蛍 01

 学校帰りの寄り道で、スクデーリアは獄寺とショッピングモールに来ていた。夏用のサンダルを買いたいと獄寺に頼んだら、連れて来てくれたのだが……。

 警備上の都合で、人の多い施設に行くことが少ないスクデーリアは、モールのあまりの大きさに圧倒されて、サンダルを見るどころではなくなってしまった。すっかり気後れしているスクデーリアを心配した獄寺が、苺チョコ味のフラペチーノを買ってくれたが、それを飲んでも、スクデーリアのカルチャー・ショックは収まりそうになかった。

「リア? 疲れたなら、どこかで休むか?」

 口を半開きにして、呆然と周囲を見回すスクデーリアに、獄寺が気遣わしげな言葉をかける。反射的に首を振って断ったものの、スクデーリアは獄寺に手を引かれるまま、ただついて歩くだけだった。

「リア、普段はこーゆーとこ来ねーのか?」

 スクデーリアがあまりに場慣れしていないので、獄寺はふと思い至って訊ねてみる。スクデーリアは「うん」とうなずいた。

「必要なものは、ママに頼んだら、メイドが用意してくれるし…。自分で選びたいものは、外商を城に呼んでるから。獄寺さんと一緒に街のお店に入ったこともあるけど、こういう大きいところは、警護が大変だから行っちゃダメって、パパが」

「ったく、警護の都合かよ。別にいーじゃーねーか、ちょっと警護が難しくなるくれー。なぁ?」

「そうじゃなくて…。警護で関係者以外立ち入り禁止にするから、街の人に迷惑をかけるんだって。だから、そこのお店じゃなくちゃ買えないってわけじゃないなら、行くべきじゃないって」

「けど、それじゃリアがモールに来れねーじゃねーか」

「わたしはいいの。わたしが我慢すると、街の人たちみんなが、モールで買い物できるんだって。だからいいの。パパが言うのが、正しいと思う」

「そうか…。……リアは偉いな」

 煙草の匂いが染み付いた大きな手でくしゃりと髪をかき混ぜるように頭を撫でられて、スクデーリアはくすぐったそうに笑う。

 ディーノの言うことに素直に納得して従い、獄寺に褒められてはにかむ様は、獄寺にはやけに眩しかった。愛しげに目を細めた獄寺は、しかし次の瞬間、さっと表情を険しくした。

「獄寺さん?」

 獄寺の雰囲気が変わったことに敏感に気付いたスクデーリアも、警戒する目で周囲を見回す。

「リア、少しの間だけ、我慢しててくれ」

「はい」

 突然の獄寺の言葉に戸惑いながら、スクデーリアはそれでもうなずいた。スクデーリアも、もう、黒いスーツの男たちを従えたけばけばしい女がこちらに向かって歩いてくることに気付いていた。

「奇遇ね、シニョーレ・ゴクデラ。あなたはこんなところ、来ない人だと思っていたわ」

「ご無沙汰しています、シニョリーナ・パヴォーネ」

 挨拶を返しながら、獄寺はさりげなくスクデーリアを背後に隠すように動いた。

「まったくよ。混合種の仔馬にかかりきりだって聞いたけど、いつまでかまけるつもりなの?」

「申し訳ありません」

 淡々と答える獄寺に、パヴォーネは苛立たしげな声を上げる。

「わたしだって、自由じゃないのよ。あなたがぐずぐずしてる間に、他が決まってしまったら、どうするのよ」

「私は10代目のご意思に従うのみです」

「どうせ、まだ子供のじゃじゃ馬でしょ。相手にする奴なんか、いないわよ。適当に放っておけばいいじゃない」

「……そういうわけにもいきません」

 ぎりっと力が篭もった獄寺の拳に血が滲む。スクデーリアははっと息を飲み、獄寺の背中を見上げた。

「シニョリーナ・パヴォーネ、あなたはもう少し、発言を考えたらどうですか? あなたのいまの言葉がもし10代目のお耳に入ったら、父親の立場がどうなるか、賢いあなたならわかるでしょう?」

