手塚君の戸惑い

 これは、手塚が大石の〝妻〟となって間もない、ある日のできごとである。



 ドアチャイムとは、来訪者が開門もしくは開扉を求めて、家人を呼ぶためのものである。

 つまり、ドアの鍵を持つ者にとって、ドアチャイムとは〝鳴らすべきもの〟ではない。

 通常は、そんな認識が普通だろう。

 つい数日前からこの家に生活を移した手塚も、玄関の前で制服のポケットから貰ったばかりの鍵を取り出し、そんな認識の下、チャイムを鳴らさずにドアを開けた。

 大石と菊丸は、先に帰ってきているはずだった。手塚だけ、まだ運び終えていない荷物を取りに、実家に寄って来ていたからである。

 ただいま、と言おうとして、手塚は家の中に漂う雰囲気がなんとなくおかしいことに気付いた。どこが、とは判らない。けれど、なにか…どことはなしに、甘く爛れているような……?

 訝しみながら、靴を脱いで玄関を上がると、左奥の台所から奇妙な音が聞こえた。やけに甲高い…これは、人の声か? 続いて、それに応えるような低い囁き…。やはり、人の話し声だ。

 この家には、大石と菊丸と自分しか住まっていない。自分がここにいるのだから、そうしたら、これは当然、大石と菊丸の話し声なのだろう。

 そう結論付けて、帰宅を告げるために台所へと足を向ける。この家に来てからスリッパを使用しなくなったせいで、足音がすっかりなくなっていることを、手塚は失念していた。

 台所の入り口にはドアがない。そこで、薄いレースの暖簾がかけてあるのだが……

 覗き込んで声をかけようとして、手塚はぎょっとして立ちすくんだ。大型冷蔵庫に手をついた菊丸が、大石に背中から抱きしめられて愛を交わしていた。

 行為に夢中になっている二人は、手塚が帰宅していることはおろか、その手塚が暖簾を隔てたところに立っていることにも気付いていない。菊丸は大石の些細な動きにも蕩けるような声を上げ、大石はそんな菊丸にあやすような声をかけては、愛しげにいたるところに口付けを降らせていた。

 予想だにしなかった光景に、手塚の脳はすっかりパニックになってしまった。すくむ脚をなだめすかして、とにかくまずは台所の前から立ち去る。玄関を入ってすぐ右の居間へ向かう手塚を、菊丸のひときわ高い声が追いかけてきた。

 なんとかソファに腰を下ろした手塚は、今の事態を頭の中で必死に整理する。

 菊丸は大石の〝妻〟で、だから、ああいうことが当たり前でもおかしくないわけだ。ここは大石の自宅だし、ということは菊丸の自宅でもあるし、いくらまだ陽があるとはいえ、自宅で愛を交わすのは当然のことだし、いや、むしろ自宅以外の場所でされても困るし。

 いろいろなことが浮かんでは消え、消えては浮かんで、手塚の混乱した頭はさらに混沌の淵に落ちていく。無意識のうちに、手塚はなにかから自分を守るように膝を折り、頭を抱え込んでいた。

 ………ということは、自分も大石と、ああいうことをすることになるのか…?

 ふと思い至った考えに、手塚は全身から血の気が引いたような感覚に襲われた。なぜかは、よくわからない。ただ、大石とああして自分も体を繋げるのだと考えた瞬間、例えようもない恐怖に襲われた。

 頭を抱えていた手に力が入り、折った膝をより近くに引き寄せて、小さく体を丸くする。

 自分も、大石と……あんなふうに、菊丸のように甘い声を上げて……

 その考えが、がんがんと頭を割るような力強さで思考を支配する。それは信じられないほどの破壊力で、手塚の平常心を攻撃してきた。

 怖い………怖い………怖い………怖い………怖い………怖い………怖い………怖い…………

 部屋の灯りもつけず、薄暗い居間のソファで、手塚は全てから逃れようとするみたいにうずくまり、堅く目を閉じて耳をふさいだ。



 息を荒げてくったりとなってしまった菊丸の身を清め、大石は菊丸を居間のソファに休ませようと肩を貸して台所を出た。

 入り口のところでいったん歩を止め、照明のスイッチを入れて居間に目を向ける。

 と、ソファの上に、思いがけなく手塚の姿を見つけて、大石は小さく声を上げた。とろんとした目つきのまま、菊丸がなにごとかと大石に目をやる。大石はそっと目配せして、手塚の存在を菊丸に示した。

