資料を持つ左手から少し視線を動かして、獄寺は腕時計の針を読んだ。
午後7時45分。普通なら、もう夕食も終わっている時間だ。
ボンゴレの表の事業に関連した業者のコンペティションは、結論を年内に出すと決まっている。選定に手間取っているうちに、もう24日になってしまった。いくらクリスマス・イヴの夜だとしても、これ以上結論を遅らせるわけにはいかない。法務管理部の担当者が滔々と意見を述べるのを遠く聴きながら、獄寺は資料のページをめくった。
朝から続く会議は、営業部の担当者の意見とサポート部署の意見がなかなか歩み寄りきれず、平行線を辿っている。こちらを立てればあちらが立たず、という有様に、調整役として同席している獄寺と了平も、口を挟みかねていた。
「ところで、タコヘッド。時間はいいのか?」
「何の話だよ、芝生頭」
こそりとささやいた了平をぎろりと睨み、獄寺は低くうなる。長年の付き合いで培われたおかげで、不機嫌全開の獄寺に怯むことなく、了平はさらに言葉を続けた。
「だから、クリスマスだ。リアと約束しているのだろう?」
「うるせぇ。仕方ねーだろ」
綱吉の右腕として、仕事を放り出すわけにはいかない。自分のプライドに掛けて、仕事が期限に間に合わないなど許さない。その気持ちだけが、いまの獄寺を会議室に縫いとめている。
すまねー、リア。
クリスマスを一緒に過ごすのを楽しみにしていたスクデーリアには、本当に申し訳ないと思う。けれど、仕事を放り出して駆けつけても、スクデーリアが喜ばないという確信はあった。獄寺は喚き散らしたいほどの苛立ちをぐっと飲み込み、意見を戦わせる社員たちに目を向ける。
「ですから、いくら実際にはできなくても、そうすることが本来の状態であるなら、せめて交渉したという事実を残していただかないと」
「そうかもしれませんけど、入ってくる金額を増やせない以上、利益率を保つためには、出て行く金額を抑えるしか方法はないでしょう」
「だからって、この企業とは契約できないでしょう。こちらとしては絶対に飲めません」
途切れなく続く応酬は、結論が出そうにない。いったいどうすれば、状況を打破できるか…。打開策を考えながら、獄寺がもう一度腕時計に目を向けた瞬間、了平ががたりと音を立てて立ち上がった。
「シニョーレ・ササガワ?」
「もう今日はここまでにしよう」
訝しげに目を向ける社員たちに、了平はきっぱりと言い放つ。
「おい、てめー!」
思いがけない発言に思わず叫んだ獄寺に向かって、了平は揺るがない視線を投げた。
「これ以上続けても、建設的な話し合いができるとは思わん。いったん解散して、また明日、話し合うことにしよう」
「明日ならまとまるって保証はねーだろ! 期限が迫ってんだぞ」
「だからこそだ! おまえは、こんな状態でまともな結論が出ると思うのか!? 全員、自分の意見を通すことばかり考えてるようじゃ、話にならん。頭を冷やして、お互いから出てきた意見をきちんと受け止めて、考えをまとめ直して来い」
明日は10時からまたここで。と日程を決めると、了平はさっさと自分の荷物をまとめて席を離れる。こうなっては、獄寺が何を言おうと、今日はもう会議は続かない。獄寺は自分の資料を手にすると、了平を追って会議室を出た。
「おい! てめー、なに勝手に決めてやがんだ」
エレベーターホールで了平を捕まえて、獄寺は了平のスーツの襟を掴んだ。食って掛かる獄寺に、了平は呆れた目を向ける。
「仕方がなかろう。自分では気付いていないようだが、おまえ、2時間前から何度も時計を見ては舌打ちをしていたぞ。上の人間がそんな様子じゃ、会議だってやる意味がない」
表に出さないようにしていた苛立ちが実は露骨に出ていたのだと聞かされて、獄寺はぐっと息を飲んだ。まさか、そんな失態を演じていたとは……。
「もう夕食の時間も過ぎているだろうが、いまからでも行って来い。それで、明日には引きずるな」
了平は獄寺の手をスーツから離させると、やってきたエレベーターに乗って行った。残された獄寺は、ため息をひとつ吐くと、了平が乗って行ってしまったエレベーターを諦め、階段をショートカットしながら駆け下りた。
