5.夜―――夕飯後
「あのね、中にも書いてあるんだけど……」
「書いてあるんなら、わざわざ言ってかなくたっていいじゃん」
玄関から聞こえてきた隣家の主婦の声に、菊丸は居間で小さくそう毒づいた。
夕食後、回覧板を持ってきた隣家の主婦は、若い男の子としゃべれるのが嬉しいのかなんなのか、応対に出た大石に対して、回覧板の内容を説明し始めたのだ。
居間で大石が戻ってくるのを待っている菊丸と手塚の不機嫌ゲージが、徐々に上がり始めた。PS2で格闘ゲームをやっている菊丸のコントローラーの扱いが、次第に荒っぽくなっていく。ソファで本を読んでいた手塚の、ページをめくる手が早くなる。
「ほら、最近、なにかと物騒でしょう? 回覧板に載るくらいだし……」
「だからなんだっての。それで大石がお隣まで助けに行ったりなんか、するもんか」
「菊丸。止せ」
ゲームの音にまぎれて玄関までは聞こえないはずだが、それでも一応、手塚は菊丸をたしなめた。もっとも、そういう手塚の眉間のシワも先ほどよりもずっと深くなっている。
「でね。どこのお家でも、とにかく気をつけましょうって……」
「間違ってもオバサンになんか、興味持たないって」
先ほどの手塚の言葉も効かず、菊丸はなおも聞こえてくる彼女の言葉に毒を返す。手塚はかすかにため息をつくと、本を閉じてソファから立ち上がった。
「…手塚?」
「部屋に戻る」
見上げる菊丸に、それだけ言うと、手塚はさっさと居間を後にした。玄関から「あら、こんばんは」という弾んだ声が聞こえたところを見ると、手塚は礼儀正しくも彼女に挨拶をしてから階段を上ったらしい。
菊丸はなにもかもが不愉快になって、ゲームのスイッチを切った。こうなると、イライラして気分が悪いのに、気晴らしさえもなにひとつする気にならない。ごろりと床に転がって、菊丸は手元のクッションをばふんと叩いた。
ピ―――。バスルームからアラームの音がした。バスタブに湯が張れたという合図だ。菊丸はぐるんと寝返りを打って、とりあえず風呂にでも入るか、と考えた。
ようやく辞した隣家の主婦を見送ってドアを閉めると、大石は深くため息をついた。近所づきあいも大切だとは思うが、中年の女性のとりとめもないおしゃべりに付き合うのは苦手だ。ましてや、夕食後にくつろぐ時間をそのために失ったと思うと、なおさらである。
「英二、手塚? すまない、遅くなって」
居間に戻ると、そこには誰もいなかった。テレビの前に放り出されたコントローラーを見て、菊丸がかなりヘソを曲げたことが判る。大石は困ったように眉根を寄せて、もう読む必要すらなくなってしまった回覧板をテーブルに置くと、手塚を探して階段を上った。
手塚は自室で本を読んでいた。いい加減に表紙の擦り切れている、読み古されたクラシック・ミステリ。もう、展開もトリックも覚えてしまっているそれは、手塚にとって、むしろ落ち着きたいときに開く本である。
「お隣は、もう帰ったのか?」
「ああ。すまなかったな、すっかり付き合わされてしまって、お前たちを放ってしまって……」
彼が悪いわけではないのにそうやって謝る、そんな大石に、手塚はいつも胸を締め付けられる。大石が自分をこんなにも思ってくれていることが、なによりも嬉しくて…。
だが、表面では、黙って首を振って大石に応えると、回覧板の内容に話題を向けた。
「それで、回覧板は?」
「ああ…、うん。なんだか、最近この近所に覗きが出るらしいんだ。…ほら、少し行ったところに、女子大生の一人暮らしが多い地区があるだろ? その流れらしいんだけど…」
「覗き?」
「そう。今のところ、風呂を覗かれる以上の被害は出てないということだけど。それで、注意を呼びかける内容の記事が載っていた。万が一にも覗き以上の被害が出たらいけないから、って」