「大丈夫よ。聞いているのはわたしの護衛とあなただけ。あなたがドン・ボンゴレにわたしのことを言うはずがないわ」

 パヴォーネは自信たっぷりに言い切ると、意味深に獄寺の頬に手を伸ばした。獄寺は反射的に身を逸らして避ける。

「あら」

 パヴォーネの視線が下へ向いたのは、そのときだった。急な獄寺の動きについていけなかったスクデーリアが、そこに取り残されていた。

「あなた…」

 不快げにつぶやくパヴォーネがスクデーリアに手を伸ばそうとした瞬間、獄寺がスクデーリアの前に割り込む。

「申し訳ありません、シニョリーナ・パヴォーネ。…仕事中ですので、私はこれで」

「わたしより、その子の方が大事なの?」

 わざわざパヴォーネの手が届かない距離まで下がった獄寺が、スクデーリアのためにまた元の位置まで戻ってきたことに、パヴォーネの声が尖る。

「当然です」

 詰問口調のパヴォーネに、獄寺は即答した。先ほどからずっと、パヴォーネの言葉に傷ついていたスクデーリアは、獄寺が守ってくれていることに安堵して、獄寺のスーツを握る手に力を込めた。

 だが、次の瞬間の言葉に、スクデーリアははっとする。

「10代目がご自分の娘のように大事にされているお嬢さんですから」

 獄寺は、冷たい口調でそう言い切った。

 思いも寄らない獄寺の言い方に思わず見上げた先で、無表情の顔を見つけ、スクデーリアは縋っている手をふと離した。

 獄寺のグリーン・アイズが、氷河のように冷たい色をしている。生い茂る草原のような優しい色になることを知っているスクデーリアが見ても、背筋がすっと凍るほどに。

 スクデーリアでさえそうなのだから、パヴォーネはなおさらだったのだろう。納得していないことは表情でわかったが、それでも、口に出してさらに詰め寄ることはしなかった。

「そう…なら、仕方ないわ。また今度、ゆっくりお会いしましょう」

 スクデーリアへの憎々しさを隠し切れない様子で、しかし、パヴォーネは精一杯の虚勢で微笑むと、背を向けて去っていく。獄寺は浅くお辞儀をしてその姿を見送った。

「あの…、獄寺さん?」

 パヴォーネが見えなくなり、獄寺が身体を起こすと、スクデーリアはおずおずと声をかけた。途端に、獄寺は新緑の草原の眼でスクデーリアを見る。

「びっくりさせちまったな。怖かったか、リア?」

「……うん…」

 そんなことはなかったと嘘をつく余裕もなく、スクデーリアはうなずく。そんなスクデーリアの様子が、獄寺には、パヴォーネの言葉に傷ついているのだと映った。

 実際、パヴォーネの物言いはひどかった。いまここで揉めるわけにいかない相手だと思えば、手のひらに爪を立てても堪えたけれど、なにも制約がない状態なら、女であろうと構わず殴っていた。

「リア…」

 なにか言わなくてはと、獄寺は言葉を探す。陳腐ではなくて、でもスクデーリアの傷ついた気持ちを癒せるような、なにか……。

 しかし、獄寺にスクデーリアのための言葉を探す時間は与えられなかった。

 ふっと周囲の気配が変質したことに、獄寺は気付く。2人…いや、3人? ショッピングモールには相応しくない、暗い気配が近づいてくる。それも、むき出しではない、気配を押し殺しているが故に感じられる特有の気配。

「悪い。買い物はまた今度でいいか?」

 突然険しい表情に変わった獄寺に、スクデーリアはこくんとうなずいた。

 周囲を警戒しながら、しかし警戒していることを悟られないように装い、車を停めてきた方向へと歩き出す。しかし、いくらも行かないうちに、ぱたぱたという足音が気になり、獄寺ははたと立ち止まった。

 振り返ると、スクデーリアが走ってついてきていた。大人の獄寺の歩幅は、いくら通常の速度とは言え、少女のスクデーリアには歩いてついていけるものではなかった。

 獄寺は自分の迂闊さにちっと舌打ちする。いくら不測の事態とはいえ、いつもなら忘れないスクデーリアとの歩幅差を失念するとは、なんという失態か。

「ちょっとごめんな、リア」

「きゃあ!?」

 そう声をかけると、獄寺は追いついたスクデーリアをひょいと抱き上げ、左肩に座らせた。驚いたスクデーリアは、反射的に獄寺の頭に縋りつく。

「そうやって、しっかり掴まってろ」

「は、はい!」

 スクデーリアが返事をするが早いか、獄寺はふたたび歩き出す。獄寺がスクデーリアの脚をしっかりと抱えているおかげで、スクデーリアは体勢を崩すこともなく、獄寺の肩に乗っていられる。スクデーリアはめったに経験することのない高さと速さにどきどきして、獄寺を見下ろした。

