大石君の一日

1.朝―――起床~登校



 

 大石の朝は早い。6時50分から始まる朝練に間に合うように部室を開ける役目があるからだ。

 日の出とほぼ同時、目覚し時計がなる前に起きて身支度の後、軽く町内をランニングする。

 コースを一周して家に戻ってくる頃には、目覚し時計のアラームで起きた菊丸が、シャワーを済ませて朝食と弁当の支度を始めている。漂ってくる匂いで、今日の朝食は肉じゃがと知れた。

「おはよう、大石! もうちょっとでできるから、待ってて」

「おはよう、英二。じゃ、その間に手塚を起こしてくるよ」

 玄関を上がると、菊丸がオタマを振り回しながら台所から顔を覗かせた。大石は汗を拭きながらそう応えると、二階に上がる階段をのぼる。

 これからが、毎朝の日課にして最大の難関だ。寝起き最悪の愛妻2号・手塚を起こさねばならないのである。手塚は、普段の凛とした態度からは想像も出来ないほど、寝起きが悪い。毎朝手塚を起こしていて慣れているはずの大石でさえ、すんなりと起こせることは少ないほどだ。

 一番奥の寝室に入ると、菊丸によってカーテンも窓も開け放たれた朝日のまぶしい中で、3つ並んだベッドのいちばん左端、シーツに厳重に包まって手塚が熟睡していた。

「手塚、時間だ。そろそろ起きろ」

 ゆさゆさと手塚の肩の辺りを掴んで揺するが、手塚はう~ん…と呻いて寝返りを打っただけで、相変わらず穏やかに寝息を立てている。

「手塚」

 ゆさゆさ。

「ん…ぅるさ……」

「時間だってば」

 ゆさゆさゆさ。

「…ぅん……あと10分………」

 手塚が、半ば抱くようにしていた枕に、頬を摺り寄せる。凶悪なまでに可愛いが、大石は心を鬼にしてその肩を揺する。

「だめだ、遅刻するぞ」

 ゆさゆさゆさゆさ。

「………じゃあ…あと5分………」

「だから、時間だって言ってるだろう」

 ゆさゆさゆさゆさゆさ。

「15分……」

「増えてどうする!」

 ばさぁっ!!

 最後の手段、と、大石は手塚の包まっていたシーツを剥いだ。スカイブルーのストライプのパジャマの手塚は、光を避けるように背を丸めて顔をかざした腕の間に埋める。どうあっても、起きるつもりはないらしい。

「手塚!!」

 とうとう手塚の耳元で大石が吼えた。観念した手塚が、うっすらと目を開ける。

「お…いし?」

「おはよう、手塚。さっさと起きて、支度しろ。急がないと、寝癖を直す時間がなくなるぞ」

 ドスの効いた大石の声に、手塚はしぶしぶ上体を起こす。そのまま後ろに倒れこみ、再眠しそうになるのを、大石はがしっと肩を掴んで止めた。

「寝るな。いいか、俺だって、シャワーを浴びたいんだからな。ゆっくり起こしてる時間はないんだ。風呂場から出てきたときにまた寝てたら、本気で怒るぞ」

 相当に眠気の残っている手塚にそう言い置いて、大石は階下のバスルームに向かう。台所の物音は少し静かになっていて、調理はもう終わったようだ。慌しく食器や弁当箱を整える音が聞こえてくる。

 菊丸は、食事が冷めるのを良しとしない。温かいものは温かいうちに、冷たいものは冷たいうちに食べないと、絶対に怒って拗ねる。

 時間の猶予はあまりない、と判断した大石は、大急ぎでシャワーを浴びた。ランニングでかいた汗をすっかり流して制服に身を包むと、寝室のドアを開けて手塚がちゃんと起きたことを確認する。

「急げ、手塚。時間はないからな」

 無理やりたたき起こされて不機嫌な手塚は、むっつりとしたまま頷いた。それっきり動く気配のない手塚を、大石はバスルームまで引きずって行き、熱めに設定したシャワーの中に放り込む。

「大石ー! 朝飯、できたよ~ん!」

 そこへ、ダイニングから菊丸の明るい声が聞こえて、大石はばたばたと2階にカバンを取りに行く。自室からカバンを取ってくると、大石はダイニング・テーブルの指定席に腰を下ろした。