「…そうか。だが、ウチには関係ないな」
「……まあ、そうだね。一応、住んでるのは男ばかりだし。もっとも、その覗きが綺麗な人や可愛い人なら見境なく、っていうんなら、お前や英二は危ないから、俺は心配してるんだけど」
「馬鹿な」
心底心配そうな大石の言葉を、手塚は即座に否定する。自分の容色にまったく自覚も興味もない手塚は、いつだってこんな風に自分を扱う。そして、その度に大石に叱られるのだ。そう、今も…
「手塚! 自分のことをそんな風に言うのは止めてくれ。お前が自分の外見を特別どうと思っているわけではないことは、よく知っているけど……、でも、俺にとってはお前ほど綺麗な奴はいないし、そうでなくたって、心配だよ。お前に何かあったら、俺は悔やんでも悔やみきれない。だから」
怒鳴りつけられたり、延々と説教されたりするわけではない。ただ静かに自分にとっての手塚がどういう存在かを話す。たったそれだけなのに、それは大石の口から出た途端に、力強い叱責になる。
手塚はどう返したらいいのかわからなくなってうなだれた。大石がいくら褒めてくれても、自分が綺麗だとは、少しも思えない。だから、大石に大切にされる度に、戸惑ってしまう。テニス以外に、自分に価値があるとは、思えなくて。
「手塚。無自覚も謙遜も、度がすぎると傲慢だよ。俺はわかってるからいいけど、周囲はそう思う。…すこし、物事を見る角度を、変えてごらん。きっと俺の言う意味がわかるから」
こくりと、手塚がうなずく。大石はそんな手塚の頬に手を添えて顔を上げさせると、軽いキスをした。
「英二を探して、回覧板の話をしてくるよ」
唇を放すと、手塚にそう言って、部屋を出る。背後でなにか言いかけた手塚に、大石は気付かなかった。
探しては見たものの、菊丸を見つけられなかった大石は、庭に出た。外の風に当たりたかったこともあったが、なによりも、回覧板で回ってきた覗きの話が気になって仕方なかったからだ。
庭といっても、建物と垣根のあいだにある隙間、と言う方が正しいくらいのものだ。玄関横はそれなりに面積もあるが、建物の側面や裏側には人1人が通れる程度しかない。
そこをぐるりと一周廻るつもりで、大石は垣根と壁の間を歩き出した。
通用門と勝手口を通り過ぎ、自転車しか置いていないガレージを抜けると、最初の角を曲がってすぐがバスルームの窓である。今まで気にも留めなかったが、実際に防犯という観点から見てみれば、車がないためにガラガラのガレージの門から容易く侵入できてしまう。由々しき状態だ。
本当に覗いてみるとしたらどうなのだろうか。検証してみるつもりで、大石はガレージの門をそっと開閉してみた。手入れの行き届いたアコーディオンゲートは、軋みさえせずに開け閉めできた。その後、腰をかがめて歩けば、刈り込まれてはいるが丸坊主ではない垣根が道路からの視線を遮る。角を曲がると、隣家の外階段の陰になって、誰にも見咎められずに済んでしまうことが判った。
問題だ。これは大問題だ。
以外に乙女な感覚のある菊丸ならば、覗きがいれば騒ぐに決まっているからいいのだ。ネックは己の美貌を一向に自覚しない手塚である。手塚なら、多分、気付いたところで「自分は男なのだし」と放っておくに違いない。大石の男心としては、それだけはなんとしても阻止したい。
大石の身長は、男性の平均的な身長と言っていい。その自分にとって、窓の高さがちょうどいいというのも、さらに問題を大きくしていた。
つま先立ちをしなくても覗ける位置にある窓は、細く開いて湯気を外に逃がしている。明かりがついていることに加えて、湯気が出ていることで、大石は菊丸が風呂を使っていることをようやく知った。
なんだ、英二。ここにいたのか。
そう声をかけようとした瞬間だった。
「覗きだなっ!」
「…えっ?」
ガラッ! ザバッ!!