 視界のほとんどは、綺麗な銀髪。その先には、額や鼻梁が覗いている。普段はよく見えない長い銀色の睫毛がはっきりと見えた。瞬きで上下に揺れる睫毛の向きから、獄寺が周囲を警戒して目を配っていることが見て取れる。いくら綺麗でも、見蕩れている場合ではなかったと、スクデーリアは自分の不謹慎さにうろたえ、視線を彷徨わせる。と、スカートの上からとはいえ、獄寺が太ももに触れているのが視界に入り、先ほどの自戒の甲斐もなく、スクデーリアはかぁっと頬を染めた。

 ショッピングモールの建物を出て、駐車場に停めていた獄寺の車に乗る。警戒している素振りを見せないよう、獄寺は特に急がずにエンジンをかけた。

 車に乗り込んでからエンジンをかけるまでの一連の動作の間、獄寺はじっとバックミラーを睨む。黒スーツにサングラスの男たちが数台の車に分乗する様子がミラー越しに確認できた。

 一般道に出て、速度を上げる。黒塗りの車がぞろぞろと後をついてくる。やや多めに距離を取りはしているものの、逃がす気はないようだ。獄寺は小さく舌打ちをすると、おもむろに口を開いた。

「悪かったな、リア。買い物もできねーで、逃げるみてーに出てきてよ」

「ううん、いいよ。モールのお客さんを巻き込まないためなんでしょう?」

「リアは話が早くて助かる」

 苦笑いを零す獄寺に、スクデーリアは微笑み返す。なぜ突然討手を差し向けられるのか、その理由はすこしも見当がつかないが、討手から逃げ切らなくては命がないことは理解できていた。

「リア。しばらく、スピード出すぜ。シートベルトだけじゃなくて、グリップにしっかり掴まってろ。揺れた拍子にぶつけちまうからな」

「はい」

 うなずいたスクデーリアは、左側にあるハンドグリップを握り締める。獄寺の運転は決して荒くなかったが、追われている状態では、何が起きるかわからなかった。

「ヤツらはヴィストーソ・ファミリーだ。いちおうボンゴレの同盟ファミリーなんだが、地位は低くて、忠誠心もそれほどじゃねー。ボスのセダノは、あんまり才覚がなくてな。ファミリーは事実上、野心家の娘に牛耳られてる。ボンゴレとしちゃ、迷惑被る前に切りてーと思ってるファミリーだ」

「娘さん?」

「そうだ。さっきのパヴォーネって女さ。すぐに刺客を差し向けてくるところを見ても、あまり賢くはねーってことはすぐわかるだろ? 自分独りじゃ伸し上がれねーってわかってるから、パヴォーネは守護者の誰かと結婚しようって腹で、オレにもなにかと絡んできやがる。うっとーしーが、切るための根回しが済んでねーうちは、我慢するしかなくてよ」

 スクデーリアに簡単に説明しながらも、獄寺は追手との距離を維持する。

 郊外のショッピングモールからの道は、平日の午後であるためか、車通りが少ない。それが、吉と出るのか、凶と出るのか。いまはとにかく、スクデーリアに怪我をさせないうちに、ボンゴレ本部へ戻ることが第一だった。

 獄寺の説明を聞いたスクデーリアは、獄寺の心労を想像して、眉を寄せる。

「それは、獄寺さん、大変だね」

「ありがとな。…しかし、やるに事欠いて、リアを狙ってくるとはな。ヴィストーソも、終いだ」

 吐き捨てるような獄寺の口調は、しかし、どことなくすっきりしたものを含んでいた。獄寺がそこまで言い切る根拠に心当たりがなく、スクデーリアは首を傾げた。

「わたしが狙われてるの? わたしがキャバッローネの娘だから?」

「いや、たぶん違ぇな。オレがリアを大事にしてるからだ。さっきも言ったろ、パヴォーネは守護者の誰かと結婚したがってるって」

「だから、獄寺さんと一緒にいたわたしを狙うの?」

「独身で男の守護者は、オレと山本と骸…。その中で、オレなら、お互いの利害が一致しさえすれば政略結婚をOKすると踏んでるんだろ。ま、オレがフリーだったなら、あながち悪い読みでもねー。だから、オレと一緒にいる女は排除するつもりなんだろーな」

