よく眠ってすっきりと目覚めたディーノは、枕元に黒い人影があることに気付いて、首を廻らせた。
「よぉ、ボス。久しぶりだな」
「ロマーリオ」
口を開いたのは、子供の頃からの付き合いの側近。なぜここにいるのかと、ディーノはきょとんとした顔でロマーリオを見上げる。
「今朝、ホテルにバケットみたいなリーゼント頭の男が来て、案内されたんだ。…連絡はまめにもらってたとは言え、ようやく顔見れて安心したぜ」
「そうだったのか。…医者にも診せてくれて、もう、手を借りれば起き上がれるくれーにはなったぜ」
言いながら手を出すと、ロマーリオはディーノを支えて、身体を起こしてくれた。
実際に身体に触れて、ロマーリオは、ディーノが手厚く看護されていることに気付く。横になっている日が続いたために筋肉は落ちていたものの、ディーノはきちんと栄養のある食事を摂っていたとわかる身体つきをしている。着ている寝間着も清潔で、臥している人間の雰囲気がまるでなかった。
「あのときの芸者か?」
「ああ。無意識で足が向いて、転がり込んぢまったが、すげーよくしてもらってる。でも、恭弥は芸者じゃねーらしーぜ。恭弥に向かって、妓って言うなよ」
「そうなのか。…惜しいな、あの顔とあの踊りなら、いい客が取れるだろーに」
「ああ、あれは踊りじゃなくて、舞って言うらしーぜ」
「……なんだよ。すっかり尻に敷かれたな、ボス?」
呆れたようなロマーリオの言葉に、ディーノは苦笑いして肩をすくめた。確かに、今の自分の状態は「尻に敷かれている」がいちばんぴったりくるだろう。
「惚れてもらえたか?」
からかうように問いかけたロマーリオに、しかしディーノはロマーリオが言葉を失うほど真剣につぶやいた。
「どーだろーな。オレはもう恭弥以外を欲しいとは思わねーが……」
遠くを見つめるディーノの表情は、満ち足りたライオンのように優雅だった。ロマーリオは、ディーノがただ厄介になっていただけではないらしいと察した。何日間も、親身に世話を焼く女と過ごせば、そういうことになってもおかしくはない。まして、その女はディーノが一目でベタ惚れした女なのだ。
「ボス、さっさと孕まして、モノにしちまえよ」
観念したロマーリオは、投げ出すように提言する。どうせ、何を言ったところで、ディーノはディーノの意志を曲げはしないのだ。
「そりゃまあ、あんだけヤってんだし、孕んでくれてりゃ、話つけやすくもなるんだろーけど」
はぐらかす様子で、強引にでも手に入れようという気がディーノにないことは、見当がついた。ロマーリオは、自分が思っていた以上に、ディーノが雲雀に惚れているのだと思い知った。
ディーノの様子がだいたいわかったところで、ロマーリオは本題を切り出そうと居住まいを正す。察したディーノも、表情を改めた。
「それじゃ、ボス……」
ロマーリオが口を開いたときだった。
バタバタバタバタ…と慌しい足音が響いたかと思うと、血相を変えた草壁が座敷に飛び込んできた。
「お話中に失礼します。恭さんが出かけた先をご存知ですか!?」
ディーノを見下ろすことがないよう、草壁は床に膝をついたが、その身ごなしはいつになく乱雑で、それひとつを取っても、草壁の焦りが窺えた。
「…いや。出かけたってことは知ってるけど、行き先までは聞いてねー。なにか問題があんのか?」
ディーノの問いかけに、けれど草壁は応えず、「なんてことだ」と小さく吐き捨てて、ばっと立ち上がって出て行こうとする。
「待て!」
その動きを鋭い声で制し、ディーノはぎっと草壁を見据えた。
「恭弥がどうした」
逆らうことを許さない低い声は、ディーノが持つ本来の気迫を含んで、足が竦むほどの支配力を持っていた。雲雀の風格に慣れた草壁も、ディーノの抗えぬ威厳に屈して、重い口を開いた。
「恭さんは、もともと、用もなく外出をしない方です。その恭さんが、私になにも言わずに外出する用など、いくつもありません。ですから……」
「草壁」
ぴしゃりとディーノが続きを遮る。草壁は言葉を飲み込むように黙り、たじろいだ目でディーノを見た。
「本当のことを言え。てめーはその程度でうろたえるような、安い右腕じゃねーはずだ」
「…!」
「他に知ってることがあるな? 洗い浚い吐いてもらうぜ」
ディーノの鋭い眼光に射抜かれ、凍りついたように動けない草壁に、じりっとロマーリオが詰め寄った。
ロマーリオが運転する車の後部座席で、ディーノは苦い顔で草壁の言葉を思い返していた。
『私見ですが…、恭さんは、あなたの傷の返礼に行ったのだと、私は思っています。…でなくては、恭さんの箪笥から、あの服が消えているはずがないのです』
草壁はなかなか口を割らず、思いの外手間取ったが、ディーノがなによりも優先したいと願っているのは他ならぬ雲雀自身なのだと説得を重ねて、ようやく話を聞くことができた。
『あの服ってのは?』
『恭さんがこの料亭を取り仕切る以前に所属していた、ある組織……いえ、ここまでお話したのですから、隠すのは止めにしましょう。風紀委員の腕章をつけた制服です』
風紀の腕章を持つ者に逆らえば、この町を歩くことはおろか、この町のものに関わることさえ許されないのだと、草壁は説明した。
