桜守 42

「いいのです。もともと、戻るつもりはなかったのですから」

 はからりとした笑顔で首を振る。以前なら同じように「そうか」と笑い返しただろうけれど、の兄の話を聞いた今となっては、土方が咄嗟にできるのは苦笑いを返す程度になってしまった。

 の部屋の前まで戻って来て、は足を止める。隣の部屋の土方はそのまま歩いて行くと思ったが、土方も一緒に立ち止った。

「それでは、おやすみなさいませ」

「……なあ、

「はい」

 何事か考えながら呼びかけられて、は土方に向き直る。土方は神妙な顔でしばらく黙っていたが、やがて意を決したようにを正面から見つめた。

「おまえが実家に戻れねえことになるまで言ってなかったってのも、情けねえ話なんだが……このまま言わねえままってのも、潔くねえしな」

「……? ……はい」

「俺は近藤さんを、日本にこの人ありと言われる武将にしてやりてえ。そのためには、もっともっと上を目指さなきゃならねえ。足を止めてる間も、後ろを振り返ってる間もねえ。お前がついて来れなくなっても、手を引いてやると約束できねえ。……それでも、言わせろ」

「はい」

「俺と一緒に来るか。近藤さんが高みに上り詰めるところまで」

 ただ是の返事をする。がするのはたったそれだけでよかった。

「はい」

 短い言葉に、あふれ出るなにかがあったのだろう。土方はの腕を掴むと、胸元に引き寄せた。土方の腕の中に包み込まれて、はひゅっと息を飲む。土方の体温と臭いがの知覚を占める。

「俺とおまえなら、できると思ってるんだ。この状況をひっくり返して、近藤さんを頭に、近藤さんも新選組も、立派な武士として認めさせる」

 それは土方の決意であり、願いであり、誓いであった。

 土方の声は、京にいた頃の明るく希望に満ちた声ではない。もっと重く、もっと悔恨に満ちていて、もはや執念と呼ぶ方がふさわしいかもしれないような信念が籠った声だった。

 どうしようか、一瞬だけ迷ったは、すぐに心を決めて土方の胸にぴたりと頬を寄せる。着物よりも硬い生地の洋装は、ごわごわとを受け止めた。

「ええ……きっとできます、土方殿なら」

 の確信に満ちた声は、土方の耳に優しく響いた。




 数日後、が近藤のところにお茶を運ぶと、近藤は読んでいた本から顔を上げた。

「お茶をお持ちしました」

「ありがとう」

 最近の近藤は、覇気がなくなったと言えば確かにそうなのだが、普段も温和だったことを思うと、これもこの人のもともとの気質の一面なのではないだろうか。覇気がなくなったのではなくて、いまは穏やかな時間を過ごしているだけなのではないか。

 静かな笑顔でお茶を口に運ぶ近藤の姿を見て、はそんな風に思い至る。

「なんの本を読んでいらしたのですか?」

「三国志演義に、清正記に……、まあ、軍記物の小説ばかりだな。もう、暗誦できるくらい読み込んだんだが、何度読み返しても新たな感動があってなあ。子供の頃は、思ってたもんだよ。いつか関聖帝君みたいに立派な武将になって、自分ではない誰かのために戦おうって。……ただ、願うだけでは名将にはなれんのだな。それに気付くのが、ちと遅かったようだ」

「なにをおっしゃるかと思えば……まだ、これからではないですか。新選組だって、立て直している最中でしょう?」

 励ましたを、近藤は寂しげな笑顔で振り返る。の言葉は、本当に〝励まし〟でしかないとわかっている。そう言わんばかりだ。

「トシはどうしている?」

「土方殿なら、市川にいる斎藤殿に指示書を書いているところです」

「そうか……。トシには、無理ばかりさせているなあ」

 早朝から夜更けまで、土方がずっと仕事をしているのは、いまに始まったことではない。京にいた頃も、好きなように羽を伸ばす土方など、昼日中から見かけることはなかった。

 だのに、近藤がいまさらのようにしみじみと言うのは、土方が羅刹になったことを知ってしまったからに違いなかった。近藤は局長だ。羅刹が陽の光を苦手とすることも、夜こそ本領を発揮することも、よく知っている。そして、甲府からずっと行動を共にしてきて、昼間休んでいる土方を見かけてはいないのだ。

