「……え?」
ずいぶん意外な言葉を聞いた気がして、ディーノは目を瞬かせた。頭を上げ、こちらを振り返る雲雀の目をまっすぐに見つめて、確かめる。
「恭弥。いま、『お嫁さん』って言った?」
「言ったよ」
「嫁さんって、男の子がもらうんだよな?」
「違うんだったら、僕はあなたのなにになるのかな」
「腹の子は、嫁をもらう子なのか」
「お婿に行っちゃう選択肢もあるけど、どうする?」
「……………マジで?」
「どうだろうね」
雲雀は手を伸ばして卓の上の湯飲みを取ると、冷めかけの麦茶を飲んでほっと息をつく。
お腹の子は、まだ男の子とも女の子ともわからない。けれど、スクデーリアや金糸雀がお腹にいるときによく見られた傾向が一向に現れないので、なんとなく、この子は男の子だという確信めいた予感が、雲雀にはあった。
ディーノが動く気配がまったくしないので、見上げると、ディーノは魂が抜けたように固まっていた。しばらく見ていても、ディーノは瞬き以外凍ったように動かないので、ちょっと考えた雲雀は、ちゅっと軽いキスをした。
「…っ、きょ…っ……」
「ああ、動いたね」
不意打ちのキスに一瞬驚いて、次にはぱぁっと笑みを浮かべるディーノに、雲雀は淡々と言うと、空になった湯飲みに麦茶のおかわりを注いだ。
「ぬか喜びさせたことになるのかな。まだはっきりとわかったわけじゃないんだ。でも、たぶんそうじゃないかって、僕は思ってるよ」
「恭弥が思うんなら、間違いねーよ」
満面にやさしい微笑を浮かべて、ディーノは雲雀を抱きしめ直す。雲雀は湯飲みを卓に戻すと、ディーノの胸に頬を摺り寄せた。
「……10年かかった…。待たせたね」
「別に、時間は気が遠くなるくらいあるんだから、10年くらい、どうってことねー」
「………。……そうだね」
いつの間にか、外は雪が降り始めて、白銀の景色をさらに白く染め直していた。
全室が離れのこの旅館では、食事も部屋で摂ることができるし、露天風呂まである立派な部屋風呂にも温泉の湯を引いているので、ディーノのタトゥへの人目を気にする必要もない。
夕食の前に一風呂浴びてメインルームに戻ると、卓の上には趣向を凝らした懐石料理が並んでいた。手の込んだ膳に、和食好きの雲雀の顔が綻ぶ。
「あなた、和食でよかったの?」
席に着いた雲雀は、ふと気付いて、心配そうにディーノに訊ねる。さすがに10年も一緒にいれば、壊滅的なディーノの箸使いに手の施しようがないことは、よくわかっている。料理はとても美味しそうだが、ディーノがきちんと食べられるか心配だ。
しかし、ディーノは雲雀の言いたかったことを違う意味で解釈して、「日本の温泉に来て、イタリアンも味気ないだろ?」などと笑った。
諦めのため息をついた雲雀は、気を取り直して「いただきます」と膳に手を合わせると、箸を手に取って食べ始める。旅館にはあらかじめ雲雀の食べ物の好みを伝えていたので、どれも雲雀好みの繊細な味付けのものばかりだ。
「……なに?」
じっと見つめるディーノの視線に気付いて、雲雀が顔を上げる。ディーノは緩く首を振ると、自分も箸を手に取った。
「いや、いつ見ても、恭弥の和食の作法って綺麗だな、と思ってよ」
「そう? 僕は基本の作法しか知らないから、特別なことはなにもしてないと思うけど」
「んー、だから、余計に綺麗に見えるのかも。動きがすごく自然だから、なかなか気が付かねーけど、一度わかるとすごく綺麗で目が離せなくなるんだ」
「ふぅん? …まあ、本来の姿を薀蓄すれば、日本料理っていうのは、床の間、外の景色、食器の選び方、盛り付け、作法、すべてを包括して完成するものだからね」
「……おまえって、本当に和食好きなんだな」
めずらしく、あまり興味がないはずの薀蓄まで語る雲雀に、ディーノが言えたのは、そんな単純な感想だった。