「わたし、まだ小学生だよ?」

「そーだな。けど、あの女は、リアをただの小学生だと思わなかったってことだ。…いい読みしてやがるぜ。こんな目に遭わせちまって、本当にすまねー」

 苦い顔で悔やむ獄寺に、スクデーリアは首を振った。獄寺は、充分すぎるほど、スクデーリアを守ってくれている。獄寺と一緒でなかったら、スクデーリアは今頃、モールの駐車場の片隅で撃ち殺されていた。

「でも、なんでわたしを狙うと、終わりなの?」

「リアは知らなくても当たり前だけどな、リアはマフィアの世界じゃ、お姫さまみてーなもんなんだぜ。父親は跳ね馬、母親はヒバリ、後見人は10代目で、リアになんかありゃ、ボンゴレの守護者全員が動く。ボスでもねーのに守護者全員を動かせるなんて、そんな存在、ボンゴレ内部にだっていねーよ。そのリアに、弱小ファミリーの分際で手を出したんだ。行き先は見えただろ」

「でも、わたし、どうにもなっていないよ」

「それでも、怖ぇもんは怖ぇだろ? だいたい、リアが無事なのはオレが一緒だからだ。ヤツらがリアを襲ってる事実には変わりねーよ」

「あ…、ごめんなさい。守ってくれてありがとう、獄寺さん」

「いいって。当然のことだろ」

 片手をハンドルから離し、くしゃりとスクデーリアの髪を撫でて、獄寺は微笑んだ。

「すぐに本部に着く。10代目に報告すれば、あとは安心だから」

 本当は、訊いてみたいことがある。けれど、いまはそんな場合ではないと、スクデーリアは言葉を飲み込み、うなずいた。

「はい」

 スクデーリアの葛藤に気付かない獄寺は、スクデーリアの落ち着いた様子を見て、安堵の微笑を浮かべる。しかし、バックミラーを見た途端、顔を顰めて舌打ちした。

「悪ぃ、リア。やっぱもーちょっと頑張ってくれ」

 言うが早いか、ぐんっと車が加速する。負荷でシートに押し付けられる形になったスクデーリアは、自分側のサイドミラーを見て息を飲んだ。

 追ってくる車が増えている。

 囲まれたら動けなくなる。獄寺は車線をまめに変え、追手の車を牽制する。ギュイッ、ギュイッとタイヤが鳴り、その度にスクデーリアの身体は振り回され、グリップに掴まっているのも一苦労だった。

「ちっ」

 何度目かの舌打ちをした獄寺が、大きくハンドルを切り、通り過ぎかけた交差点を無理矢理右折した。ギギャギャギャギャ!! と、タイヤがきしむ。スクデーリアは遠心力で転がりそうになり、グリップにしがみついてなんとか持ちこたえる。

 曲がりきれなかった車がクラッシュする音が背後に響く。獄寺は間髪入れずにアクセルを踏み込み、つかの間、追手を引き剥がすことに成功した。

「リア、銃使えたよな?」

「えっ?」

「スクールバッグの中に、いつも入れてたろ。撃てるんじゃねーのか?」

 銃のことなどさっぱり忘れていたスクデーリアは、ああと大きくうなずいた。

「一通りは教わったけど、実際に撃ったことはまだないよ」

「そうか……」

 遥か後方にとはいえ、追手の車がまたバックミラーに映り始めた。先ほどの右折で、追手の数を多少は減らせたが、まだ安全とは言えない。

 ボンゴレ本部まではまだもう少しかかる。万が一の事態にならないためにも、応援を呼びたいところだ。だが、応援を呼ぶには、その間の援護が必要だった。

 獄寺は、脳裏に瞬いた迷いを振り切り、言葉を続ける。

「撃てるか?」

「うん。弾なら、込めてある」

「そーじゃねー。リアの気持ちだ。撃つ覚悟はあるか?」

 銃を撃つのは、言葉で言うほど簡単ではない。少女が扱うには、鉄製のそれはずしりと重い。引き鉄を引けば、反動も来る。その反動で腕や肩を痛めることもある。だが、なにより、その射撃で奪うものが重い。

 スクデーリアは、自分の責任をよく自覚している。そんなスクデーリアが、銃が奪うものの重さを想像できていないはずがない。好んで撃つはずがなかった。だいたい、スクデーリアの無垢な手は、一度血に染めたら、二度と白くは戻らないのだ。だから、獄寺は、スクデーリアに撃てるかと訊きながら、どこか片隅で、撃てないと言われたらそれはそれでいいと思ってもいた。

 しかし、

「撃つ」

 獄寺が驚くほど、スクデーリアはあっさりと…けれど、きっぱりと言った。


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