 だが、はゆっくりと首を振った。

「土方殿は、無理しているとは思っていませんよ。近藤殿の役に立ちたくてやっているだけですもの。……できることがあって、むしろ嬉しいのだろうと思います」

は良い補佐だな。トシのことをよくわかってるじゃないか」

「恐れ入ります。でも、近藤殿にはまだまだ及びません」

「なんの、充分だよ。トシが無理しすぎないよう、その調子で見ててやってくれ」

「はい。……近藤殿も、早く元気になってくださいませ。土方殿が隊を立て直した時、近藤殿がまだお気落としのままというわけにはいきませんでしょ」

「……それなんだがなあ、。俺は、それも酷じゃないかと思うんだよ」

「酷、ですか」

 なんとなく、近藤がなにを言いたいのか予想できて、は表情を曇らせた。

 も考えたことがなかったわけではない。江戸に来てから……いや、鳥羽伏見の戦いで幕軍の劣勢が明らかになったあの時からずっと、土方の肩に乗っているものはおよそ一人の肩に乗せる重さではなくて。でも、土方はその重さを誰とも分かち合おうとせず、周囲もまた、土方が一人で背負うことを当たり前のように眺めて。

 傍で見ているしかできないことを、それでいいと思ったことはない。けれど、手を出すことは許されない。許されないことに、どこか甘んじている自分も、もしかしたらいたかもしれない。手を出さないまま、土方が一人で背負うことを当たり前のように語る。紛うことなく酷だ。

 それを酷だと指摘できるのは、近藤だからだろう。自分が土方にそうさせているのだと、自覚している近藤だからこそ。

 けれど、も近藤も、その先を話すことはできなかった。勢いよく部屋の襖が開き、血相を変えた土方と島田が飛び込んできたのだ。

「土方殿? いったいどうされたのですか?」

「……すぐ、逃げる準備をしてくれ。ここは、敵に囲まれてる」

「えっ!」

「敵兵は、二、三百はいます。奴らに気付かれないよう、裏口からここに入ってきました」

「せめて、桁がひとつ少なきゃ、どうにかできたんだがな」

 息を切らせた土方は、忌々しそうに外に目を向ける。新選組の戦力は、斎藤と共に市川にいる。二、三百の兵を相手にして切り抜けられるだけの戦力は、いまここにはなかった。

「今からじゃ、斎藤たちを呼び戻す時間もねえ。……ここは、俺がなんとかするしかなさそうだな。島田、それから、近藤さんを連れて先に逃げてくれ」

「いくら土方殿でも、昼間の体調では無茶です」

「やってみなきゃわかんねえだろ!」

「しかし、相手は銃を主体とした部隊です」

 飛び出そうとする土方を、と島田が止めた時だった。近藤が覚悟を決めた顔で立ち上がった。

「……待ってくれ。トシがそこまでする必要はない。俺が、向こうの本陣へ行くよ」

「何を言ってやがる! みすみす死ににいくようなものじゃねえか」

「もちろん、新選組の近藤だとは名乗らんよ。偽名を使って、別人に成りすますつもりだ。俺たちは旗本で、この辺りを警備している鎮圧部隊だと言えばごまかせるだろう。おまえたちが逃げる時間くらいは、稼げるはずだ」

 近藤の言うことはもっともだった。反論する言葉が見つからず、は島田と顔を見合わせて黙り込んでしまう。ただ、土方は声を荒げ、気色ばんで言い募った。

「何を言ってやがる! あいつらがそんな甘い連中だと思ってんのか!? 京で、散々見てきたじゃねえか! 奴らが俺たちを恨んでねえはずがねえ! すぐにバレて、捕まえられるに決まってるだろう!」

「……仮に捕まったとしても、俺はもう、大名の位をもらってるんだぞ? そう簡単に殺されはしないさ」

「あんたは、甘いんだよ! 旧幕府からもらった身分なんて、奴らにゃ毛ほどの価値もねえ! 殺されちまうのがわかってるのに、みすみす行かせられるはずがねえじゃねえか! それに、俺は羅刹になっちまってるんだ! 心臓を貫かれねえ限り、死ぬことはねえ! だから……!」

 土方の必死の訴えにも、だが、近藤の瞳は揺るがなかった。あまりにもまっすぐ、冷たいほどに動じず、土方を見つめ返す。

「……おまえがなにを言っても無駄だ。もう、決めてしまったことだからな」

 いままで、近藤が土方の献策を退けたことはなかった。だから、近藤がこんなに取りつく島もなく土方の言葉を拒絶するなど、考えたこともなかった。

 土方も、そうなのだろう。全身をわなわなと震わせて、憤りを迸らせて、渾身の力で叫んで食って掛かる。

「ふざけんじゃねえ! 大将のあんたがいなくて、何が新選組だ! 俺は、あんたを引きずってでも、連れて行くからな! 今更逃げ出すなんて、許すもんかよ! あんたの身体はもう、あんたひとりのものじゃねえんだからな!」