「恭弥、そんな難しいこと考えながら、メシ食ってたわけ?」
「まぁね。それに、食べ方が綺麗な方が得することもある」
どこかの馬も見蕩れてくれるし。と、雲雀は微笑を浮かべる。未だに、部下がいないと綺麗に食事ができないディーノは、すこし肩身が狭い。
「女の子は、食べ方の汚い男には、厳しいよ。あなた、もうすこし作法を頑張ったら?」
雲雀の言葉はもっともで、取引先との会食にはかならず部下を同席させるディーノは、居心地悪げに視線を彷徨わせる。言い返せないのが悔しくて、ディーノはちょっと考えると、餡かけの蟹しんじょに箸を伸ばした。
「恭弥」
呼び掛けて、ジェスチャーで口を開けろと促すと、雲雀はきょとんとした顔で口を開ける。ディーノは身を乗り出して、雲雀の口に蟹しんじょを運んだ。条件反射で口に入れた雲雀は、咀嚼しながら、いまの行為がなんなのかを認識して真っ赤になる。
「作法ばっか考えてたら、こーゆーこと、できねーだろ。無作法上等! ってなもんだ」
得意そうに笑みを浮かべるディーノを、雲雀は拗ねたように睨みつける。ディーノに食べ物を口に運ばれたのは、長い付き合いの中で、初めてだ。反撃されたことも悔しかったが、なにより無性に恥ずかしい。
意趣返しに、雲雀はディーノの皿に残っていた最後の車海老の焼き物を取ると、ぱりぱりと殻を剥き始めた。そして、今度は自分に食べさせてくれるのかと期待するディーノの目の前で、見せ付けるように一匹丸ごと口に入れる。
「ああっ!! 恭弥、ひでぇっ! 海老、楽しみに取っといてたのに」
がたっと立ち上がったディーノは、卓を回って雲雀の隣に駆け寄る。雲雀の皿にはもう車海老は残っていないので、雲雀の海老を取ってチャラにすることはできない。
雲雀が噛み切った尾を皿に戻す。ディーノはがっかりした目で海老の尾を一瞥すると、ぐいっと雲雀を引き寄せてキスをした。目を瞠る雲雀を放すと、ディーノの口には雲雀から取り返した、まだ咀嚼されていなかった海老が咥えられている。
「ちょっと、僕の海老!」
「オレの海老だっ!」
「信じられない、僕が口に入れたのに」
「恭弥の口に入ったもんなら、オレには充分、取り返せる範囲だぜ」
「…っ!!」
言い負かされた雲雀は、もぐもぐと海老を噛むディーノの膳に手を伸ばし、今度は鯛のお造りを失敬する。すかさず、ディーノは海老を飲み込み、雲雀が大事に取っておいた鹿肉の陶板焼きを口に運んだ。
「あっ、僕の鹿!」
「恭弥だってオレの鯛食ったろ!」
「やだ。返して」
「もう飲み込んぢまったもん」
「はぁ!? あり得ない、この馬鹿馬!!」
娘たちの前では絶対にやらない大人気ない料理の取り合いは、仲居がディーノの頼んだビールを運んでくるまで、際限なく続いた。
コンコン。
強くはないがしっかりしたノックに、獄寺は書類から目を離すこともなく「入れ」と答えた。
また新しく書類が届いたのか。いつになく多い案件の数に、獄寺は小さく舌打ちをする。雲雀が旅行で不在にしているので、雲雀でなくても処理できる案件は、綱吉と獄寺が抱えていた。密かにオーバーワーク気味だ。これ以上はそろそろ厳しい。
せっかくスクデーリアが本部に泊まりに来ているというのに、そして天敵であるディーノは不在にしているというのに、肝心の自分が忙殺されかかっていて、スクデーリアとの時間が取れない。苛立ちは、獄寺の荒い承認サインに表れていた。
「あの…、獄寺さん」
「書類なら、そっちのサイドテーブルに置いとけ」
「…ごめんなさい」
低く短い獄寺の指示に、声は謝って離れていく。はっと気付いた獄寺は、慌てて顔を上げた。
「悪ぃ、リア!! 勘違いした!」
呼び止められて、戸惑いながらスクデーリアが振り返る。獄寺は煙草を灰皿に押し付け、部下に換気を命じると、スクデーリアを手招いた。
