の兄は淡々と語っているが、内容はなかなかにひどいものだった。嫁に出すことで救おうとしたのは嘘ではないだろう。だが、それまで手を拱いていたのもまた事実なのだ。近藤も土方も、目元を険しくしながら聞く。
「それでも西国からはを大切にする求婚があるだろうと期待した。大坂稲荷の姫の子ということで、西国の稲荷にはに好意的な者が多いのだ。だが、西国からも東国稲荷と大坂稲荷どちらとも姻戚になれるたった一人の娘だということでの求婚がほとんどを占めた。東国の稲荷からの求婚と背景は大差ないというわけだ。
それを見た父は、を権力争いの道具にするだけなら嫁に出す意味がないと言って、すべての求婚を断ってしまった。伏見様にもらっていただく案も出たが、ご高齢の伏見様に嫁しても、代替わりのときに無用の諍いを呼びかねないという理由で見送られた。
西国の鬼の一族から、頭領の嫁にという話が来たのはその後のことだ。だが、いくら稲荷一族の中に嫁ぎ先がなくなったからと言って、鬼族に嫁がせるわけにはいかない。東国稲荷相手では敵わないと黙っていた者が、鬼相手ならば勝てると踏んでを手に入れようとした場合、鬼では神に対抗できないからだ。を守れない家に嫁に出すなど、論外の選択だ。
それでもを嫁に出す最後の機会かもしれないと言う父と、私は何度も話し合った。見合いまで話は進んだが、結論として、を守るには稲荷一族に対してある程度の力を持っていなくては無理だということになり、鬼との縁談も断った。
が社を出て人間の町で生活したいと言い出したのは、ちょうどその頃だ。
人の町に出るということは、我々の庇護から出ることになる。守ってやれなくなると私は反対したが、父はが初めて言ったわがままをかなえてやりたいと言った。神族だと知られず、無数の人の中に紛れてしまえば、の心の負担がなくなる分、ここにいるより環境は良いと。
父は、神族であることを隠し、もし周囲に知られたら社に戻れと条件をつけて、を人の町に出した。私は納得していなかったが、が兄弟達の無体な仕打ちに黙って耐えなくてもよくなったことは、内心で喜んでいた。それまでなにも言わずに見過ごしておいてなにを、と思われるかもしれないが、これが本音だったのは誓って本当だ。
間もなく父が亡くなり、が父と交わした約束は私が引き継いだ。そのときは京にいて、戻りたいが戻れないと弔文が届いた。その文を読んで私が思ったことは、すくなくともいま、が辛い思いを堪える暮らしをしてはいないという安堵だった。
その後は特に文が届くこともなかったが、私は意図的にへの文を書かずにいた。頸木から放たれたをふたたび縛るようなことはしてはいけないと思ったからだ。だから、私がに送った文は、それからしばらく後に届いた、約束を違えねばならなくなったことを知らせるの文への返信だけだった。
約束を違えることは、神族には大変な不道徳だ。だが、を社に引き戻すくらいなら、すこし条件を変えるくらい、なにほどのものか。私は父から、を稲荷の権力争いから遠ざけることを託された。そして、それは私自身の願いでもある。が社に戻らずに済むよう、私は条件を変えた。むろん、約束を違えることによって負うべき責任は、負わせた上でな。
これが、が新選組に身を置くことになるまでの話だ」
それは、いままでに聞いていた話から、薄々想像してはいた内容だった。それでも、すべての事情を知っている者から語られれば、思いの外壮絶な境遇だった。
の外見からは、自分たちと大して年齢は違わないように見えるが、実際には数倍、数十倍の年月を過ごしてきたのだろう。それほどの時を冷たくあしらわれて過ごしてきたの境遇は、哀れという一言で表現していいとも思えないほどだった。
だが、そんな境遇を、の兄はなんの感情も交えずに語る。聞いている側には、本当にのことを考えているようには聞こえない口調だった。
の兄は、近藤たちがどう感じているかを気にも留めていない様子で、土方に視線を向け、先を続ける。
「が君といるために京に上ったことも、君といることがの望みなのだということも、私は理解している。いくら安全でも、君と離れて社に戻ることは、にとって不幸以外のなにものでもあるまい。
だが、君がを死地に伴おうとしているとあれば、私はそれを看過できない。弟妹たちの冷たい仕打ちを黙認しておいて、なにをいまさらと思うかもしれないが、死ぬとわかっていて送り出すことなど、できようはずがない。
長兄としてにしてやれる数少ない行いだと思って、私の願いを聞いてもらいたい。私はを連れて戻る」
の兄の話が一区切りついたところで、それまで黙って話を聞いていた土方が口を開いた。
「を連れ戻して、その後はどうするつもりなんだ?」
