近藤がのためを思って言ってくれたことも、この人と言葉を交わすのはこれが最後だろうことも、はっきりと確信している。だからこそ、しゃんと顔を上げ、まっすぐに近藤を見つめて、は答えた。
「それは女にとっての幸せかもしれなくても、わたくしにとっての幸せではありません」
「……」
「新選組の逃亡資金をいただきまして、ありがとうございました。拝命しております新選組副長補佐の任、引き続き、身命を賭して務めてまいります」
「……そうか。トシはいい補佐に恵まれたなぁ」
諦めたような、ほっとしたような、けれどまぎれもない笑顔を近藤は浮かべた。もふっと目元を緩め、微笑み返して、お辞儀する。
「副長が戻るまでに、己の支度をいたしますので、失礼いたします」
これからどんな逃亡をすることになるかわからない。晒を胸に巻く時間は取れないだろうが、せめて袴は着けてこなくては。
が自分の意思で自分の身の振りを選択しているのだと察した近藤は、うなずいてに最後の言葉を送った。
「ありがとう、。トシのことを……、これからもよろしく頼むよ」
が最低限の身支度を済ませるのと、土方たちが準備を整えるのとは、ほぼ同時だった。さして時間は残されていない。近藤の投降が効果を発揮しているうちに、ここから離れられるだけ離れなくては。
もしかしたら、近藤も共に逃げる隙を掴めるのでは。そう思って、は何度も振り返ったが、隙を掴めるどころか、近藤の姿を垣間見ることさえ叶わなかった。
そうしているうちに、一度も振り返らずに先に進んでいく土方と距離が開き始める。
「さん、大丈夫ですか? 何なら、俺がおぶって行きましょうか」
「ありがとう。でも大丈夫よ」
こんなところで、自分のために島田に体力を使わせるわけにはいかない。島田に気を遣わせてしまったことを反省して、はきっぱりと前を見据え直し、土方に追いつくべく足を進める。
そして、その後は二度と振り返らなかった。
市川まで、あとどのくらいだろうか。日が傾き、辺りが暗くなり始める。
このまま暗くなってしまえば、夜陰に乗じて朝までに斎藤と合流できるかもしれない。そう思ったときだった。
「おい、そこの者、止まれ! どこへ向かうつもりだ!?」
洋式の軍装。官軍の兵だ。厄介な相手に見つけられた。誤魔化してやり過ごすか、それとも一戦交えるか、どうしようか。と島田が目配せする先で、土方は険しい表情のまま通り過ぎようとする。
「止まれと言っているだろう! 貴様、まさか幕兵か!?」
「……いや、こいつの顔、どこかで見た覚えがあるぞ……。そうだ! 新選組の土方だ!」
「なんだと!? 坂本殿を暗殺した、新選組の副長か!」
土佐藩の兵らしい。銃を構える素振りを見せたので、島田もも一戦交える覚悟を決め、刀の柄に手を掛ける。しかし、土方が動く方が早かった。
「ぐぁっ……!」
「がふっ……!」
羅刹の力を解放し、白髪になった土方は、鮮やかな太刀さばきで二人を斬り捨てる。
「……運が悪かったな。今の俺は、ちょうど虫の居所が悪いんだ」
やり場のない憤りをぶつけるような土方の気迫は、離れた場所にいた官軍兵たちにも伝わったらしい。一斉に土方めがけて銃が放たれる。
「ぐっ……!」
数か所を被弾した土方は声を詰まらせたが、次の瞬間には銃創は消える。羅刹の力だ。
「これが、銃の痛みか。思ったよりどうってことねえな。……そうだ、なんてことねえよ。あの人がこれから受ける痛みに比べたら、全然なぁっ!!」
土方を突き動かしているのは、怒りなのか、悲しみなのか。憤っている感情は、複雑に混じりあっていて、どちらかわからない。両方なのかもしれない。
島田と2人で戦えば、羅刹の力を解放する必要などない。けれど、土方は白い髪と赤い瞳を光らせて、独りで敵を斬っていく。
「土方殿、わたくしも……!」
「うるせえ、黙ってろ!」
たまらなくなってが声を掛けると、土方の有無を言わせない怒声が返ってきた。その間にも、土方は次々と敵を屠る。
独りで、殺気を迸らせて。
全身に返り血を浴びて、誰の手も拒んで。
島田が冷や汗を流しながら土方の姿に見入る。惨烈な殺戮は、いままで何度も見てきたというのに、まるでかつて見たことのないものを見るかのように。
