数日がかりの出張から帰ってきた山本は、普通なら見ないはずの光景を見かけて足を止めた。
ボンゴレ本部の広い廊下を、金髪の幼女がきゃあきゃあと笑いながら走ってくる。後ろからは、くたくたのランボがへろへろの足取りで追いかけて来ていた。
「よぉ、カナじゃねーか! どーしたんだ、ヒバリについてきたのか?」
「あ、タケシニイ! こんにちは」
ぱっと止まってお辞儀をする金糸雀を、「こんにちは」と返事した山本はひょいと抱き上げる。肩に座らせると、金糸雀は山本の頭に「きゃー!」と嬉しそうに抱きついた。
「た…助かりました、山本氏……」
「お疲れ、ランボ」
ぜーぜーと息を切らしたランボの肩を労いで叩くと、ランボはぐしゃっと潰れた。金糸雀はランボとの鬼ごっこが大好きなので、おそらく今日も、相当走り回っているのだろう。苦笑した山本は、「カナ借りるぜー」と言い残して、帰着報告のために綱吉の執務室に向かう。
高いところが大好きな金糸雀は、肩に担がれているときは機嫌よく大人しくしている。なので、動き回る金糸雀に困ったら、山本や了平が肩に乗せてしまうというのが、守護者たちの編み出した対策だった。
まだ幼稚園の金糸雀の体重なんて高は知れている。重たいというよりは、親子ごっこをしているようなもので、むしろ可愛かった。
「なー、カナ。今日はどーしたんだ? ディーノさんとヒバリ、出張かなんかか?」
「パパ? パパは、ママと一緒に、温泉行ったよ。だから、カナはリアと一緒に、ツナニイのところにお泊りなの」
「そっか。それじゃ、お土産が楽しみだな?」
「うん。いい子にしてたら、いっぱいお土産買ってきてくれるって。だから、カナ、ランボニイと遊んで大人しくしてた」
ランボがヘバるまで走り回ることは、大人しいうちに入るのだろうかと思いつつ、山本は「そりゃ偉かったな」と相槌を打った。スクデーリアと違って活発な金糸雀にとっては、遊ぼうと誘う相手がランボだけというのは、立派に『大人しい』のだろう。金糸雀は、「えへへ」と得意げに笑う。
「あ、いた、カナ。もー、勝手にお部屋の外に出ちゃ、ダメじゃない」
廊下の向こうから、スクデーリアが小走りにやってきた。どうやら金糸雀を探していたらしいと気付いて、山本は金糸雀を降ろしてやる。
「こんにちは、山本さん」
「ああ、こんにちは。リア、何日かボンゴレに泊まるんだって?」
金糸雀と手を繋いだスクデーリアは、山本に並んで歩き始めると、うなずいた。
「はい。赤ちゃんが生まれて自由な時間が取りにくくなってしまうまえに、ママと2人で温泉旅行に行きたいってパパが言い出して…。わたしは城で留守番するつもりだったんだけど、ママが、キャバッローネの部下はわたしたちを叱れないから、ボンゴレに泊めてもらいなさいって」
「…まあ、ボスの娘を叱れる部下は、そんなに多くねーだろーな」
「そうみたい。わたしは、ロマーリオや哲に叱られても、わたしが悪かったんだって思うだけだけど」
「リアはそうだろうけど、おっさんたちには、わかっててもちっと厳しいとこだろうな。ま、いまさら遠慮する間柄でもねーし、何日だって好きなだけ泊まってけ」
「うん。ドン・ボンゴレもそう言ってくださったし、遠慮なくお世話になります」
そう言って、スクデーリアはぺこりと頭を下げる。隣で、金糸雀も釣られたように頭を下げた。やっぱり、子供っていいなぁ…と、山本は心を和ませる。
「部屋は、居住区の客室か?」
「いえ、クロームさんが、一緒に寝ようって声をかけてくださってて」
「カナ、クロームネエのベッドで一緒に寝るの!」
憧れのお姉さんであるクロームの部屋に泊まることができると、金糸雀は目をキラキラさせる。金糸雀のはしゃぎっぷりにすこし疲れているスクデーリアは、「クロームさんを困らせちゃダメなのよ」と金糸雀に釘を刺した。
「なんだ。オレはてっきり、リアは獄寺のとこで寝るんだと思ったぜ」
「…えっ!?」
瞬間的に赤くなったスクデーリアは、驚いて立ち止まる。山本はにやりと意味深な笑みを見せると、綱吉の執務室のドアをノックした。
「めったにねーチャンスだろ? ディーノさんには内緒にしとくぜ?」
山本が言うのと同時に、入室を許可する返事が聞こえて、山本はさっさと中へ入っていく。
