
「羅刹の吸血衝動は、傍から見ると異常なことかも知れません。……抑えようとすればするほど、苦しみは増し、正気を削られていくだけだ。……こんな薬は気休めでしかありません」
「気休めでも、あった方がよくはないの?」
「……失礼。これから市中を見廻って参りますので、これで」
これ以上の対話を拒むように、山南は外に出て行く。所在無げに差し出されたままのの手から、藤堂が薬包を取り上げた。
「オレはこの薬飲むよ。ありがとう、」
「平助殿……ええ、どうぞ持って行って」
は藤堂の手に、山南の分も合わせて渡す。藤堂は察して、なにも言わずに二人分を受け取った。
「今日は、オレも巡察について行くつもりだ。もし山南さんがおかしなことをしようとしたら、全力で止めるから心配すんなよ」
「ありがとう、平助殿。どうぞよろしくね」
この間の話したことを藤堂が覚えていたのだとわかって、は微笑んでうなずいた。
「土方殿にもお薬を届けたいのだけど、まだ戻っていらしてないかしら?」
「いや、夕方頃に戻ってきたはずだけど、ずっと部屋にこもりっきりだぜ」
「そう、ありがとう。お部屋に行ってみるわ」
巡察に出て行く藤堂を見送って、は土方の部屋を訪れた。
「です。土方殿、いらっしゃいますか?」
部屋の前で襖の向こうに声をかけると、くぐもった声が聞こえた。なんと言っているかはわからないが、土方の声だ。
「土方殿?」
「くっ、う……、ぐ……、くっ……!」
「失礼します」
苦悶に呻いているのだと気付いて、は返事を待たずに部屋に飛び込んだ。
奥の文机に向かってうずくまっている土方は、脂汗を流して歯を食いしばっていた。髪の色が真っ白になっている。羅刹の状態になっていることは一目でわかった。
「土方殿!」
思わず駆け寄って、すぐ横に膝をつく。が肩に手を掛けると、土方はその手を払ってぎりっと睨みつけてきた。
「ば、馬鹿野郎、大声出すんじゃねえ……! こんなもん、すぐ治まるに決まってんじゃねえか……。くだらねえことで騒ぎ立てるな……!」
全身が震えて、呼吸も苦しげに荒い。土方がこれほどに苦しそうな様子を見せるのは、初めてだった。いや、もしかしたらこれまでにもあったのかもしれないが、の記憶にはない。自分の状態を他人に悟らせることを厭う土方は、こういった状態があったとしても、いつも上手く隠してきたはずだった。
その土方が、ここまで苦悶を見せるのは……。
心当たりが一つだけあった。
その心当たりの情報をくれた藤堂に、心の中で感謝しながら、は迷わずに懐から短刀を取り出した。
浅く小さな傷では、すぐに塞がってしまうかもしれない。そう思い、左手の人差し指と中指をを押し付けるようにしながら、勢いよく刃を滑らす。2本の指の腹を斜めに線が走り、血液が溢れだした。
「わたくしの血をどうぞ。血を飲めば楽になるのでしょう?」
赤い筋が流れる指を、土方に差し出す。ざっくりと斬られた傷は、白い指に殊更目立った。そこからたらたらと滴る血液に、土方の目が釘付けになる。
「何言ってやがる。そんな真似ができるか……!」
額にびっしりと汗を浮かべる土方は、力のない声でなおも強がった。もきゅっと目つきを険しくして、あとすこしで触れてしまいそうなくらいに土方の口元に指を伸ばす。
「わたくしの血が嫌なのでしたら、申し訳ありません。でも、飲めば楽になるのなら、飲んでください。近藤殿が戻ってくるまでに、やらなくてはならないことがたくさんおありなのでしょう? こんなことで滞らせてよろしいのですか?」
「……」
「どうぞお早く。傷がふさがってしまいます」
目の前の赤い指を無言で見つめていた土方は、やがて根負けしたようにの手を握った。
「……馬鹿なことしやがる。嫁入り前の女が、自分の肌に傷をつけるもんじゃねえ」
