胡蝶

 ボンゴレでのマナー研修を終えて、帰路に着こうとしたスクデーリアを呼び止めたのは、意外な人物だった。

「お帰りになるところを申し訳ない、黒真珠。力を貸して欲しいんです」

 そう言ったのは、獄寺の秘書を務める青年だった。スクデーリアとは、顔を合わせることはあっても、言葉を交わしたことは今までない。スクデーリアはあまりに驚いて言葉も出ず、瞠った目をぱちぱちと瞬いた。

「力不足を曝して、情けない話ですが……もう、あなたしか、頼れる人がいないんです」

 切羽詰った懇願に、スクデーリアは訳もわからないまま、とりあえずうなずいた。




 マナー研修の後は、たいてい守護者用サロンで兄代わりたちとおしゃべりを楽しんでから帰宅するスクデーリアが、今日はまっすぐに帰ろうとしたのには、訳があった。

 ボンゴレ・ファミリーのボスであり、スクデーリアの後見人でもある綱吉に、今日からしばらく、ボンゴレ本部に長居してはいけないと言われたからだ。

 大ボンゴレの中枢である本部のこと、子供とは言え、他ファミリーの総領娘であるスクデーリアがいては都合がよくない日も、時にはある。そうでなくても、綱吉の指示には絶対に従うよう、雲雀から言い聞かされていたので、スクデーリアは余計な質問をせずに言いつけに従ったわけなのだが……。

「今朝からずっと申し上げているのですが、電話会議に書類決裁、商談対応。私の言葉なんて、お聞き入れくださらないんですよ。黒真珠がお帰りになる前に捉まらなかったら、いったいどうなったことか……」

 スクデーリアは説明のような愚痴のような秘書の言葉を聞きながら、ふたたびボンゴレ本部の奥へと導かれていた。

 コンコン。カチャ。

 形式だけノックをすると、秘書は慣れた動作で獄寺の執務室のドアを開ける。促されるままに中に入ったスクデーリアは、小さく息を飲んで奥の執務机へと駆け寄った。

「獄寺さん、なんて顔色…!」

「……リア?」

 執務机を回り込み、獄寺の腕に手を掛けたスクデーリアを、獄寺が振り向く。いつもなら、驚きながらも嬉しそうに微笑んでくれる場面で、しかし、獄寺はとても辛そうな顔つきをしていた。

 もともとの色白を差し引いても、なお青白い顔色。生気のない虚ろな目つき。スクデーリアは反射的に、肘掛に手をついて伸び上がり、頬に触る。

「…熱がある。獄寺さん、こんななのに、なんで仕事なんて」

「……大丈夫だ。……心配、ねーから……」

 安心させようとする言葉は、激しい咳で切れ切れになる。だが、獄寺に休むつもりがないのは、聞くまでもなくわかった。これでは、秘書が困り果てるはずだ。

 そして、綱吉がスクデーリアを早々に帰らせたがっていた理由も合点が行った。きっと、獄寺の風邪は性質の悪いものなのだ。スクデーリアにうつさないために、隔離しようとしたのだろう。

 うつるとかどうとかは、この場合、問題ではない。とにかく絶対に休ませなくちゃ。とスクデーリアは意を決して、深呼吸する。

「獄寺さん」

「…なんだ? すぐに終わらせるから、ちょっとだけ待っててくれ」

「待たない。今日はもうお仕事しちゃダメ。お願いだから」

「そういうわけにはいかねー。リア、仕事の邪魔をするなら、リアでも許さねーぞ」

 獄寺が仕事熱心なことは、スクデーリアにもわかっていた。仕事を的確に迅速に片付けていく姿を、かっこいいとも思っている。けれど、それもこれも、獄寺の体調と引き換えられるようなものであるはずがない。

