「あれ？ リア、どーした？」
思いがけずボンゴレ本部でスクデーリアの姿を見かけて、獄寺は煙草を消しながら近づいた。スクデーリアは声をかけられるまで獄寺に気付かなかったので、足を止めて驚いた顔で振り返る。
「獄寺さん。こんにちは。…本部にいらしたんですね」
先日聞いた予定では、獄寺は留守にしているはずだった。スクデーリアは、不意打ちの出来事に動揺して、それが表情に出てしまってはいないかと慌てた。
獄寺から女物の香水の匂いがして以来、電話では何度か話していたものの、こうして顔を合わせたのは初めてだ。スクデーリアはまだ、獄寺と普通に話ができる自信がなかった。だが、こうして会ってしまっては、そんなことも言っていられないし、スクデーリアはそのことを獄寺に告げるつもりはこれっぽっちもなかった。だから、なんとかして、平静を装う。
獄寺のほうはと言えば、半月ぶりにスクデーリアに会ったことで、本人も意識していないうちに気持ちが上向いていた。スクデーリアの思いとは裏腹に、スクデーリアの表情を特に意識することもなく、並んで歩き出す。
「ほんとは商談で出るはずだったんだけどよ。ちょっとモメて、ドタキャンになったんだ。リアこそ、こっち来るなんて、なんかあったのか？」
「うん。ドン・ボンゴレがわたしにドレスを作ってくださることになって、そのお話をしに。本格的な社交界のドレスなんて初めてだから、楽しみなの」
スクデーリアはできるだけ獄寺のほうを見ないようにしながら、獄寺に答えた。だから、いろいろと気になる内容に獄寺が変な顔をしたことにも気付かずに、綱吉の執務室へと進んでいく。
獄寺はスクデーリアについてきていた草壁を振り返ると、どういうことかと目顔で訊ねる。草壁はすこし待てという表情を見せると、スクデーリアに先に綱吉の執務室へ入るように合図した。
うなずいたスクデーリアが廊下のすこし先にあるドアの中へ姿を消すと、獄寺に向き直り、草壁は口を開いた。
「実は、リアお嬢さんは次のパーティで社交界デビューをすることが決まりました」
社交界と言っても、上流階級や財界人の集まる表の世界の社交界とは違う。ボスや有力幹部といった実力者たちで構成される、イタリアン・マフィアの社交界だ。表の社交界と同じくらい華やかだが、格段に物騒でもある。
「リアがデビュー？ 早すぎだろ」
だいたい15、6歳でデビューすることが多い社交界に、10歳でデビューするなど、獄寺は聞いたことがない。聞きとがめた獄寺に、草壁も渋い顔でうなずいた。
「本当なら、まだ数年先の予定でした。ですが、リアお嬢さんの噂がこちらの思っていた以上に一人歩きをしていて……。形だけでも正式に人前に出すほうが、かえってリアお嬢さんの安全のためにはいいだろうと、ドン・キャバッローネが判断しました」
確かに、そうすればスクデーリアを取り巻く情勢は、ずっと安全なものになる。だが、社交界にデビューしてしまえば、これまでのように気安く一緒にはいられない。
スクデーリアが突然知らない女性になってしまったような錯覚を覚えて、獄寺は茫然と草壁を見る。しかし、それを気にしない草壁は、構わずに話を続けた。
「その際には、ボンゴレ主催のパーティで、ドン・ボンゴレの後見を受けるお方ということで紹介されます。ですので、デビューのドレスは、ドン・ボンゴレが贈ってくださると」
「ああ、それで10代目のところに……」
獄寺はスクデーリアが入っていったドアに目を向けてうなずいた。その獄寺に、草壁は寂しさと誇らしさの混ざった声で、ぽつりと漏らした。
「早いものです。お嬢さんが生まれたのはついこのあいだのことのようなのに、もう社交界に出られる歳におなりとは」
「……そうか。あんたにとっちゃ、リアはヒバリの腹の中にいるときから守ってきた子供なんだよな」
「はい。…あなたにとっても、そうでしょう？」
