澪標

 授業も終わり、カバンの中を整えながら、スクデーリアは浮かれていた。

 今日は久しぶりに、放課後のボディガードに獄寺が来てくれる。だから、まっすぐ家に帰るのではなく、どこかに寄り道をしたいと思っていた。

 どこに行こうか。来月の初めにあるパパの誕生日のプレゼントを探しに行くのは、どうだろう。何の気なしに思いついた案が、意外と名案に思えて、スクデーリアはよし、そうしよう。と決めた。

 なにしろ、ディーノは必要なものも欲しいものも、大抵のものは持っているので、プレゼントを探すのはとても難しい。跡継ぎの男の子を欲しがっているのは知っているけれど、それは雲雀でないと叶えられない望みだということなので、スクデーリアは最初から除外している。

 獄寺さんなら、大人の男の人だし、いいアイデアをくれるかもしれない。

 カバンの蓋をぱちんと閉めて、スクデーリアはうきうきと教室を出た。



 獄寺は、もう校門の前に着いていた。下校する子供たちの「この人誰?」という視線に居心地悪そうにしながら、スクデーリアが出てくるのを待っている。

「獄寺さん、お待たせしてごめんなさい」

 スクデーリアは小走りに近づくと、門の前にすっきりと立つ獄寺に声をかけた。

「いや。そんなに待ってねーから、気にすんな」

 獄寺は優しく微笑んでそう言うと、停めてある車の方へとスクデーリアを促す。スクデーリアは獄寺について歩き出し、そして、いつもと違うことに気付いた。

 獄寺から、甘い香りがする。

 スクデーリアの知っている獄寺の匂いは、苦い煙草の匂いだった。スクデーリアの前では決して吸うことがなくても、獄寺の全身に染み込んだ煙はまるで焚き染めた香のように匂う。

 スクデーリアは煙草自体は馴染みがなくて苦手だが、獄寺の傍に寄ると必ず匂うその渋くて苦い匂いは、決していい匂いではないけれど大好きな匂いだった。

 なのに、今日はその苦い匂いをかき消してしまうほど強く、甘い香水の匂いがしている。獄寺が、甘い香水の匂いを、身体に染み込ませてくるような、そんな状況と言ったら……。

 スクデーリアは、自分の心がずっしりと重く、鉛を呑んだようになったのを感じた。

「リア? どうした?」

 突然足取りが重たくなったスクデーリアを、獄寺が心配そうに振り返る。スクデーリアは慌てて獄寺に並ぶと、顔を上げて笑みを作った。

「ごめんなさい。ちょっと考え事。あのね、まだ日にちはあるんだけど、パパのお誕生日のプレゼント、探しに行ってもいいですか?」

「跳ね馬の? あー…、来月の初めだったっけ。そうか、てことは、10代目もなにかご用意なさるよな…。…よし。オレも下見しねーといけねーし、今日は跳ね馬のプレゼント探ししよーぜ」

 独り言混じりにスクデーリアに答えると、獄寺は車に乗り込んだ。スクデーリアも乗ると、車はなめらかに走り出す。

 その後、獄寺の提案で高級文具店に行き、万年筆や名刺入れといったビジネス用品をいろいろと物色して、いくつかの候補を絞り込んだ。だが、スクデーリアの記憶には、どれも残らなかった。

 その日、スクデーリアは初めて、獄寺といる時間をつらいと思った。





 これって、たぶん、避けられてるんだよな…。

 スクデーリアからの連絡が、1週間以上来ないなんて、いままでないことだった。ちなみに、着信なしは今日で10日目だ。

 ボンゴレ本部の、守護者用サロン。日当たりのいいソファを1人で占領して、獄寺は携帯電話をチェックしていた。今日もスクデーリアの名前がない着信履歴を眺めて、獄寺は小さなため息をつく。

 スクデーリアは就寝時間が早い。だから、うっかり眠っている時間に電話してしまわないよう、スクデーリアから電話をするようにと言ったのは、ずいぶん前のことだ。それ以来、スクデーリアは数日置きに電話してきて、獄寺の予定を確認し、一緒に出かけたい日があればできるだけ早めに約束するようになっている。

 なのに、スクデーリアからの電話はぱったりと途絶えた。別に、しばらく忙しくなるという話もしていないので、スクデーリアが電話をしてこない理由が、さっぱりわからない。ただ、明確な根拠があるわけではないが、スクデーリアからの電話がないのは、避けられているからだということは感じていた。

 なんだよ。オレ、なにやった?

 考えてはみるものの、やはり心当たりがすこしも浮かばない。せめてスクデーリアに、避ける理由を教えてもえらえたら、と思うものの、肝心の電話がかかってこないのだからいかんともしがたい。

 謝るにしてもなにを謝ったらいいのかさえわからなくては、身動きの取り様がなかった。

 抜き打ちで学校に行ったら、会えるだろうか。

 思いついた案を、獄寺はいやいや…と却下した。ほぼ間違いなく、草壁という厚くて重い壁に阻まれる。

 こちらから電話すれば、連絡のない理由も聞けるか。

 この案も、いやいやいや…とすぐに棄却する。スクデーリアの直通回線は、自室の固定電話のみだ。電話するのはいいとしても、ディーノや雲雀の詮索が入れば厄介なことになる。

 ちくしょう。どうしようか。

 イライラしながら煙草の箱を探ると、空になっていた。ちっと舌打ちして、ストックに手を伸ばす。

「おい、獄寺。なにかマズイことにでもなってるのか? 本数、多いぞ」

 同じように休憩中だった了平が、獄寺の行動に気付いて声をかけた。獄寺は意識していなかったが、今日はもう2箱空にしている。了平の他にもそれに気付いている者は、みんな訝しげな視線を向けていた。