 本日の朝食は、炊き立てのご飯に大根の味噌汁と肉じゃがと、和風の献立だ。箸を手に取り、親指に挟んで、両手を合わせて食卓を拝む。

「いただきます」

 これが、大石の「いただきますの儀式」である。食事のたびに欠かすことはない。

 時計を気にしつつ朝食を摂る大石の横で、菊丸が弁当をハンカチで包む。手馴れたその様は、まさしく「奥様」だ。

「英二、今日の肉じゃが、よくできてるな」

「だしょ? へへ、今日のは会心の出来なんだ」

「ああ、すごく美味いよ。食べ過ぎそうで、ちょっと怖いな。ははっ」

「え、なんで?」

 冗談半分の大石の言葉に、菊丸が真顔に戻った。大石も箸を持ったまま、真顔で見返す。

「『なんで』って…、だって、太ったらまずいし……」

「どうせ部活で太る暇なんかないじゃん。…やっぱり、俺としては」

 するりと、菊丸が大石の横に滑り込む。イタズラ好きの猫のような目が大石を見つめて……

「もっといっぱい、食べて欲しいな」

 声になっていない「俺を」の言葉に気付かない大石では、もちろん、ない。

「英二……」

 大石の手が、箸をテーブルにおいて、菊丸の頬に伸びる。と。

「おはよう、大石、菊丸」

 手が触れるか触れないかのタイミングで、支度を済ませた手塚が下りてきた。ぴきーん、と先客2名が凍りつく。手塚は、ダイニングに入った瞬間、わずかに眉をひそめたが、なにもなかったようにテーブルについた。

「なんだよ、手塚ぁ。ちょっとは気を利かせてくれても」

「利かせているからだ。時計を見てみろ」

 抗議をする菊丸に、手塚は自分の分のご飯を取り分けながら、壁にかかっている時計を示した。大石が家を出なければならない、本気でギリギリの時間を、時計は無情に指している。

「うわ、しまった! ごめん、英二。ごちそうさま!」

「あああ、大石! いってらっしゃい、気をつけて」

 大石は慌しく立ち上がり、弁当をカバンにしまって玄関へと突進した。菊丸は大石を見送ろうと、その後を追う。ぽそぽそとした話し声のあと、少しの沈黙……おそらくは、「いってらっしゃいのキス」を菊丸がしているのだろう。

 手塚は、玄関の様子には構わずに箸を手にとり、「いただきます」と呟いた。

 と、バタバタと足音がダイニングに戻ってくる。いぶかしんでドアを振り返った手塚の目に、大石の姿が飛び込んだ。

 遅刻するぞ、いいのか? そう叱責しようとした手塚の唇を大石は乱暴に…だが丁寧に塞ぎ、再び玄関へと姿を消す。わずかなタイムラグの後、「いってきます」の声とばんっ! と扉の閉まる音がした。

 大石の遅刻を賭けた行為が自分への「いってきますのキス」だったことに手塚が思い至ったのは、それから数十秒後。呆然としつつも菊丸の特製肉じゃがを口に運んだときのことだった。

手塚が、途端に耳まで赤くなったのは、言うまでもない。




2.朝―――朝練



 青学中等部男子テニス部の朝練の開始時間は、きっかり6時50分。それより1分でも、遅いことも早いこともない。今年は部長も副部長も歩く時報のような人物なものだから、部員たちも時間には過敏に反応する。

 今日も、開始の刻限ぴったりに朝練が始まった。まずはウォームアップ、その後にあらかじめ定められている練習メニューを順次こなしていく。

「青学ーっ! ファイ、オー!!」

 早朝の澄んだ空気の中でする練習は、放課後の練習とはまた違った意味で気合が入る。それに、体を動かすことで、かすかに残っていた眠気の最後の一欠片までが晴れていく。部員たちの表情は、時間が経つに連れて、しゃっきりとしてきた。

 無論、朝に強い大石は、「しゃっきり」どころか「活き活き」としている。テンションは高すぎず低すぎず、その様子は部員たちに活気を与える檄となっている。(そんなんだから、乾に「さわやかタマゴ」などと言われるのだ)

 が。

 ここに、朝練開始以来、仏頂面のまま一向に表情の変らない男がいた。

 誰あろう、部長の手塚国光である。

 大石にたたき起こされ、菊丸に励まされながら登校したあとも、依然として彼の脳は半分ほど眠っているのだ。

 半眼で部員たちを睥睨しているように見える目は、実は眠たくてしかたがないゆえに不機嫌なだけ。口数が少ないのも、寡黙ゆえではなく、単に発するべき言葉を持っていないだけなのだ。