 許さないとまで言われて、一瞬怯みはしたものの、スクデーリアはなんとか堪えると、獄寺のスーツをそっと掴んだ。

「邪魔をしたいんじゃないの。獄寺さんが心配なだけ。お願いだから、今日はもうお仕事やめて」

「頼む、リア。オレには、やらねーといけねー仕事があるんだ」

「それは、どーしても獄寺さんがやらないといけないの? どーしても今日じゃなくちゃダメ? そうしないと、ボンゴレが潰れる? ……それなら、仕方がないけど……」

 せめて熱が下がるまでだけでも休んで欲しい。どうすれば獄寺にこの気持ちが伝わるだろうかと、スクデーリアは必死に獄寺を見上げる。

 息が詰まりそうなほどの沈黙に包まれた部屋で、先に降参したのは、獄寺だった。

「……わかった。オレの負けだ。今日のこれからと明日は、休むことにする」

 大きく息を吐きながら、獄寺は体の力を抜いて椅子の背にどさりと凭れる。その様子も、普段の姿に比べたら、格段に力がなかった。

「本当!? よかった!」

 弾けるように叫んで、スクデーリアはぎゅっと獄寺の腕に抱きつく。その途端、獄寺の体がぐらりと傾いだ。

「獄寺さん!!」

「シニョーレ!! 黒真珠!」

 獄寺を受け止めきれずによろめくスクデーリアに、驚いて駆け寄ってきた秘書が手を貸す。

 助け起こされた獄寺は、荒い息を吐きながら、ぐったりと目を閉じていた。





「あ、起きた」

 ふぅっと目を開けると、すぐ横からスクデーリアのほっとした声が聞こえた。

 身体が重くて起き上がれず、獄寺は顔だけをそちらに向ける。スクデーリアが椅子に座って、心配そうな微笑を浮かべて獄寺の顔を覗き込んでいた。

「リア…」

「気分はどう? 獄寺さん、執務室で倒れたのよ」

 スクデーリアに言われて、獄寺は初めて、自分が執務室で倒れたのだと理解した。見える景色から、自室のベッドに寝ているのだとわかり、自分の失態に苦い表情を浮かべる。

「…っち、情けねーな……。すまなかったな、リア。心配しただろ」

「うん。心配したし、びっくりした。もうしないでね」

 ふにゃ、と眉尻を下げて、スクデーリアにお願いされては、10代目命、ひいては仕事命の獄寺も、否応なくうなずいてしまう。

「わかった、善処する。…ところで、どーやって部屋まで?」

「秘書の人にお部屋に運んでもらって、メイドに着替えをやってもらったの。寝てる間もずいぶん汗かいてたから、もし起き上がれそうなら、また着替えた方がいいと思う。できそう?」

「ああ…」

 スクデーリアの穏やかに気遣う声が心地よくて、獄寺はふと微笑を零す。体調が悪くて、気持ちも弱っている時に、横にスクデーリアがいて心配してくれることが、こんなに幸せなことだとは思わなかった。

 獄寺が着替えに同意したので、スクデーリアはサイドテーブルの洗面器に保温ポットから湯を注ぎ、タオルを浸す。

 ふらつきながら身を起こす獄寺が、パジャマのボタンを外しているあいだ、スクデーリアは獄寺の身体を支えて、動作を手伝ってくれた。

「じゃあ、汗を拭くね」

 ほかほかと湯気を立てるタオルをぎゅっと絞り、スクデーリアは丁寧に獄寺の背中を拭き始める。だいたい拭き終えるかと思う頃、ふとスクデーリアの手が止まったので、獄寺は苦笑いを零した。

「いいよ、リア。正面は自分で拭ける」

 そう言って手を出すと、スクデーリアはほっとした顔で絞り直したタオルを乗せた。やはり、この状況で向かい合う姿勢になるのは、恥ずかしいらしい。

「じゃあ、獄寺さん、これが着替え。脱いだ服は、そこのカゴに入れて。…わたし、なにか食べるもの、もらってくるね」

 獄寺の横に着替え一式を置いたスクデーリアは、そう言うと、部屋を出て行った。食べるものなんて、メイドを呼び鈴で呼べば済むのだから、ズボンも着替える獄寺に気を使ったのだろう。

 誰かに、看病するにはどうしたらいいか、教わったのだろうか。一生懸命に世話を焼いてくれる姿が、とても愛しい。

 着替えを終えた獄寺は、ふたたびベッドに潜り込む。横になると楽に感じるのは、おそらく、かなり熱が上がっているからだろう。測ったわけではないが、感覚でわかる。

 きっとあれだ。先日、成り行きでやった寒中水泳がいけなかったのだ。心当たりがあることが、体調管理の甘さを指摘されているようで、かえって嫌だった。

「獄寺さん」

 うとうとと微睡んでいると、スクデーリアが戻ってきた。その手にガラスの器を持っている。

「白桃のコンポートを冷やしたものだけど、どう? 何か食べないと、お薬飲めないし……」

 体調の悪いときは、冷たくて甘いものが食べやすいと思ったのだろう。器の中で、よく煮込んだ白桃が、甘い香りを放っている。

 獄寺はだるい首を動かし、スクデーリアに顔を向けると、小さくうなずいた。

「そうだな、リアが食べさせてくれるなら」

「えっ!?」

 正直なところ、食欲は感じなかったが、スクデーリアが食べさせてくれるなら、食べてもいいと思った。

 スクデーリアは、獄寺の気恥ずかしいリクエストが本気かどうかを確かめるように、獄寺を見つめる。大人なら、さらりと受け流すか、軽く笑って付き合ってくれるか、といったところだろう。困ってしまうという反応が、少女らしくて、また可愛らしい。

 獄寺は催促するように体の向きを変える。獄寺が冗談でからかっているのではないとわかったスクデーリアは、桃をフォークで一口大に切ると、獄寺に向かって差し出した。

 桃を口に入れた瞬間、冷たくて甘い果汁が喉を潤していくのが感じられた。柔らかく煮えた果肉を噛むと、さらに水分があふれ出してくる。いつもなら積極的に口にしたいとは思わない果物のコンポートを、こんなに美味しいと感じるのは、腫れた喉に心地いいからだろう。

 一生懸命に差し出される桃を、運ばれるままに食べた獄寺は、瞬く間に器を空にしてしまった。

「じゃあ、お薬も」

 桃の次は、白い錠剤。薬と聞いた途端に、なにも喉を通らない気になってしまうのは、いったいなぜだろう。ゲンナリした獄寺に無理矢理薬を渡して、スクデーリアはグラスに水を注ぐ。仕方なく、獄寺は数粒の錠剤を一息に飲み下した。

「お薬飲んだから、また寝たらいいよ、獄寺さん。わたし、今日はここに泊まってくね」

「泊まってくって……ヒバリはいいのかよ」

「ママなら、獄寺さんの秘書の人が連絡してくれたから、大丈夫。心配だから、今日は一緒にいさせて」

 話しながらも、ベッドに沈んでいく獄寺の肩まで掛け布団を引き上げてくれるスクデーリアは、やけに頼もしく見えて、獄寺はふと自分が安堵に包まれていることに気付いた。

 ああ…、体調悪い時に安心するって、こういうことなのか。

 言葉では上手く表現できない、けれど確かに存在している幸福感を実感しながら、獄寺は回復の眠りに落ちていった。


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