「ぶっ!!」
菊丸の威勢のいい声とともに、窓が勢いよく全開になる。そして、一瞬反応の遅れた大石に強かに湯が浴びせられた。手桶をテニスのスイングの要領で振って放った湯弾が、ものすごい威力で大石の顔面を直撃したのだ。
「どうした、菊丸! 大丈夫か!?」
更なる悲劇は、バスルームの斜め上が手塚の部屋だったことだろう。物音を聞きつけた手塚が窓を開け、事もあろうに窓から飛び降りてきたのである。
「不審者だなっ!? 警察に突き出してやる!」
すたっと着地した手塚が、不審者認定されている人影(=大石)に飛び掛る。
「うわっ! ちょっと待て!」
「誰が待つか、おとなしくしろ!」
大石は完全に覗きだと思われてしまったらしい。手塚は声で気付いてくれさえしない。誤解を解こうともがけばもがくほど、手塚は犯人の抵抗だと思ってますます力を入れて取り押さえようとしてくる。手塚に怪我をさせたくないと思うと、大石には思い切りそれを振りほどくことはできなかった。
「手塚、ダイジョブ!? 加勢に来たよっ」
髪から湯の雫を滴らせて、バスタオルを巻いたっきりの格好で菊丸が駆けつけてきた。揉みあう人影に、一瞬、どちらが覗きか迷った後に、大石に組み付いてくる。
「助かる、菊丸! こいつ、なかなか観念しなくて……」
「オッケー、任して! にゃろ、ジタバタすんなよ!」
「っ、イタ、痛いって、英二!」
「………はえ?」
菊丸に腕をひねり上げられて、大石が悲鳴を上げる。『英二』と呼ばれて、菊丸の動きが止まった。手塚の方も、不審人物が菊丸の名前を知っていたことに驚いて、取り押さえようとしていた手を止める。
「え…と、もしかして、これって………」
「………大石?」
「もしかしなくても、俺だ!」
菊丸に右腕を後ろにひねり上げられ、手塚に左腕を背に付けるように押さえつけられた姿勢で、大石が叫んだ。全身ずぶ濡れな上に揉みあったせいで髪が乱れ、シャツもよれて、ちょっと情けない有様である。
「う…、うわっ! ごめん大石、大丈夫?」
「すまない、大石! 怪我はないか?」
菊丸と手塚が、揃ってぱっと手を放した。大石は瞬間的によろけたがすぐに体勢を立て直し、パンパンとシャツを叩いて乱れを直す。
「ふぅ…。びっくりしたよ、いきなりお湯が飛んでくるんだもんな」
「あああああ、ご、ごめん、大石……」
「いいって、英二。これで本物の覗きが来ても防御は安心だな」
冗談めかして場を治めようと、大石は微笑んで見せる。それにつられたように、菊丸も今にも泣き出しそうだった表情を緩めた。大石は菊丸の頭に手を置き、慰めるようにそっと引き寄せる。
と、手塚がふと腰をかがめてなにかを拾い上げた。
「菊丸。とりあえず、そのままはマズいと思うぞ」
手塚が拾って差し出したのは、菊丸が巻いていたはずのバスタオルだった。
「えっ、あっ!! うわぁぁっ!!」
手塚に言われて、慌てて己の体を見下ろした菊丸が、悲鳴に近い叫びを上げる。ばっとバスタオルをひったくるように受け取り、それを巻きつけるのを見て、手塚は大石の濡れた髪を気遣わしげにかきあげた。
「早く乾かさないと、風邪をひくな。差し支えないなら、ついでに風呂に入ってしまえ」
そして、バスタオルを着けて居心地悪そうにしている菊丸にも声をかける。
「菊丸も。体が冷えてしまっただろう。もう一度風呂に入りなおして、温まれ」
「う…うん。そうするよ」
素直にうなずいて、菊丸が家に入ろうとドアに向かう。その後に続いて中に入り、自分の部屋に戻ろうとした手塚の腕を、大石が掴んで引き止めた。
「……大石? お前も早く、髪を拭いて……」
「手塚。飛び降りてきたとき、足はなんともなかったか?」
「……。心配ない。素足ではなかったから」
「そうか…。でも、ちゃんと確かめてくれ。あんなところから飛び降りたんだし、万が一のことがあったらよくないから」
「わかった。そうする」
心配性な大石の言葉に苦笑しながら手塚が応える。満足げに頷いた大石に、半裸の菊丸が背中から飛びついてきた。
「なあなあ、大石! 一緒に入ろうぜ、風呂!」
「えぇっ? 英二!?」
「なあ、いいだろ?」
愛敬を振り撒いておねだりする猫のように、菊丸が頬を大石に摺り寄せる。意表を突かれてうろたえる大石に、手塚は肩を揺らして笑った。
「いいじゃないか。二人で入って来い」
「やたっ!! 手塚、大好き!」
そして、大石は上機嫌の菊丸に風呂に引っ張り込まれた。
6.夜―――湯上り
夜10時、それぞれに風呂を済ませて、申し合わせたように空調の効いた居間に入る。
大石が行くと、ソファの前、スペースの中央に、手塚が座って開脚前屈をしていた。菊丸が後ろから手塚の背に乗って重石の役割を務めている。