言いながら、土方は貴重なものを口に運ぶように恭しく、の傷に舌を這わせて流れ出た血液をれろりと舐め取り、それでも溢れてくる雫を吸い上げる。傷口を舐められるのは痛かったが、不思議と辛くはなかった。血液が失われることも、思っていたほど大したことではなかった。
「かまいません。わたくし、どこにも嫁に行きませんから」
「そういうことを言ってるんじゃねえよ」
静かな部屋に土方が血液をすする音だけが響く。音がする度に土方の呼吸が楽なものに変わっていくのがわかった。
はそのまま、土方の気が済むまで、左手を土方にゆだねる。
「差し出たことをいたしました」
土方の唇が指から離れると、はすっと後ろに下がって頭を下げた。土方の髪は黒く戻り、瞳からは餓えた光が消えていた。
深めにつけた傷だったが、もう出血は止まっていた。その程度にはふさがっているということだ。土方に血液を提供するときはこのくらいの傷がちょうどいいようだとは加減を把握する。
「いや……。……痩せ我慢してる場合じゃねえってことは、俺もよくわかってるんだ。近藤さんを負けさせねえ為にゃ……、化け物にでもなるしかねえんだよな」
否応なく己の状態を受け入れようとする土方の声音に、は悲しくなる。誰だって、化け物になど進んでなりたいはずがない。だが、土方が楽に過ごせるということは、常人はしないことをするということだ。土方を苦しませたくない一心のの行動は、土方にとっては化け物の所業でしかないことをさせることだった。
どちらが土方のためなのか。
自分が答を出していいものではない疑問が、の心に芽生えた。
今度はどのくらいの間、ここを屯所として使えるのだろうか。
お茶道具を片付けるために歩いていた金子邸の廊下で、はふとため息を零して足を止めた。
江戸で屯所として与えられた旗本屋敷は、結局引き払うことになり、いまは下総の流山にある金子邸を屯所としている。大阪から江戸に戻ってきて、拠点は転々としていた。状況も日々変わり、いつまで同じ環境に居られるか定かではない。
羅刹の毒と激務で土方が万全とは言えない中、近藤が隊に復帰したのは、つい10日ほど前のことだった。
旗本屋敷が屯所としてあてがわれ、早々に軍資金や洋式の装備を与えられた新選組は、甲府で新政府軍を迎え撃つよう命令を受けた。近藤は、ここで命令を果たせば形勢は一転すると意気込み、途中、故郷に錦を飾ることもできて、揚々と戦に臨んだ。だが、そんな近藤を嘲笑うかのように、甲府は新政府軍に奪われた。大半の隊士を失う敗走の最中、近藤は土方が羅刹となったことを知ってしまう。
初めて喫する敗戦と、いちばん古い仲間の羅刹化。この二つの出来事は、近藤をひどく打ちのめした。近藤は疲れたため息をひっきりなしに零すようになり、とても再起を図れるようには見えなかった。
追い打ちをかけるかのように、江戸に戻って程なく、永倉と原田が新選組を離脱した。二人とも、自分の信念がしっかりとある剣士だった。一度決めたことを容易に翻すはずはなく、近藤やの引き留めも空しく、二人は去って行った。
沖田は復帰の目途も立たずに療養を続けている。これで、結成当初からの幹部は近藤、土方、斎藤だけになってしまった。その斎藤も、下総に移ってからは市川で部隊の調練を指揮するために屯所を離れている。
土方が懸命に説得して、近藤は新選組局長として戦い続けることを決めた。そのためもあるのだろう、土方は羅刹の毒に蝕まれながら激務を続けている。吸血衝動が出た時にはの血液を飲み、青い顔色で――
自分がなにか言って、どうにかなる局面ではない。だからにできることは、いまはお茶を淹れることと話し相手になること。必要なときには求められるだけの血液を差し出すこと。自分の体調をしっかりと保つこと。笑顔で明るく振る舞うこと。……不安になる気持ちを、こうしてできることを数えて、奮い立たせること。
