商談の会食から帰ってきたディーノは、甘いチョコレートの匂いに相好を崩しながら、食堂へ足を向けた。
テーブルの上には、雲雀が焼いたガトー・ショコラが乗っている。まだ敷き紙を剥がしていないそれは、まさにオーブンから出したばかりの焼きたてだった。
「ああ、帰ってたの。いいタイミングだね」
七分立てのホイップとティ・セットを両手に持った雲雀が、厨房から出てくる。ディーノは「ただいま」と言って、雲雀の手からティ・セットを受け取った。
「おかえり。ガトー・ショコラ、どのくらい切る?」
「ちょっと大きめがいいな。恭弥の菓子が待ってると思ったら、料理食った気がしなくってさ。まだ腹減ってるんだ」
「お腹出っ張ったら、別居だよ」
「大丈夫、ちゃんと食った分消費してるから」
雲雀はちょっとため息をつくと、ガトー・ショコラの敷き紙を剥がして、大きく切って皿に乗せ、ホイップを添えてディーノに出した。切り口からほかほかと湯気の立つガトー・ショコラに、ディーノは嬉しそうな顔でフォークを入れる。
「うん、美味い! やっぱり、恭弥の焼いた菓子食うと、バレンタインだって気がするな」
ディナーのフルコースを食べてきたと思えない速度で、ディーノは皿を空にする。雲雀はもう一切れを皿に乗せると、紅茶のカップを隣に置いた。
「あなた、それ毎年言ってるね」
「だって、本当にそう思うんだからしょーがねーよ」
今度はゆっくりと味わいながら食べるディーノは、テーブルに雲雀の焼いたケーキしかないことに気付いて、首を傾げた。
「なぁ、恭弥。リアもクッキー焼いてたよな?」
「そうだね」
「……オレの部屋にあるのかな…」
「もらえると思ってたの、あなた?」
てっきり、自分のためのクッキーだと思っていたディーノは、雲雀の辛辣な一言にショックでかしゃんとフォークを落とした。
「ええっ!? あれ、オレのためじゃなかったのか?」
「年頃の女の子が、なにが悲しくて父親にバレンタインの贈り物するのさ」
「だって、日本じゃ感謝チョコってのがあるんだろ?」
「誰に聞くの、そんな話? そもそも、ここはイタリアだからね」
さらりと雲雀に言い負かされて、ディーノは訴えるように雲雀を見つめた。しかし、雲雀は平然と紅茶を飲んでいる。
「嘘だぁっ!!」
ガツッ!
うわぁん! と食堂を走り出そうとしたディーノの足元に、雲雀はトンファーを投げつけた。足を取られたディーノは、べしゃっと転ぶ。
「リアはもう部屋に戻ってるよ。邪魔したら、明日の学校に響くでしょ」
有無を言わせない雲雀の口調に、ディーノはスクデーリアと獄寺の進展具合を察知して、床に伸びたままさめざめとすすり泣き始めた。
雲雀が熱い紅茶を飲み切るくらい時間が経っても、ディーノは起き上がりもしないでうっうっと嗚咽を漏らしている。ボスの威厳も風格も、銀河の彼方へ吹き飛ばしていくその情けない姿に、雲雀は空になったカップをテーブルに置くと、メイドに後片付けをまかせて仕方なく立ち上がった。
ディーノが伸びているところまで来ると、すぐ横にしゃがみ込む。
「リアがいつか好きになった誰かのところに行っちゃうのなんて、10年前からわかってたことでしょ。こんなことじゃ、お腹の子に笑われるね?」
「だってよー……」
「あなた、僕がいるのにリアのことばっかり。僕、しばらくボンゴレに寝泊りしようかな」
「嫌だ」
のっそりと起き上がったディーノは、雲雀を捕まえるように抱きつく。なんとか関心をスクデーリアのクッキーから逸らせたらしい。雲雀はやれやれとため息をついた。
「おっきな子供。あなたがいちばん手がかかるね」
「恭弥ぁ…」
「はいはい。僕はいるんだから、あんまりいじけないの」
うりゅうりゅと雲雀の肩に懐くディーノを、ぽんぽんと背を叩いてあやし、雲雀はディーノに立ち上がるよう促す。
雲雀は、ディーノがスクデーリアの片想いの相手が獄寺で、獄寺もスクデーリアを憎からず想っていることを知っているとは、知らない。しょげきったレトリバーのようなディーノを連れて寝室に向かって歩き出した雲雀は、ディーノが立ち直ったら、くれぐれもクッキーをあげた相手のことをスクデーリアに訊かないように言い聞かさなくては、と思った。