 驚く菊丸に断って、手近なキャビネットに菊丸を寄りかからせて、大石は手塚に歩み寄った。

「…手塚、帰ってたのか。言ってくれたらよかったのに。………なにかあったのか?」

 怯える子供のように身を縮める手塚の様子は、ただごとではない。大石は手塚をこれ以上脅かさないように穏やかに声をかけた。

 が、手塚は振り返りもせず、何の反応も示さない。隣に立ったおかげで、手塚がきゅっと耳をふさいでいるのにようやく気付き、大石は手塚の肩にそっと手を伸ばした。

「手塚? どうした?」

 その手がばっと振り払われたのは、指先が手塚の肩に触れるか触れないかくらいのときだった。一瞬だけ大石を見た手塚の瞳は、困惑と恐怖でいっぱいになっていた。驚いて一歩下がった大石の脇をすり抜けるようにして、手塚は階段へと走り去る。手塚らしくない騒々しい足音の後、拒絶するようなドアを閉める音が聞こえた。

「手塚!?」

「やめな、大石」

 我に帰った大石が、理由を問いただそうと2階へ足を向ける。それを止めたのは、菊丸の声だった。

「英二?」

「やめてあげな。今はダメだよ」

「英二! じゃあ、英二は手塚が心配じゃないのか?」

「うん。手塚ほどじゃないけど、俺もそうだったから。解るよ、手塚のこと。だから、ちょっと心配だけど、ちょっと心配じゃないよ」

 そこで言葉を切り、このままじゃしんどいから、手伝ってくれる? と手を伸ばした菊丸を支えてソファに座らせると、大石はキャビネットの急須で二人分のお茶をいれた。

「…英二?」

 湯飲みを差し出して説明を促すと、菊丸はうんと頷いておもむろに話し始めた。

「大石さ、俺たちが付き合い始める前のこと、憶えてる?」

「付き合い始める前?」

「うん。お互いに、好きだったんだけど、言い出せなかった頃。あの頃、大石は悩まなかった?」

「そりゃぁ、悩んだよ。だって、俺は男だし、英二も男だし……。すごく好きだけど、キモチワルイって言われるかと思うと、告白なんてできないって」

「そうだよね。俺もそうやって悩んだもん。でも、俺、大石とは違う悩みがいっコあったの、知らなかっただろ」

「違う悩み…? なんだ、相談してくれたらよかったのに……」

「うん。大石ならそう言うと思ったから、相談なんて余計できなかったような悩み。……今だから言えるんだけどね。『両想いになったとき、エッチはどうしよう』って、悩んでたんだ」

 途端に、大石は飲んでいたお茶を盛大に吹き出した。

「がほげほごほ…っ!」

「あああああ、大石、大丈夫? そんなに驚かなくたっていいだろ?」

「え…っ、英二、そんなこと……」

「うん、悩んだよ。だって俺は、女の子じゃないもんね。大石に抱きしめて、キスしてもらいたいって思う気持ちはそういう意味の『好き』なんだと思ったけど、それと現実は違うじゃない? 悩んだよ」

「……はぁ……そんなこと悩んでたのか…。ちっとも知らなかったよ。言ってくれたらよかったのに。…英二が悩んでいることなんだから、笑ったりなんてしなかったぞ」

「うん。話したって大石は笑わないことくらい、判ってるよ。…俺が大石に話せなかったのは、『話したらきっと大石は俺のこと抱いてくれない』って思ったからだよ」

「ぶほっ!」

「…大丈夫、大石?」

 菊丸のストレートな物言いに、大石は再びお茶にむせた。苦しさのあまり、目尻に涙を浮かべる大石の背を、菊丸は優しくさする。

「あ、ああ、なんとか……」

「そっか。よかった」

 深呼吸をして呼吸のリズムを整えながら、大石は密かに、もう菊丸の話を聞きながら湯飲みを口に運ぶのはやめようと心に誓った。

「…でもさ。大石は、告る前からそんなこと考えてたのを、気が早すぎるって思ったかもしれないけど……結果論だけどさ、それで俺たち、付き合い始めてからもなにも問題なかったじゃん?」

 『問題なかった』どころか、『異常なまでにスムーズ』だったよ…。と、大石は内心でつっこむ。

「でもきっと、手塚はそんなこと、考えたこともなかったんだよ。大石のことが好きだって、それだけで頭がいっぱいになっちゃって、『大石の奥さんになる』ってことがどういうことかなんて、考える余裕もなかったんだ」