「お、やってるな」
なんとなく、風呂で体が温まっているときにやるのが効果的なような気がして、手塚の日課である柔軟体操は風呂上りに居間でやる習慣になっていた。
大石はふたりに声をかけると、自分は手塚に向かい合う位置に座り込んだ。
「手塚、大きく深呼吸しながらやるといいぞ」
前に差し伸べられている手塚の手を掴むと、大石は手塚に呼吸を合わせるようにタイミングを計ってその手を引く。
「手塚、ほんっとに体カタイなぁ。…今度から、黒酢を飲むのもいいかもよ」
手塚の上に圧し掛かる菊丸が感心しながら言うと、大石はゆっくりと首を振って菊丸をたしなめた。実は、体が硬いのを、意外と本人も気にしているらしい。
手塚は姿勢を起こすと、今度は開脚のままで上体を左右に捻る。大石が伸ばした足で手塚の両足首を押さえ、菊丸が肩を押して手伝う。
毎晩、こうして柔軟体操をしているが、未だ目覚しい進歩は現れてこない。…もっとも、スポーツをしていれば、始めたからと言ってすぐに効果や結果が努力と結びつくわけではないということは、身に染みて判っている。
「今度から、食事に必ず酢の物をつけるようにするよ。手塚も、乾に柔軟に効く食べ物があるかどうか訊いてみてよ。できるだけ使うようにするからさ」
閉脚で上体を倒そうと苦労する手塚に、体を押す菊丸が提言する。大石は心中で『なにも今言わなくても……』と思ったが、意外にも、手塚は素直に『そうだな』と応えた。
「黒酢って、1日どのくらい飲むといいんだ?」
「あ……、どのくらいだろ。前にちらっと聞いたことがあっただけだったから……今度、実家で訊いてみるよ」
「頼む」
殊のほかぴったり合っているコンビネーションで、菊丸は手塚の補助を勤める。大石は手塚の手を引きながらそんな光景を見ながら、密かに幸福に浸っていた。
7.深夜―――就寝
それぞれに自室で翌日の支度を済ませ、パジャマに着替えると、支度が出来た者から順に寝室に集まる。
戸締りの最終確認をしてきた大石が最後に寝室に入ると、3つ並んだ左側にある自分のベッドでスタンドの明かりで本を読んでいた手塚が振り向いた。真中のベッドに入った大石に、手塚は声を低めて話し掛ける。
「お疲れ、大石」
「お疲れ、手塚。…スタンドで本を読むのはよくないって、いつも言ってるだろ」
「すまない。習慣なものだから……。もう寝るよ」
申し訳なさそうに微笑んで、手塚が眼鏡を外す。栞を挟んだ文庫が手塚の手を離れると、大石は布団から手を出して、手塚の前髪を優しくかきあげた。
「なに読んでたんだ?」
「パール・バックだ」
「ふぅん…。面白いか?」
「ああ」
目を見合わせて、そろってくすくすと笑う。そんな他愛もない時間が、たまらなく愛しい。
「あ、大石。遅かったじゃないか、待ってたんだぞ」
ふたりの話し声に目を覚ましたのか、菊丸が反対側から大石のベッドに侵入してきた。
「ちょ…、英二。待ってたって……」
「……秀、イジワルだ。わかってるくせに」
後ろからぺたりと抱き付いて、菊丸が拗ね気味の目で戸惑う大石を見上げる。愛し合うときにしか口にしない愛称で呼ばれて、大石はやれやれと呟き、仕方なさそうな笑みを浮かべた。
「まったく…。明日の朝、どうなってても知らないからな?」
「大丈夫。秀のこと、信じてるから」
半ば脅すように口にしたセリフをさらりと殺し文句で返されて、大石はどきりとして言葉を失った。…が、次の瞬間、表情を愛しげな笑みに変えて、背中に張り付いていた菊丸をはがすと、深く抱き込んで額に口付けた。
「……消すぞ」
消しそびれていたスタンドのスイッチに手をやって、礼儀として一応といった風に、手塚が二人に声をかける。その微妙な声音に、大石は菊丸の呼吸を一旦解放して、手塚に左腕を伸ばした。
「国光も、おいで」
「な……」
すべてを受け入れる大石の大きな微笑を向けられて、手塚は言葉を詰まらせた。
「なにを言うんだ、俺は…別に………」
「うん。…来ていいんだよ。大丈夫だから」
何もかも承知だというような包容感に、手塚は反射的に視線を逸らした。その頬が朱に染まっているのは、スタンドの明かりでも充分に見て取れる。
大石は、知っているのだ。手塚の妬き餅も、甘えも、素直じゃなさも、なにもかも。
それは、すべて知られているという羞恥から来る居心地の悪さと同時に、何物にも替え難い、かけがえのない安堵をもたらすもので。
「…俺に遠慮なんて、する必要ないだろ」
穏やかな微笑みは、意固地な手塚の心を、いつでもあっさりと陥落させる。
「………おまえは、ずるい」
すっかり甘くなってしまった声で、それでも負け惜しみに言葉を投げかけると、手塚はスタンドの明かりを消して大石のベッドに潜りこんだ。