キャバッローネの城門の前でタクシーを降りると、獄寺は門の警護をするディーノの部下に名乗って中に入った。車道を外れ、庭に足を踏み入れる。玄関からおとないを告げてもよかったが、なんとなく、ディーノや雲雀とは顔を合わせる気にならなかった。
木立を抜けると、灯りのついた窓の下に出る。足元の小石を拾って窓枠目掛けて投げると、いくつめかでその音に気付いた部屋の主がバルコニーに出てきた。
「獄寺さん!」
「遅くなったな、リア」
厚いストールを肩にかけたスクデーリアは、もうナイトドレスに着替えていた。やっぱり来るには遅すぎたと、獄寺は自嘲気味に微笑む。
「待って、いま玄関開けてもらうから」
手すりに掴まって身を乗り出すスクデーリアの息が、白い綿飾りのように口元に漂う。獄寺はいまさらながら、冬の夜の寒さを感じて、首を振った。
「いや、いい。顔が見たかっただけなんだ。…遅い時間に、悪かった」
こんな寒い夜にスクデーリアを外に呼び出すほど、気持ちが荒んでいたのだと、ようやく気付く。これでは、了平に強制終了させられるわけだ。
スクデーリアの顔を見て、獄寺は息苦しいほど重たかった気持ちがすっと軽くなっていくのを感じた。大丈夫。これでまた激務に戻れる。
「体が冷えちまう。早く中に入って、暖かくして寝……」
そう言う獄寺の言葉が終わらないうちだった。スクデーリアが、バルコニーから飛び降りた。
咄嗟に駆け寄り、獄寺はスクデーリアを両腕で受け止める。スクデーリアは獄寺にぎゅっと抱きつき、マフラーに顔を埋めた。
「まだ帰っちゃ嫌。せっかく来てくれたのに、すぐにいなくなっちゃわないで」
つぶやく切実な声が、獄寺の気持ちを直撃する。相手の顔が見たいと思っていたのは、獄寺だけではなかった。スクデーリアの顔が見られた幸福感に、スクデーリアが自分に会いたいと思ってくれていた幸福感が上乗せされる。
「そうだな。まだ、リアとクリスマス、してねーもんな」
うなずくと、スクデーリアは確かめるようにもう一度獄寺の首をぎゅっと抱いてから、顔を上げた。
「お仕事、遅くまでお疲れ様。今日はもう会えないと思ってたから、来てくださってすごく嬉しい。獄寺さん、プレゼントがあるから、もう少しだけ一緒にいて」
「リア…」
向けられる無垢な微笑みに、獄寺は自分の表情が緩んでしまうのを止められなかった。
コートのボタンを外し、獄寺はスクデーリアの身体をコートの中に入れる。
「…悪ぃ。プレゼント、用意できなかった」
言い訳がましくてスクデーリアには言わないが、クリスマスのシーズンになってから、店が開いている時間に自由に動き回ることなどできないくらい、獄寺のスケジュールはみっしりと埋まっていた。
「ううん、いい。獄寺さんが忙しいの、知ってるから」
「けど」
聞き分けよく首を振るスクデーリアに、けれど、スクデーリアが一緒に過ごすクリスマスを楽しみにしていたことを知っている獄寺は、すまなそうに言を継ごうとする。
その獄寺を視線で制したスクデーリアは、まっすぐに獄寺を見つめて言った。
「忙しい獄寺さんが、一緒に過ごす時間を取ってくれただけで、充分。わたしには、クリスマスに獄寺さんの煙草の匂いを嗅げるのが、なによりステキなプレゼント」
「リア……」
「とても嬉しい。ありがとう、獄寺さん」
そう言って、大きく息を吸い込むスクデーリアに、獄寺も顔を寄せ、ドライヤーをかけたばかりのスクデーリアの髪の匂いを嗅ぐ。
いつ嗅いでも、清潔に澄んだスクデーリアの匂い。嗅ぐ度に、自分の奥に沈殿した澱が洗われていく気がする。
…くしゅん!
不意に耳元に響いた音が、獄寺を現実に引き戻す。いくら男物のコートで包んでいても、スクデーリアはナイトドレス姿で、しかも、獄寺が着ているコートの身頃で包んでいるだけだから隙間風も多い。
獄寺は慌てて城の玄関へと歩き出す。
「やべー、ずいぶん冷えちまったな。悪ぃ。すぐ中に入って、暖炉に当たろうぜ。あと、温かいココアな」
「はい」
スクデーリアは幸せそうに獄寺に身を摺り寄せて、そのぬくもりに身を預けた。