草壁は同意を求めるように訊ねたが、獄寺は答えるべき言葉が出なかった。
「手間取らせたな」
煙草を取り出しながら、草壁の説明に礼を言い、獄寺はその場を離れた。
他の人間がいそうな守護者用サロンに行く気になれず、獄寺は庭に出ると、大きく煙を吐き出した。
草壁にとっては、スクデーリアは半分娘のようなものなのだろう。生まれる前からずっと、片時も離れずに守ってきたのだ。当然のことだろう。
草壁の問いかけが、獄寺の脳裏に響く。『あなたにとっても、そうでしょう？』 獄寺は、それに同意することができなかった。
獄寺にとって、スクデーリアは娘ではない。〝ヒバリの娘〟。確かにそうだ。だが、それも獄寺にとってのスクデーリアの存在を表現しきった言葉ではない。
「オレは……」
煙混じりの声が、その先の言葉もないまま、零れ落ちる。
スクデーリアは、最初はヒバリの娘だった。けれど、ある日いきなり、１人の女の子になっていた。普通の女の子のようでいて、ただの女の子とも違った。それは、なんて呼んだらいい存在なのだろう？
社交界にデビューした女性は、その日から正式にプロポーズを受けることができるのが慣習だ。同時に、社交界の紳士協定で守られる。その点で、スクデーリアをデビューさせてしまうことが、結果的にスクデーリアを守ることになるというディーノの判断は、間違っていない。
ただ、スクデーリアは、その姿を見たことのある者の噂だけで〝黒真珠〟の二つ名がつくほどの美少女だ。正式に社交界に出入りするとなれば、求婚する男は掃いて捨てるほどいるに決まっていた。
スクデーリアの婚約者が決まれば、スクデーリアのボディガードは、守り役の草壁と婚約者になった男が交代で務めることになる。そうなれば、獄寺がスクデーリアの下校を門の前で待って一緒に寄り道することもなくなるし、スクデーリアがそのために夜寝る前に電話をするのは、獄寺ではなく婚約者の男だ。
ぐしゃりと、火のついたままの煙草が獄寺の手の中で潰れる。ぎりぎりと締め上げられた吸殻はぼろぼろにちぎれて、芝生の上に散った。
腸が煮え繰り返るというのは、こういうことを言うのだろうか。吐き出し方さえわからない怒りが、獄寺の中で渦を巻く。
スクデーリアが、別の男のものになる。それがこんなに許せないものなのだと、獄寺はこのとき初めて知った。
綱吉がスクデーリアのために手配したのは、優しい色使いで知られるデザイナーだった。
顔映りや好みを知りたいので、持参したサンプルを着て見せて欲しいと言われ、スクデーリアは何着ものドレスを次々と試着していた。
「やっぱり、ピンクがいいんじゃないかな。桜色とか朱鷺色とかの、淡くて優しいピンク。さっき着てたので、そんな感じの、あったよね」
そう言った綱吉に、あれは特によく似合っていたと、デザイナーも相槌を打つ。スクデーリアはこれだって充分すてきなドレスだと思うけどなと、ほとんど白に見える水色のドレスを着ている自分を鏡に映した。
胸が膨らみ始めたばかりの身体は、まだまだ、女性らしいとはお世辞にも言えない。ちゃんとしたドレスを着たら、獄寺はすこしでも自分を女の子として意識してくれるのだろうかと、スクデーリアは鏡の中の自分をじっと見つめた。
もしもそうなら、綱吉に頼んで、思い切り女の子らしいドレスにしてもらおうとスクデーリアは思う。花びらを重ねたようなチュールのドレスなら、獄寺も自分を子供じゃなくて女の子なんだと思ってくれるかもしれない。
移り香の相手と競えるなんて、初めから思っていない。ただ、女の子として見てもらいたいだけ。たったそれだけが、スクデーリアには、たまらなく遠い願いだった。
「リアちゃん？ どうしたの、ピンクは嫌？」
「あっ、いいえ！ ピンクは大好きです。あの、こういうドレスって着慣れてないので、ドキドキして……」