独りで緋に染まる土方の姿は、薄闇の中、ひたすらに凄惨だった。
「……島田、ほかに敵がいねえか、見て来てくれ」
「は、はいっ……!」
その場に立っている者が3人だけになってから、土方がぽつりと命じる。島田は我に返って、走り去った。
「……おまえも、一緒に行け」
背を向けている土方の表情は、に見えない。髪が黒く戻っていることだけわかった。だが、血に染まって、土方はいまどんな顔をしているのか。地の底から響くような声で人払いを、どんな顔で。
「その命令は、聞けません」
「……副長命令だぞ」
「局長より、トシを頼むと言われました。おそばにおります」
なにが言えるでもなく、なにができるでもない。でも、そばにいることならできる。土方がどんな顔をしていても、どんな言葉を叫んでも、変わらずにそばにいることならできる。
近藤の名を出したのは失言だったかもしれないが、にはわからなかった。ただ、副長命令に従わない理由を言わなくてはいけないと思って言っただけで、土方を傷つけるつもりもなかった。
それ以上、を追い払おうとしなかった土方の背から、殺気が消える。後に残ったのは、隠すことすらできないほど深い悲しみと寂しさだった。
「俺は……、何の為に、ここまでやって来たんだろうな。……あんな所で、近藤さんを敵に譲り渡すためか? そのために、今まで必死に走って来たのか? あの人を押し上げて……、もっともっと高いところまでかつぎ上げてやりたかった。関聖帝君や清正公どころじゃねえ。もっともっとすげえ戦をさせて……、本物の武将にしてやりたかった。片田舎の貧乏道場の主と農民の子で、どこまで行けるのか試してみたかった。俺たちは、同じ夢を見てたはずだ。あの人のためなら、どんなことだってできるって思ってた。なのに、どうして俺はここにいるんだ? 近藤さんを置き去りにして、どうして、てめえだけ助かってるんだよ? 結局……、結局俺は、あの人を見捨てて来たんじゃねえか! 徳川の殿様と同じで、絶対に見捨てちゃいけねえ相手を捨てて……、てめえだけ生き残ってるんじゃねえかよ!」
普段なら絶対に口にしないようなことを、斬りつけるような語気で土方は吐露する。聞いているのがだけだから言っているのか、が聞いていることなど構わずに吐き出したいのか。悲鳴のような絶叫は、の心を震わせて、きりきりと締めつける。
たまらなくなって、は土方に歩み寄ると、ぶつかるような勢いでぎゅっと抱きついた。汗と返り血の臭いに混じって、土方の匂いがする。土方の体熱に引かれるように、その上着に顔を埋める。
「どうか……、どうか、そんな言い方はなさらないでくださいませ……。……ご無念はお察しします。でも、近藤殿は、ご自身が命より大切と思うもののために、お命を懸けられました。土方殿が近藤殿を思うように、近藤殿も土方殿が大事だと、わたくしは聞きました。ですから、どうか、近藤殿が命懸けで守った土方殿を、土方殿も大切にしてあげてくださいませ」
震えているのは、どちらだろう? か、それとも土方か……。わからないほど近くで、手も、肩も、声も、間違いようもなく悲しみに震えている。
「近藤殿が土方殿を生かしたいと思ったあの時、こうなることは決まってしまったのです。近藤殿が命じたら、土方殿は逆らえませんもの……。近藤殿は、それを知っていたのですもの……」
「俺を生かすため、か……。新選組の近藤勇がいなくなった今、どうやって生きろってんだよ。あの人を高いところまで押し上げるって夢があったから、俺は今まで生きてこれたんだ。……それがなくなっちまった今、俺なんてもう、抜け殻みてえなもんじゃねえか。……近藤さんよ、あんた、俺に厄介ごとばっかり押し付けてくれやがるよな。俺は、便利屋でもなんでもねえんだぜ? ったく……」
抜け殻だと言う己を確かめるように、土方はを抱きしめ返した。それは息ができなくなるほどきつくて、は息を吐いてその痛みを受け入れる。
土方の声には、まだ持て余すほどの悲しみが籠っている。だが、どれだけ悲しくても、もう己を蔑むような剣の振るい方はしないだろうと、そう思えた。