溜め息ではなく、今度は深呼吸をして、はまたしっかりとした足取りで廊下を歩き出した。
近藤と土方を思いがけない客が訪ねてきたのは、流山に移ってきて数日経ったある日の夜のことだった。
その客は取次の隊士に名乗りもせず、「王子から来た」とだけ告げた。土方は訝しみながらも、近藤と二人で応対に出る。客と三人きりになった部屋で、その客は初めて「東国稲荷だ」と名乗った。
細い目の優美な青年は表情がなく、まるで能面を付けた誰かと相対しているような印象だった。その分余計にそう感じたのかもしれないが、この世の者とは思えない幽玄さと神々しさがあった。近藤も土方も、当然ながらの兄に会ったことはなかったが、その存在感に圧倒され、はたして本物なのかという疑問が脳裏を過ぎることはなかった。
「では、貴殿はの兄君か」
「いかにも。常より我が妹が世話になっている。新選組が江戸に来た当初から、折を見て挨拶せねばと思っていた」
驚く近藤と土方を前に、東国稲荷は淡々とした表情で述べた。
「これまで、外に出たこともない世間知らずが、ずいぶんと面倒をおかけした。これ以上あれを置いていただくのは迷惑であろう。この機に、社に連れ戻ろうと思う」
「……なに?」
「もともとあれは、人前に出すべき存在ではない。境遇の哀れさに、ついわがままを許してしまったが、このままでは死地に行くだけとわかれば、おいそれと見過ごすこともできぬ。を戻していただこう」
思いがけない申し出に、近藤と土方は言うべき言葉が見つからない。正式な隊士ではないとはいえ、は新選組にずっとついて来るものと思っていた。
「ま……待ってくれ」
言葉を発したのは近藤だった。
「そちらにも事情があってのことだろうと思うが、我々としても、急に言われても戸惑うばかりだ。……の境遇とは? いったいどんな事情で、はわがままを許されたのだろうか?」
「あれはなにも説明していないのか?」
「断片的に聞いてはいるが……本人が話したがらないことを無理に聞く必要はないと思っていた。ご両親が他界されていることや、ご兄弟と御母堂が違うことは聞いているが、詳しいことは知らないのだ」
「では、良い機会なので私から話しておこう。……そうだな、の母のことから話すのが良いか。の母親は、大坂の由緒ある稲荷社の出身だ。それゆえ、私の母が亡くなったとき、父――当時の東国稲荷の後添いに選ばれた。
だが、慣れぬ土地で大勢の生さぬ仲の子に囲まれた生活は、苦労知らずのの母には大きな負担だったのだろう。積もり積もった心労がたたって、の母は、を産んだ数年後に亡くなった。美しく、気立てのよい方であったが……百年の時間もほんのひと時にする稲荷一族からすれば、儚いほど短命な方だった」
の兄は、表情がない顔で平淡に語る。
「結果、は東国稲荷と大坂稲荷の血を引く、たった一人の、きわめてよい血筋のめずらしい稲荷姫というわけだ。そのせいだろう。私の弟妹たちのなかには、自分より血筋が良いを嫉み、辛くあたった者もいる。庇えばかえってひどくなるために、父も私も、その仕打ちを時として見て見ぬふりをしていたのは確かだ。数に負けたと謗られるなら、それも間違いではない。
そのために、あれは自分に価値がないと思っている節がある。実は逆なのだが、あれのそういうところが、家の中で身を守る役に立ったのも確かだ。
もちろん、一人に辛い思いをさせる環境を放置していいと思っていたわけではない。そのためにも早く嫁に出そうと考えていたが、それは言葉で言うほど簡単な話ではなかった。
東国稲荷の領内に社を持つ稲荷たちは、我ら兄弟に遠慮してか、にはよそよそしい傾向が強くある。東国に於いては、東国稲荷の姫なら誰でもよいから嫁に欲しいと、そう思うような稲荷ばかりが求婚の名乗りを上げた。名乗って出た者の名を聞いただけで、東国稲荷とつながりを持った途端にを顧みなくなることは、容易く予想できた」