「どうする、とは?」
おかしなことを訊く。と言わんばかりに、東国稲荷が問い返す。土方は問い詰めるように言葉を重ねた。
「実家に戻って、の居場所はあるのか? 縁談でもあるのか?」
「縁談はない。父がすべて断ったと言っただろう。いまさら新たな縁談など、あるものか」
「それなら、俺がもらうことにする」
「……なんだと?」
土方の言葉は予想もしていなかったのだろう。東国稲荷は不快そうな声になった。
「あんたの事情はわかったが、を返す必要は、いまの話には出てこなかっただろう。を返す理由はねえな」
「では、君に訊こう。君はを死なせないと誓えるか?」
苛立ちを含んだ声で、東国稲荷は土方に問いかける。土方はその問いを、きっぱりと撥ねつけた。
「当たり前じゃねえか。誰が死なせるつもりで連れて行くかよ。そもそも、俺らが死にに行く前提で話してることが気に入らねえ」
静かに怒る東国稲荷と、沸き上がる怒りを隠さない土方が、正面からにらみ合う。どうしたものかと二人のやり取りを見守っていた近藤は、おもむろに口を開いた。
「東国稲荷殿。貴殿の妹御を想うお気持ち、兄君として当然のことだと思う。また、京を追われ、甲府でも敗れた我らを、妹御を託すには不足と思われるのも致し方のないことだ。……だが、先程ご自身でも言われたとおり、妹御は実家に戻ったとしても、幸せに過ごせるとは限らないのではないか? 我々と共に来て、早々に不幸な死に方をすると決まったわけでもない。……を置いて行っていただけまいか」
「……新選組局長という立場にあると、神族に盾突くことも恐れぬというわけか」
「そういうつもりではない。この先、万が一の時には責任を持って、無事に妹御を実家にお返しすると約束しよう。だが、そうなるまでは、土方君の補佐をしていてほしいのだ」
なにしろ、と近藤は苦笑いを零す。
「土方君の補佐は、誰にでも務まるような仕事ではないもので……恥ずかしながら、ほど見事に務め上げてくれる者は、ほかにいないのだ。……あとは」
「あとは?」
「実家に戻れと言った時に、もしに泣かれたら、どうしたらいいかわからん」
近藤はそう言って、困ったように微笑む。
「あれが、泣いて嫌がると?」
「いや、そうと決まったわけでは。……ただ、もしそうなったとしたら……の泣く顔は、あまり見たくないものでな」
近藤の隣で、土方もやるせなさそうに舌打ちをする。その様子を見て、東国稲荷は考えるような様子になった。
やがて、
「……先ほどの、万が一の時には責任を持って、無事にを返すという約束。間違いないか?」
「無論。武士に二言はない」
「万が一、を不幸な目に遭わせたときは、命をもって償ってもらうぞ」
「どうとでもしやがれ」
近藤と土方の即答の反応は、東国稲荷には決して印象が悪いものではないようだった。しばらく無言で思案した後、東国稲荷は仕方なさそうにため息を吐いた。
「いまは、その時ではないということなのだな」
「東国稲荷殿……?」
「いいんだな?」
「それがあれの定めなのだろう。連れて行きたまえ」
東国稲荷の能面のような無表情は相変わらずだったが、土方には彼がいまはただの〝の兄〟の顔をしているように見えた。
「そうと決まれば、なにも持たせずに行かせるわけにもいかぬな。を呼んでいただけまいか。装束は改めなくともよいと伝えてくれ」
決断を下した後の長特有の晴れやかさで、東国稲荷は頼みごとをした。うなずいた土方は、宿直の隊士を、を呼びに遣る。
は驚くほど早く応接間にやってきた。
「お兄さ……いえ、東国様。お召しにより、参上いたしました」
「かまわぬ、入れ」
開いた障子の向こう、廊下で平伏するに、東国稲荷は無造作に告げる。はあらためてお辞儀をしてから、部屋に入るといちばん隅の下座でまた平伏した。
「息災のようでなによりだ」
「東国様にもご機嫌麗しゅう、なによりのこととお慶び申し上げまする」
まるで主君と臣下のような挨拶は、兄妹の絆など微塵も感じさせない。それがこの兄妹の距離なのだ。これだけで、先程の東国稲荷の話は誇張もなにもなく語られたのだと、知らせるには充分だった。
「許す。顔を上げて変化の術を解け」
「はい」
身体を起こしたの周りにふわりと青い陽炎が立ち、白狐の耳と四本の尾があらわれる。東国稲荷はその姿を少しの間見つめ、それからすっと右手を伸ばした。
ゆらりとの尾が揺れる。四本だったそれは、次の瞬間に九本になっていた。耳と尾の毛並みは白から金とも銀ともつかない色に変わり、髪の色も一瞬のうちに同じ色になっていた。
「先代がそなたに施した封印を解いた。初めのうちは戸惑うこともあろうが、直に慣れよう。東国稲荷の姫として恥じることのない振る舞いをせよ」
「……はい」