廊下には、真っ赤になって立ち尽くすスクデーリアと、突然立ち止まったスクデーリアを不思議そうに見上げる金糸雀が残された。
「リアたち、置いてきちゃって可哀想だったかな」
雪に覆われた庭の見える部屋で、雲雀はふとつぶやいた。座卓を挟んで向かいに座るディーノは、湯飲みに口をつけながら「大丈夫だろ」と返事をする。
日本でもかなり有名な山の中の温泉旅館は、すっかり雪に包まれている。乱されていない雪景色はそれは美しくて、2人は窓の外を眺めながら、のんびりと麦茶を飲んでいた。
雪が音を吸い込んでしまうので、静けさがいつもよりも存在感を増す。けれど、いつもよりも静かだと感じるのは、雪のせいばかりではなかった。
「守護者連中に構われてりゃ、寂しいと思う間もねーさ。ツナんとこだから、心配もいらねーしな」
「それはそうなんだけど…じゃなくて、リアもカナも、まだ日本に連れて来たことないでしょ。連れて来れば、喜んだかな、と思って」
「そりゃまあ、恭弥が生まれた国なんだから、喜ぶとは思うけど」
言葉を切ると、ディーノはつと立ち上がって、雲雀の背後に回る。すとんと脚を投げ出して座り込み、開いた脚の間に座布団を敷くと、雲雀の腕を引いてそこに座らせた。
ディーノに後ろから包み込むように抱きしめられて、雲雀は本当にディーノはこの体勢が好きだなぁと思う。雲雀だって、この位置はひそかに気に入っているのだけど。
「せっかくふたりきりなんだから、リアたちのことばっか気にすんの、止めよーぜ。そのために、いちばん安心なとこに預けてきたわけだし」
「……うん。そうだね…」
雲雀が背後のしっかりした胸に寄りかかると、ディーノは雲雀の身体に回している腕を、支えるように回し直した。そして、片手で雲雀の頬や髪をやさしく撫で始める。
服越しに寄せた耳に、ディーノの心音がうっすらと聞こえる気がする。知らず安心する雲雀の胸中に、ただディーノと一緒にいられればよかった頃の感覚がふっとよみがえった。もう10年もまえの感覚だ。心地よいのと同時に、たまらなく懐かしい。
昔に戻ったようだ…と思いかけて、気付く。いまの状況は、昔のようでもなんでもない。つい、くくくっと笑いが零れた。
「恭弥?」
1人で楽しそうに笑っている雲雀に、ディーノが首を傾げる。雲雀はディーノを見上げると、笑い混じりに答えた。
「リアたちのこと気にしないで2人だけって、昔みたいだと思ったんだけどね。考えてみたら、僕たち、まったくの2人きりでどこかに来たのって、初めてなんだよ。…気付いてた?」
髪を梳くように撫でるディーノの手を、雲雀は握って止めさせる。ディーノは、たまには恭弥に手を握られるのもいいな…などと思いながら、記憶を掘り起こした。
「……あー…、そっか。ロマーリオも置いてきたの、確かに初めてか」
「そうだよ。変でしょ、もう10年も一緒にいて、子供だって3人もいるのに」
ディーノはいつだって何人もの部下を引き連れていたし、そうでなくてもロマーリオはかならず近くにいた。デートのときくらいは、距離を普段より多めに取ってくれたりはしたけれど、完全にいなかったことなんて寝室くらいだ。
「リアが生まれてからは、プライベートは絶対ぇリアが一緒だったしな」
当然、金糸雀が生まれてからはもっとにぎやかで、感じる愛しさの種類が家族のそれであることが大半を占める。夜を過ごすときの〝愛しい〟は、もうちょっと原始的で不純だ。純粋にいちばん最初の〝愛しい〟に戻ったのは、どのくらい振りになるだろうか。
「まあ、厳密には、いまだってこの子が一緒にいるんだけど」
雲雀は最近ふくらみがわかるようになってきたお腹をそっと撫でる。ディーノは身を乗り出すと、冗談めかして雲雀の腹に話しかけた。
「頼むから、旅行中はママをオレに独占させてくれよ」
「…あなた、子供になんてこと頼むの」
呆れ顔の雲雀に、ディーノはちょっと拗ねた表情で言い返す。
「いまだけくらい、いーだろ。こいつは生まれたら何年も恭弥のいちばんでいられるんだぜ」
「それを言ったら、あなたは一生、子供たちの次だよ」
「恭弥……」
容赦のない現実にすっかりしょげたディーノの頭が、ずしりと雲雀の肩に乗っかる。雲雀は手を上げて、ディーノの金髪をぐしゃぐしゃにした。
「お腹のこの子が可愛いお嫁さんをもらったら、またあなたをいちばんに戻してあげる。あなた、20年くらい待てるでしょ?」