斎藤たち市川隊と土方たち流山隊が合流すると、土方は単独で江戸に戻ると言った。
「わたくしもお供します」
「いや。やめておけ、」
名乗り出たを止めたのは、土方ではなく斎藤だった。
「副長は、局長の助命のために行くんだろう。なら、会う相手は幕府の重臣だった者たちだ。女連れはかえって心証を悪くする。あんたが行っても、助けになることはない」
「斎藤の言うとおりだな。おまえが有力な幕臣の娘だとかならまだしも、武家の出身ですらねえだろう。おまえは斎藤や島田と一緒に行け」
「ですが……」
「ダメなもんはダメだ。聞き分けろ」
最後は、まるで子供をあしらうようにすっぱりと土方に言われてしまい、は仕方なくうなずいた。
島田と斎藤は目配せし合って、安堵の息を吐く。
女は屋敷の奥から出てこないもの。それが常識の彼らに、土方の供回りが女であると知られるだけでも、印象は悪い。加えて、これから土方は、味方になる人一人いない江戸で、およそ想像できる限りの冷たい対応の中、近藤のために走り回り続けることになる。
が土方について行っても、事態が好転することはありえない。むしろ足手まといだ。そうでないとしても、にそんな目を味わわせたくはない。
がっかりと肩を落とすをよそに、土方は支度を整えると飛び出すようにして江戸へ発った。
「さて、さん、いまのうちにひとつ勉強をしませんか」
「勉強?」
土方がいなくなった後の気持ちを切り替えるかのように、島田が切り出して、は首を傾げた。
斎藤が島田を補足して、説明を続ける。
「この先の行軍に備えて、いまのうちに手を打っておきたい。まずは着替えだな。袴は着けてきたようだが、小袖と帯は女物だろう。男物に変えた方がいい」
斎藤が目を向ける方には、銃を背負った足軽たちが整列している。
「此度合流した市川の軍勢は、旧幕府軍の兵も含んでいる。我々新選組だけならともかく、余所の兵と一緒となれば、の安全が気になる。あんたは男物を着て、島田と勉強しろ」
「島田殿と?」
島田となにを学べと言うのか。見当がつかず、は傾げた首を今度は反対に傾ける。
「今後、が女であることを旧幕府兵に咎められたときは、医務担当だと言って切り抜ける。そのために、怪我人の応急処置や、病人の看病の方法を習得しろ」
「山崎君が戦死して、松本先生は江戸にいらっしゃる。医務担当が不在で、この先の行軍に心もとない部分があることも確かです。ですから、さん、医務担当をお願いします」
「わたくしが医務なんて……努力はするけれど、無理があるわ」
「無理かどうかではない。これは命令だ」
いつも淡々と、必要なことだけを口にする斎藤の言葉は、今日この時はいつになく厳しく響いた。は息を飲み、背筋を伸ばす。
「女を連れて行くことが、どれだけの危険を伴うかは、もわかるだろう。その危険は、自身のみに留まらない。新選組も危うくする。ついて来るなら、やってもらう」
きっとをこのまま連れて行くために、斎藤と島田が知恵を出し合ったのだろう。医務担当という大役が自分に務まる自信など湧かないが、他に選択肢がないことにも違いなかった。
「……わかったわ。一生懸命勉強して、精一杯務めるわ」
覚悟を決めてうなずいたに、ほっとした微笑を浮かべた島田が風呂敷包みを差し出した。
「教材として、ちょうどいいものがあります。これを……」
「これは?」
「切創や銃創の手当てなどを記した覚え書きです。……山崎君の遺品から出てきた物です。受け取ってください」
「そんな大切なもの……」
「さんがもらってくれるのが、山崎君がいちばん喜ぶと思いまして。お願いします」
風呂敷を開くと、使い込まれた表紙の帳面が出てくる。ぱらぱらとめくると、見慣れた山崎の手による解説がびっしりと書き連ねられていた。時折、図解も交えて、丁寧に処置の方法が記されている。
山崎は死してなお、を助けてくれる。
たまらなくなって、は山崎の帳面をぎゅっと抱きしめた。
「……副長が頭で、我々が手足。そしてが心……そう、山崎の日記に書いてあった。心を失うことなどあり得ないことだ。そのために我々が出来ることは、すべてやる。もそのつもりでついて来い」
斎藤の命令に、はこくりとうなずいた。