机を回りこみ、おずおずと獄寺の座る椅子の前にスクデーリアが来る。その手を取って、獄寺はスクデーリアと目線を合わせた。
「悪かった。まさかリアが来るとは思ってなかったんだ。なにか用だったか?」
スクデーリアを気遣う獄寺の眼差しに、スクデーリアはすまなさそうに首を振った。
「獄寺さんがサロンにいなかったから、来てみただけなの。なにも用があるわけじゃないのに、ごめんなさい」
「いや、謝ることねーよ。リアが来てくれて、すげー嬉しい」
「でも、こんなに忙しそうなのに、わたしがいたら邪魔になるよ」
机の上には、読みかけの書類。右のサイドテーブルには決裁待ちの、左のサイドテーブルには決裁済みの、書類が山積になっている。椅子を90度回転させるとちょうどいい位置には、パソコンデスクが設置されていて、数分おきにメールが何通も届いていた。
獄寺が忙しく仕事をしている姿を初めて見たスクデーリアは、普段、獄寺がどれだけ無理をして時間を作っているのか、わかってしまった。自分が遠慮しては、獄寺の気遣いを無駄にしてしまうのだとしても、自分のわがままのために獄寺が無理をすると思ったら、スクデーリアは素直に獄寺の言葉を受け取ることができない。
獄寺はスクデーリアが迷っていることに気付いて、あえてけろりとした口調で言った。
「邪魔なもんかよ。リアがいてくれたほうが、仕事の能率も上がるんだぜ」
「本当?」
「なら、リアがここにいて、本当かどうか、見てたらいいさ。リアがいねーときより、絶対ぇ早く書類が片付くぜ」
なぁ、と同意を求められて、獄寺の部下たちはこくこくとうなずいた。ここでうなずかなければ、あとでどんな目に遭うかしれないと、獄寺のすぐ下で働く部下たちはよくわかっている。
しかし、そんな裏事情を知らないスクデーリアには、部下たちの立派な裏書だ。獄寺がスクデーリアのために吐いた嘘ではないと納得して、ほっとした表情を浮かべた。
「それなら、わたし、お部屋の隅で獄寺さんのこと、見ていていい?」
「部屋の隅なんて、寂しいこと言うなよ。ここにいたらいい」
言うが早いか、獄寺は自分の左膝にスクデーリアを乗せた。転げ落ちてしまわないように、スクデーリアは反射的に獄寺の肩に掴まって、バランスを取る。
「獄寺さん、わたし、重いよ?」
「そうか? オレは、マシンガンより軽いと思うけどな」
獄寺はははっと軽く笑う。スクデーリアにはマシンガンの重さはわからなかったが、すくなくとも、獄寺が軽いと言ってくれるのはお世辞ではないことは伝わってきた。
「それじゃ、獄寺さんのお仕事が終わるまで、ここで見てるね」
スクデーリアから頬に「頑張ってね」のキスをもらって、獄寺はふたたび書類に目を落とす。獄寺の書類は見てはいけないものだと知っているスクデーリアは、間違って書類を見てしまうこともないようにと、ぺったりと獄寺の胸に頬を寄せた。
「リア、泊まる部屋はどこになるんだ?」
書類をさばきながら、獄寺はすぐ横のスクデーリアに訊ねる。スクデーリアは顔の近さにドキドキしながら答えた。
「クロームさんが、一緒に寝ようって誘ってくれたの。だから、カナと一緒にクロームさんのお部屋に泊めてもらうつもり」
「オレのとこに来いよ。カナはクロームに預けてさ。いっぱい話しようぜ。リアの学校のこととか、好きなものとか、普段聞けないことまで、ぜんぶ教えてくれよ」
「うんっ!」
そして、獄寺はスクデーリアを愛しげに膝に乗せたままデスクワークに励み、言葉どおりに普段よりも早く、夕食の時間になる前に仕事を切り上げることができたのだった。
雲雀が、旅行中の言葉どおりに元気な男の子を出産するのは、これから5ヶ月後のこと。
その枕元でディーノは、次に日本に行くときには、子供たちみんなを連れて、桜の時期にと、雲雀に約束をした。