『しかし、風紀が力を持つようになったのと同時に、恭さんの顔も有名になりすぎました。恭さんが外出すると、風紀を恐れる者たちが鳴りを潜めて、街から人影がなくなってしまうになりました』
花街からの上がりで活動していた風紀委員会にとって、街が死んでしまうのは、組織の存続に関わることだった。
『それで、恭さんは制服を封印し、必要がない限り、外出しないようになったんです。その恭さんが、制服に袖を通すほどのことが、あるとしたら……』
封印したその立場に戻ってまで、雲雀が外出をしたというのなら、確かに、行き先が易しい場所であるはずがなかった。
『恭さんは、あなたの無事を知らせる先を調べた際に、あなたに傷を負わせた相手も調べるよう、指示を出していました。判明したのは、昨日のことです』
草壁が口にしたのは、つい先日、この料亭でディーノを接待しようとした社長の会社だった。
雲雀が制服を着て出かけたこと。ディーノの襲撃犯が判明したこと。この二つを結びつける材料はない。けれど、タイミングから見れば、充分だ。
『わかった。恭弥はオレが連れ戻してくる』
ディーノは、草壁に約束すると、ロマーリオと共に離れを飛び出したのだった。
「ボス。もうすぐ着くぜ」
運転席からロマーリオが告げる声で、ディーノは現実に立ち返る。
「わかった。周辺に恭弥の姿がねーか、気をつけてくれ」
「了解」
もしかしたら、雲雀はもう中に入ってしまっているかもしれない。内心に焦りを隠しながら、ディーノは見えてきた建物を睨みつけた。
あまり大きくないビルに入ると、内部はしんと静まり返っていた。人気もなく、就業中のオフィスビルとは思えない。
しかし、戸を開け放っている応接ブースらしい小部屋をふと覗き込むと、倒れている人影があった。気絶しているのか、死んでいるのかは、わからない。意識的にもう一度周囲を見回すと、小部屋や物陰に、倒れている人が意外といることに気付いた。
「恭弥だと思うか?」
「十中八九な」
潜めた声でロマーリオと言葉を交わし、ディーノは周囲を警戒しながら歩を進める。1階の奥で階段を登り、2階、3階も同じように見て、次の階へ行く。
「……すげーな」
最上階である4階に着いて、ついにディーノはそうつぶやいた。
4階の廊下は、いままで以上に倒れている数が多かった。手近な姿に近寄ったロマーリオが、簡単に生命反応を確認する。
「殺っちゃいねーよーだな」
「そうか」
ロマーリオの出した結論に、ディーノはほっとした声で応えた。あのしなやかに舞う白い手が、殺しの血に染まってしまうのは、嫌だった。
不意に、ガタン! と大きな音が、フロアの奥から響く。顔を見合わせたふたりは、そちらへと足を向けた。
社長室と札がついている部屋を、開け放たれた戸口から覗く。中央に、血塗れのトンファーを構えた雲雀が仁王立ちしていた。その足元には、気絶しているらしい、見覚えのある男の姿がある。
「恭弥!!」
雲雀がその男目掛けてトンファーを振りかぶった瞬間、ディーノは叫んで、制止していた。
反射的に動きを止めた雲雀が、振り返り、目を瞠る。
「……あなた、どうして…」
「どうしてもなんでも、とにかくダメはダメだ。それ以上やったら、こいつが死んぢまう」
大股に近寄ったディーノは、雲雀を抱き寄せると、トンファーをもぎ取る。ディーノの登場に驚いて、それを許してしまった雲雀は、はっと我に返ると、トンファーを取り返そうと手を伸ばした。
「ふざけてないで、返して。ここで徹底的に咬み殺しておかないと、またどんなことを仕掛けてくるか……」
「そんなの、全部返り討ちにすればいい。恭弥がこんな奴の血で汚れてやる必要はねーよ」
「必要ならある。いいから返して」
「ダメだっつってるだろ。恭弥がやることじゃねーよ」
「僕がやりたいって言ってるんだ」
「こいつは恭弥が手を下すほどの男じゃねーんだぞ」
「そのくらい、わかってるよ」
続く押し問答に、雲雀は苛立ちを隠さず、ディーノを突き飛ばすようにして離れた。決して譲らない雲雀に、さすがのディーノも、つい声を荒げる。
「だったら!!」
「いいんだよ!!」
「よくねーよ!!」
「いいんだ!!」
一際声を張り上げてディーノを遮った雲雀は、ぎりぎりと眦を吊り上げ、背筋が凍りそうなほど静かな声で言う。
「こいつはあなたの命を狙った。僕のものに手を出した報いは僕が下す」
「…!!」
真正面からその視線を受け止めたディーノは、このときようやく理解した。雲雀の執着するものがなになのか。そして、その執着を生じさせているものが、なになのか。
苛立ちが消え、少しの間雲雀を見つめて考えたディーノは、おもむろに口を開いた。
「ロマーリオ」
「了解、ボス」
なにも命じずとも、腹心の側近は、ディーノの意図を正確に察してうなずく。
突然様子の変わったディーノから目を逸らさず、いったいなにを始めるのかと身構えた雲雀に、ディーノは無造作に近づく。
「ごめん、恭弥」
耳元でささやき、ディーノは雲雀の鳩尾を拳で打つ。雲雀は小さく呻いて倒れこみ、ディーノは胸で受け止める。
意識を手放したその身体を抱き上げ、ディーノは出口へ向かって歩き出した。