 それは手塚の伝説級の寝起きの悪さを知る大石と菊丸しか知らない真相である。しかし、部員たちにとっては畏怖すべき存在だ。そして…。

 コートの隅で、2年生が1人あくびをしたのが、手塚の目に止まった。

「そこ、ランニング10周!」

 その指示に「俺だって眠いのに、堂々とあくびをしおって…」という私怨が混じっていることは、誰も知らない。

 もっとも、そんな手塚の様子を盗み見ながら、「立ったまま寝てたりしないよな…」と大石と菊丸が神経をすり減らしているのもまた、誰も知らないことではある。

「青学ーっ! ファイ、オー!!」

 こうして、睡魔と闘う手塚と、その手塚に翻弄されるテニス部員たちの朝練は、予鈴に間に合うギリギリの時間8時15分まで続けられるのである。




3.午前―――授業



 朝練後、当然のことながら、テニス部員たちも他の生徒と一緒に、それぞれのクラスで授業を受ける。

 私立の学校法人である青春学園には、「ゆとり学習」というものは導入されていない。学力の低下を招く要素の方が大きいという理由からだ。したがって、生徒は授業中はみっちりと机に向かって黒板を見つめることになる。

 大石のクラス3年2組は、この時間は英語の時間だった。

「では、ここを…Mr.Oishi,Please」

 英語教諭が名簿を見ながら指名する生徒を思案し、大石の名を呼んだ。大石は「Yes」と答えて、教科書を手に、立ち上がる。大石はなかなかに滑らかな発音で教科書の文章を1段落読み、訳してから着席する。

「…OK,Mr.Oishi.It's wonderful! Sit down,please」

 意訳さえもが完璧だった日本語訳に教師は満足げにうなずき、次に当てる生徒を探して名簿に目を落とす。

 席についた大石は、その続きを自分なりに読むために目線を教科書に移した。英文に意識を向けると、すぅっと、教室の音が遠ざかったような感覚がした。

 マーティン・ルーサー・キング・ジュニア。日本では「キング牧師」として知られている人。黒人差別の撤廃の為に生涯を捧げた人だ。教科書は、キング牧師がどのように黒人差別と戦ったのかを述べている。

 それを読んで、大石は、手塚が世界史が好きな理由が、ちょっとだけ解った気がした。そのスケールは、小さな島国である日本などとは比べ物にならない、壮大なものだった。

 教師が文法の解説を始めたのに気付いて、大石は慌てて意識を授業に戻す。かつかつと黒板に並んでいく白い文字を、大石は丁寧な筆跡で、ノートに書き写し始めた。




4.午後―――帰宅(夕飯の買い物)



 放課後の練習後、部室の鍵当番である大石は最後に部室を出た。手塚が部活日誌を職員室に提出して戻ってくるのを、門のところで待つ。菊丸は、関係がばれないよう、大抵は先に不二や河村と一緒に帰っているので、このときは二人っきりだ。

 手塚の長身は、校舎から出てきたすぐ辺りで見つけることができた。大石は手塚の隣に並んで、わずかにその顔を見上げる姿勢になる。

「今日は、これからどうするんだ?」

「今日は夕飯の買い物をしてから帰る。富士見坂のスーパーが、特売日なんだ」

 手塚はテニスバッグのポケットから、マーカーで随所にチェックが入れてある広告を取り出して、大石に見せた。その中に嫌なフレーズがあるのを見つけて、大石はわずかに引きつる。

 嫌なフレーズ。この場合には、「お一人様○点限り」の文句である。大石の脳裏に、お一人様1点限りのトイレットペーパーとお一人様2点限りの〝ブルーダイヤ〟を買うために長蛇の列を並ばされた記憶が蘇る。

「あっ、あのさ、手塚。この醤油って……」

「菊丸にも言ってある。富士見坂の駅で待ち合わせだ」

 つまり、否でも応でも買い物に付き合え、ということか。大石は手塚に広告を返しながら、こっそりとため息をついた。

 別に、買い物が嫌なわけではない。料理担当の菊丸に対して家計管理引いては買い物を担当している手塚に、荷物持ちを頼まれたなら、どんな遠くでも一緒に行く。

 が。なにを好き好んで、学校帰りに特売スーパー廻りをすることがあるのだろうか?