 土方の目には、涙さえ見える。もしかしたら、ここで行かせれば近藤が戻ってくることはないと、悟っているのかもしれなかった。

 冷静な土方が、激情家の近藤を押さえ、余裕綽々に近藤の望みを叶える。京ではお決まりの構図だったが、いまはそれが逆転していた。しかも、近藤は余裕綽々に捨て身の策を選び取って。

「ならば、これは命令だ! 島田君と彼女を率いて、市川の隊と合流せよ!」

「……!」

 近藤の命令は、土方の剣幕を凌駕するほど力強く、気圧された土方は喉を震わせた。

「……俺に命令するのか、あんたが。なに似合わねえ真似してんだよ」

 苦しい声で、絞り出すように土方はなおも抗う。ある種傲慢な言い方をしてでも、それでも近藤の決断を拒絶する。

「局長の命令は絶対なんだろう。隊士たちに切腹や羅刹化を命じておいて、自分たちだけは特別扱いか? ……それが、俺たちの望んだ武士の姿か」

 土方に応える近藤の言葉は、落ち着いていて、そしてなにより正しかった。土方がずっと芯にしてきたところを、正確に言い当てる。

「…………」

「島田君、、トシといっしょに早く逃げてくれ。もたもたしていると連中が押し入ってくるぞ。そうなると、俺が投降する意味がなくなってしまう」

 土方と近藤、この場でもっとも冷静で的確な命令を下しているのは、近藤だった。島田は迷うように土方を見たが、やがて、きっぱりとした口調で土方を促した。

「……副長、行きましょう」

「…………」

 土方は唇をかみしめ、それでもその場から動こうとしない。近藤は表情を和らげ、いつもの優しい声で土方に語りかけた。

「なあ、トシ。そろそろ、楽にさせてくれないか。俺をかつぎ上げるために、目を吊り上げて、あちこち走りまわって、しまいには羅刹にまでなっちまって……。そんなおまえの姿を見てる方が、俺はつらいんだ。俺は……、おまえにそこまでしてもらうほどの男じゃないからな」

「俺は……、俺のしたことは、なんだったんだ。侍になって、御上に仕えて……、戦に勝ち続けて……、そうすりゃあんたは一緒に喜んでくれるんだとばかり……」

「……すまないな。おまえにそこまでさせたのは、この俺だ。俺が、おまえを追い詰めたんだ。思えば、はかない夢……、だったなぁ。侍でもなんでもない俺たちが、腰に刀を差して御公儀のために働いてたなんて」

 近藤の優しい言葉は、なによりも容赦なく、土方に止めを刺したようだった。土方はきつく目を閉じて深呼吸を一つすると、顔を上げてなにもない目の前をぎりっと睨みつけた。

「……島田、残った隊士たちに伝令だ。逃走経路も確保しとかねえとな」

「はいっ!」

 島田は勢いよく返事をして、部屋を出て行く。その背中を見送りながら、土方はにも命令する。

、おまえはここで待ってろ。準備が済んだら、すぐ呼びに来る」

「はい」

 がうなずくと、土方も逃走の支度をしに行った。

 二人きり残された部屋で、は察するに余りある土方の心中を思い、ひっそりと息を吸い込む。きっと、こうと腹を決めたからには、土方はたくさんの想いを振り捨てて、やるべきことを怒涛のようにこなすのだろう。

 おもむろに懐に手をやった近藤は、なにやら取り出すと、に差し出した。

、これを持っていきなさい」

「なんですか?」

「逃亡資金だ。にはたくさん世話になったというのに、何もしてやれなかったからな。せめてもの気持ちだ。……受け取ってくれ」

「近藤殿」

 この人は、人にあげられるものをすべてあげてしまうつもりだ。そうわかって、受け取ってはいけないような気もしたが、押し問答をしている時間はない。は手を出して、近藤の財布を受け取る。

「今なら、まだ間に合うはずだ。トシには言っておくから、ここを出たら、兄君のところに戻りなさい。いくら薩長の連中でも、のような女性にまでひどい真似はしないだろう。兄君とは、万が一の時にはを戻すと約束した。その金があれば、実家に戻るまでの旅費にはなるだろう。兄君も、を無碍には扱わないはずだ。我々と関わったことは忘れて好いた男と結婚して……、静かに暮らしなさい。それが女にとっての幸せだと思うよ」

「近藤殿……」


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