考え事に沈んでいたスクデーリアに、綱吉が心配そうに訊ねる。スクデーリアは首を振って否定すると、鏡の前でくるりと回った。スカートがふわりとひろがって、おとぎ話のお姫様のようだと思う。
「うん。ひらひらしたスカート、軽やかで似合うね。リアちゃんのドレスは、桜色のふわふわのドレスにしよう」
にっこり笑った綱吉は、スクデーリアに着替えてくるように言うと、デザイナーに最終的な指示をして、打ち合わせを終える。別室で自分の服に着替えたスクデーリアがサンプルのドレスを返すと、デザイナーはデザインが出来上がったらまた来ますと言って帰っていった。
「それでね、リアちゃん。オレからもうひとつ、贈り物」
ふたりだけになって、ソファに座ったスクデーリアの前に、綱吉が片手で持てる大きさの壜を置いた。百合の花がモチーフのその壜には、液体が詰まっている。
「開けてごらん。気に入ってくれると思うんだけど」
言われるままに蓋を開けると、花の香りが辺りに広がる。どこかで嗅いだ気もする、甘いけれどくどくない香りだ。スクデーリアが好きなのも、こんな軽い花の香りだった。
「まだお化粧はダメだってヒバリさんが言ってたけど、なにもなしじゃ寂しいでしょ？ だから、お化粧の代わりにどうかな。百合とスズランの香水なんだけど」
思いがけない贈り物に、スクデーリアは綱吉にお礼を言うのも忘れて、ぽーっと壜を見つめている。どうやらずいぶん喜んでくれたようだと、綱吉は安心してくすくす笑った。
「よかった、気に入ってもらえたみたいだね。獄寺君にもお礼を言わないといけないな」
「え…？」
獄寺の名前が出たことで我に返ったスクデーリアが顔を上げると、綱吉はひとつうなずいて説明した。
「その香水ね、獄寺君に選んでもらったんだ。オレ、リアちゃんの好みとか詳しくなかったし、本人に訊いたらサプライズじゃなくなっちゃうから。獄寺君ならリアちゃんといることが多いから、きっといいのを選んでくれると思ってね」
「獄寺さんが、この香水を……」
つぶやいたと同時に、この香りを以前どこで嗅いだのか思い出して、スクデーリアはあっと叫んだ。先日の獄寺の移り香だ。香水は、つけたてと時間が経ってからとでは、微妙に香りが変わるものが多いので、まったく同じではないが、間違いない。
「どうしたの、リアちゃん？」
スクデーリアが叫んだきり黙り込んでしまったので、心配になった綱吉はスクデーリアを覗き込む。そして見たものに内心は慌てながら、身体を起こした。
うつむいたスクデーリアの目からは、ぱたぱたと涙が落ちていた。
すこし考えて、その理由にたどり着いた綱吉は、ポケットからハンカチを取り出そうとして、止める。スクデーリアの涙を拭うのに自分よりずっと相応しい人物を知っていたからだ。
ハンカチではなく携帯電話を取り出し、手際よくメールを送る。
『いますぐ執務室に来ること』
珍しく命令口調の文面を、獄寺はどう思うだろうか。たぶん、深く追求しないまま、廊下を走ってくるだろう。
綱吉は静かに泣くスクデーリアを残して、そっと執務室を出る。予想通り、獄寺は廊下の向こうから走ってきた。
「10代目！ どうなさったんですかっ！？」
叫ぶ獄寺に、唇の前に人差し指を立てて静かにしろと合図した綱吉は、一言だけ耳打ちした。
『次に泣かせたら、覚悟してね』
いったいなんだという思いと、まさかという予想に駆られて、獄寺は綱吉の執務室に飛び込んでいく。
綱吉は誰かはいるだろう守護者用サロンへと足を向けながら、ディーノさんに電話しなくちゃと考えた。
キャバッローネの部下が取り次いだ電話、久しぶりの弟分に嬉しそうなディーノに、綱吉は予想しうる未来にわくわくしながら告げるのだ。
「リアちゃんの社交界デビューにあたって、リアちゃんが15歳になるまでは、獄寺君が認めた人物でなければリアちゃんに求婚してはいけないって条件つけたいんですけど、いいですよね？」