 そう考えると、なんだか悲しくなってくるのだ。「すまない。俺の稼ぎが悪いばかりに……」などというサラリーマンの気分になってくる。

 自宅の最寄駅の1駅手前、富士見坂で電車を下りる。そう、手塚は「お一人様2点限り」の醤油を買うためだけにわざわざ1駅手前のスーパーに行くのである。しかも、手勢(大石と菊丸)を引き連れて。

 改札を出たところで、菊丸が待っていた。大石が見つけて、声をかける。

「英二、待ったか?」

「うんにゃ、今きたばかりだよん。ゲーセンで暇つぶしてた」

「ゲームセンター? 菊丸、制服で寄っていたのか?」

 手塚が眉をひそめて菊丸を咎めた。菊丸は「ヤバ」とつぶやく。

「あっ! でも! ガクランは脱いでたから校章は隠れてたよ」

「そういう問題じゃないが……。……まあいい」

 慌てた菊丸に、手塚は苦い顔をして言った。ここで機嫌を損ねられては困るのだ。フォローのつもりか、大石が横から、これからの予定を菊丸に告げる。

「えええっ!? なに、俺、そんなことで呼ばれたわけ?」

「『そんなこと』じゃない。重要なことだ」

「醤油6本、持って帰らなきゃいけないから。がんばれ、英二」

「そうだな。学生服は目立つから、今日は1回しか買えないな」

「ちょっと待った! 手塚、そんなに何回も並んで買うつもりだったわけ!?」

「レジを変えて何度か並ぶのは常識だろう?」

 当然のように言い切った手塚に、大石と菊丸は『主婦の常識じゃん、それ』と突っ込んだ。もちろん、声に出しては言えないが。

 目的のスーパーについた大石たちは、手塚の先導の下、まっすぐに醤油の棚に向かった。かなり隙間が目立ってきている棚から、醤油を各自2本ずつ、腕に抱える。

「あっ、手塚。カゴ取ってくるの忘れたじゃん。持ってこようか?」

 菊丸が気を利かせてそう言うと、手塚はそれを止めた。

「いい。ここでは醤油しか買わないから」

「「はい!?」」

 たかだか醤油のためだけにこれだけの手間をかけたと匂わせる手塚に、大石と菊丸はハモって聞き返した。

「今日の買い物はこれだけ、…ってことか?」

「いや」

 大石の、自分の希望をふんだんに盛り込んだ確認を、手塚はあっさりと否定する。

「菊丸が昨夜、醤油がそろそろなくなりそうだと言っていただろう。それで今朝のおかずが肉じゃがとなれば、醤油のストックがもうなくなると考えていいはずだ。そこに、タイミングよくここの醤油の特売のチラシがあった。だから醤油を買いに来た。…それだけだ」

「……で?」

「菊丸から、食材リストはもらってある。それと冷蔵庫やユーティリティの状況を見て、買い物リストは作った。ここの買い物を済ませたら、ドラッグストア2軒とウチの近くのスーパーと、向こうの駅前商店街に行く」

「………………………」

「鮮度から言ったら、駅前商店街にあるスーパーがいちばんだ。だから、主な食材はそこで買う。だが、米と調理酒は商店街の小売店のほうがモノがいい。スポーツドリンクやなんかは、ドラッグストアで安く買える。あとは、その日毎の特売の状況を見て、買う店を変える」

「…………手塚…………おまえ、いつもこうして買い物してたわけ?」

 菊丸の問いかけに、手塚はまたもやこう返した。

「常識だろう?」

「…ああっ! 手塚、もしかして、おまえ……」

 大石が突然振り返って、手塚に詰め寄った。

「日ごろあれだけ節約節約ってうるさいおまえが、全ページに目を通すのなんておまえくらいの新聞を取るって言い張って聞かないのは、もしかして折り込みチラシで特売をチェックするためか!?」

「そのためだけに取っているというわけではないが、理由の何割かはそうだ。チラシの情報量はけっこう侮れないからな」

 平然と、手塚は答える。大石はすっかり気力が萎えてしまった。

 『青学テニス部の部長は、特売の鬼だった』。判明した新事実は、ちょっと恥ずかしくて人には言えない。

「っと。大石、菊丸。早く会計を済ませるぞ、時間がない」

 腕時計を確認した手塚が、『特売の鬼』に気力を抜かれたふたりに声をかけた。その切羽詰った声音に、大石はとりあえず立ち直って、レジに向かう。

「で、手塚。時間がないって言うのは?」

 会計を済ませてスーパーを出たふたりに、手塚はこのスーパーと自宅のちょうど中間くらいのところにあるもう1軒のスーパーを告げた。

「なにがなんでも、そこまで10分で行くぞ」

「ちょっと待てよ! テニスバッグに醤油2本持って、そこまで走れって!?」

 菊丸の抗議も、手塚には届かない。手塚は醤油を邪魔にならないようにバッグに押し込むと、つぶやいた。

「あと10分でタイムサービス……間に合うか?」


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