「……確かに、手塚はいっぺんに幾つものことを考えられるほど、器用じゃないけど……」

「さっきのさ、台所のアレ、手塚はきっと、見ちゃったんだよ。俺たちも久しぶりで夢中になってて気がつかなかったけどさ。それで、驚いちゃったんじゃないかな。男同士のセックスがどんなのかなんて、知らなさそうだったし」

 ただでさえ、手塚ってオクテそうだしね。と菊丸が話すのを、大石は深い悔恨の中で聞いた。

 自分が手塚を〝妻〟に迎えたのは、果たして、本当によかったのだろうか? 手塚のためになったのだろうか。手塚を愛しいと思った、ただそれだけの気持ちで手塚を連れてきたのは、間違いではなかったのか? 大石のことを『好きだ』と言ったあの手塚は、ただなにも知らずに気持ちを伝えてきただけだったのに……

 そんな自責が大石の胸中を去来し始める。自分が手塚を汚しているような、そんな思いさえ感じられてきて。

 ぱちん!

 そんな大石の迷いを断ち切ったのは、菊丸だった。大石の頬を両手で挟むように叩いた菊丸は、睨みつけるように大石を見つめた。

「今、思いっきり後悔してただろ。手塚を連れてこなきゃよかったとか、思ってただろ」

 それは、珍しく、拗ねるでも責めるでもない、純粋に怒っている声だった。大石が無言のまま頷くと、菊丸は大石の顔を自分の方に向けさせたまま、その頬をぎゅっと摘み上げた。

「い、痛たたた…英二っ」

「大石のバカっ! それは手塚に失礼なんじゃないの!? ホントに嫌だったら、手塚がついてくると思う!? あの手塚なんだよ!?」

「……英二…」

「あの手塚が、大石に告白したってだけで、ものすごい勇気と覚悟が要ったんだと思わない!? そんな覚悟をするくらい大石のことが好きなんだよ、手塚は! だったら、手塚がこの家に来たことを、大石が後悔するのは筋違いだし失礼だ!!」

 言っているうちに、感情が昂ぶってしまったのだろう。菊丸は涙を滲ませながら大石を詰った。

「俺が言いたいのは、そんなことじゃないよ! 手塚がなにに怖がってるのか知らないで問い詰めないでって、手塚の気持ちを解ってよって、そう言ってるんじゃないか! 手塚に、怖いことはないよって、教えてあげてよ…!! 大石のアホっ!」

 どうでもいいことだが、ここまで怒っていて、勢い任せの言葉の綾にさえ『嫌い』と言わない菊丸が素晴らしい……。

「……うん…そうだな。英二の言うとおりだ。俺が悪かったよ」

 解放された頬をさすりながら、大石は呆然としていた表情を改めた。

「…わかってたつもりだったんだ。だから、しばらくは手塚にそういうことを求めないようにしようと思ってた。なのに……本当には解ってなかったんだ、手塚がどう思ってるかなんて……。必要なのは『避ける』ことじゃなくて、『正しく知る』ことだったんだ」

「…あのままじゃ、手塚が可哀想だよ。どうなったって、手塚が寂しい思いをすることになるよ」

 懇願するような菊丸の言葉に、大石は申し訳なさそうな表情を浮かべて言った。

「…それでしばらく、英二に寂しい思いをさせるかもしれないけど……我慢してくれるか?」

「当然。…だって、そうしなきゃ、みんな幸せになれないじゃん!」

 なに言ってんのさ! と胸を張る菊丸に、大石は感謝のキスをひとつ落とした。

「俺は英二が大好きだな」

「俺も大石が大好きだよ。…だから、手塚を助けてあげて」

 感情を表に出すことが下手な手塚を。我侭を言いたくても、自制してしまう手塚を。

 抑圧に慣れてしまったせいで不器用な手塚を救えるのは、大石だけだと、菊丸は信じている。

「そして、みんなで幸せになろう!!」

 大石は菊丸の大好きな大きな笑顔で頷いてくれた。



 大石と菊丸の努力が実を結んだのは、それから2週間後のことだった。

 その日、ようやく恐怖を振り切った手塚に喜んだ菊丸は、大石ごと手塚をベッドに押し倒して、初めて3人で過ごす夜をお祭り騒ぎに変えたのだった。


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