「どーにもなってねーよ。人の煙草だろ、ほっとけ」

 けっと吐き捨てて、獄寺は封を切ると1本取り出し、火をつけた。

 大きく吸い込んで火を安定させると、天井に向かってふーっと吹きだす。いつもなら、何度かそれを繰り返せば、気持ちも徐々に落ち着いてくるのに、今日は何度繰り返してもすこしも楽にならなかった。




 煙草はあっという間に短くなり、獄寺は新しい煙草に火をつける。煙でサロンが霞み、ランボが時折げほっと咳を始めた。仕方なく、クロームが窓を開けにいく。

「ちょっと、なにこの部屋」

 サロンのあまりの空気の悪さに、入ってきた雲雀が尖った声を上げた。不愉快げに顔をしかめ、つかつかと獄寺に近づく。

「煙いよ」

「そーかよ。なら出てけ」

 雲雀の方を見ようともせずに、獄寺は言い返した。無気力なその物言いに、雲雀の不機嫌ゲージが一気に臨界突破する。

「出てくのはキミだよ」

 すちゃっとトンファーをかまえた雲雀は、容赦なく獄寺に向かって振り下ろす。

「おわっ!」

 咄嗟に身体をひねってかわした獄寺は、ボムに火をつけながら叫んだ。

「てめー、急になにしやがる!!」

「うるさい。腑抜けが視界に入るのは不快だよ」

 その日の午後、ボンゴレ本部は守護者同士の私闘で、機能が麻痺した。





「ママ! どうしたの、その怪我」

 めったなことでは負傷しない雲雀が、小さな火傷をいくつか作って帰宅すると、スクデーリアは驚いて駆け寄った。

「信じられない。ママに怪我させられる人がパパ以外にいるなんて」

「やったのは獄寺隼人だよ」

 綱吉の仲裁で痛み分けに終わったバトルを物足りなく思っている雲雀は、苦々しく口を開いた。雲雀が怪我をしているだけで驚いていたスクデーリアは、相手が獄寺だということにさらに驚く。

「獄寺さんと? なんで?」

「獄寺隼人に煙草の煙でクレームつけたら逆切れされたから、咬み殺してやろうと思ったんだよ。沢田綱吉が留守だったら、きっちり仕留めるところまでできたんだけど。…リア、獄寺隼人がなんで荒れてるのか、なにか聞いてない?」

 雲雀はメイドに紅茶を言いつけると、サロンのソファに腰を下ろす。スクデーリアは向かいに座ると、首を振った。

「ごめん、ママ。わたし、10日くらい獄寺さんと話してないから、よくわからない」

「ふぅん? リアが彼とそんなに連絡取ってないなんて、初めてじゃない?」

「うん…、そうだね」

 思いつきで呼び出すには獄寺は忙しすぎるので、スクデーリアはできるだけまめに電話をして、獄寺の予定を教えてもらっていた。実際にボディガードの約束をするのは、月に2度あれば多い方という程度だが、一度、獄寺の都合がつかなくて山本に来てもらったら、獄寺の機嫌がそれは悪くなったので、また同じことになってしまわないよう、気をつけるためだ。

 雲雀もそれは知っていたので、スクデーリアが10日も獄寺と連絡を取っていないとは、思ってもいなかったわけだが……。

 なんだ。リアからの電話がなくて拗ねてただけか。

 獄寺の情緒不安定の謎があっさりと解明されて、雲雀は拍子抜けする。メイドが持ってきた紅茶を受け取ると、やれやれとソファに身を預けてカップを口に運んだ。




 就寝前の時間、スクデーリアは自分専用の電話と向かい合って、物思いに沈んでいた。

 獄寺が荒れている。それが、自分が電話をしていないことが理由なのなら、不謹慎とは思うけれど嬉しい。

 でも、本当に獄寺がスクデーリアからの電話がないことを寂しがってくれているのだとして、それはスクデーリアと話をしていないことを寂しいと思ってくれてのことだろうか。もしかしたら、いつもあるものがないことが寂しいだけなのかもしれない。そもそも、あんなにしっかりと香りが移るくらい近くで接する女性がいるなら、スクデーリアの電話なんて、待っているはずもない。

 まだ、声を聞くのもキツいな…。

 別に、獄寺は恋人ではないけれど。スクデーリアは妬き餅を妬ける立場ではないのだけれど。スクデーリアでは相手にならないのだと思い知らされるのは、やっぱり悲しい。

 浮かんできた涙を何度も瞬きして散らし、もう寝よう、とスクデーリアは立ち上がる。その拍子に、クリスマスに獄寺からもらった金の鏡が視界に入り、スクデーリアは手に取った。

 この鏡は、獄寺からのプレゼントで、クラスメイトに取られたときも獄寺が取り返してきてくれた、スクデーリアのいちばんの宝物だ。

 蓋に浮き彫りになっている百合を、そっと指先で撫でる。上から下に、そして下から上に。何度か繰り返しているうちに、スクデーリアは、獄寺がいままでどれだけ自分に時間や気配りを割いてくれていたのか、思い出していた。つまらない嫉妬でこれ以上迷惑をかけていい人ではなかった。

 そしてスクデーリアは決めた。たとえ獄寺が自分のことを知り合いの女の子としか思っていなかったとしても、それでいい。もし自分が電話をして、偶然でもなんでも、明日、獄寺の気持ちが穏やかになっているなら、電話をしよう。

 鏡をドレッサーに置くと、スクデーリアは電話の前に戻る。

 明るい口調で、でももう夜だから、はしゃいだふうにならないように。

 深呼吸して、自分に言い聞かせて、そして。

 スクデーリアは馴染んだ短縮番号に指を伸ばした。


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