どういう経緯でこうなったのか、皆目わからないながら、は言われた言葉をかみしめる。
の尾の変化を見ていた土方が、東国稲荷を振り返った。
「九尾ってのは、社を持たない稲荷の最高位なんだよな? あんたの力で尻尾を増やせるもんなのか? それとも、は本当は九尾だったってことか?」
「そうだ。は生まれた時すでに九尾だった。出自だけで充分嫉まれているに、六尾や七尾の兄弟たちからそれ以上嫉まれる要素を持たせたくないと願った父が、封印を施したのだ」
物心ついた時から四尾と言われて育ってきたは、まだ信じられない顔つきで増えた自分の尾を撫でる。
「ん? 、こっちを見ろ」
「はい?」
「目が金色になってる」
「これも九尾の特徴なのか、東国稲荷殿?」
「そうだ。金銀の毛並みに金色の瞳が、九尾の特徴だ。九尾は眷属の中でも別格に扱われる。たとえ社を持つ者でも、九尾をおろそかにすることはできない」
近藤の問いに答えた東国稲荷は、あらためてに向き直る。
「そなたの身は、ここにいる土方に預けることにした。持参金もなにも持たせてやれないが、封印の解除はせめてもの餞だ」
「東国様」
「各地の稲荷はまだおまえに厳しいだろう。一族の助けは当てになるまい。……社に戻るなら、いまのうちだぞ」
「土方殿と共に行きます。……お心遣い、ありがとうございます。東国様もどうぞご健勝で」
再び平伏するを名残惜しそうに見つめた東国稲荷は、だがなにか言葉を掛けるでもなく、立ち上がった。
「夜分の訪い、失礼した」
「いや、こちらこそなんのもてなしもできずに……」
「見送りは結構。では」
立ち上がろうとした近藤を制した東国稲荷は、静かな足取りで帰って行った。
東国稲荷の気配が消えるのを待って、は平伏していた体を起こす。思いがけないことが突然起きて、まだなにがどうなったのかも理解が追いつかない。
がほけっと床を見つめるともなしに見つめたまま動けずにいると、近藤と土方のため息が室内の静寂を破った。
「……神族ってあんななのか」
「いやあ、緊張したな。……すまないが、耳と尾をしまってもらえないか」
「あ、はい」
近藤に言われて、は変化の術を自分にかける。すぐに耳と尾が消え、髪と目は元通りの色に戻った。すると、近藤の肩の強張りが緩む。
「は慣れていてなんとも思わなかったかもしれないが……位の高い神族というのは、大変な存在感を放つものなのだな」
「それは……兄がご負担をおかけしました」
「いやいや。こちらはただの人間だ、仕方がないさ」
兄と近藤たちが何を話したのか、とても気になるが、それを訊ねていい立場ではない。はその質問の代わりに「お茶をお淹れしましょうか」と言った。
「いや、いいよ。もう遅いし、今晩はもう休もう」
「俺もすぐに部屋に戻る。……も、もう今日は休め」
「はい」
近藤と土方二人に言われて、はうなずくと退出しようと立ち上がる。
同じように立ち上がった土方と共に廊下に出ると、土方は自室に向かって歩き始めた。同じ方向に部屋があるも、自然とついていくように並ぶ。
「おまえの兄貴は、顔に出ねえんだな」
「え?」
「無表情に淡々と話すから、気付くのに時間がかかっちまったが……。おまえはちゃんと大事にされてるぜ」
「……大事に? わたくしが、兄にですか」
にわかに信じられないことを言われて、はつい反論するように訊き返してしまった。の知る限り、兄はそんな情緒を見せる人ではない。まして、今日初めて会った人間に感情を読まれるような緩みなど、微塵もない人だ。
だが、土方は事も無げに肯定する。
「他に誰がいるんだよ。……最後、おまえの兄貴は、おまえが『東国様』っていうのを正さなかっただろ」
「はい」
「あれはきっと、おまえを一族から追放したわけじゃないっていう、兄貴なりの意思表示だと思うぜ」
いままでと同じ呼び名を許す……つまり、いままでと同じ扱いを続ける。それにが気付いたら……。そんな考えがあってのことだろうと、土方は推測する。それは、似た立場にいる土方だから気付いた可能性かもしれなかった。
「兄が、そんなことを……。そうでしょうか」
「違うかもしれねえ。けど、そうかもしれねえ。だったら、そうかもしれねえって思っとけ。いざってときに頼れる道は、多いに越したことはねえんだからな」
「……そうですね」
心底納得したわけではなかったが、土方の優しさを感じ取ったは、すこし頑張って笑みを浮かべ、うなずいた。それに、この先いざというときになって、本当に土方が言うとおりに兄が手を貸してくれるなら、兄の力で土方を助けられる。
頼れる相手は多いに越したことはない。その通りだ。
「ただ……おまえ、今度こそ本当に実家に戻れなくなっちまったな。それは悪いと思ってる」