昨日から、大石が留守にしている。それは、別に家出とかではなくて、単に実家の方で親戚の集まりに出席しなければならないからで、明日、それが済めば帰ってくる。
だが、いつも3人で摂る食事が2人きりなことや、空のベッドの存在は、否応なしに淋しさをかきたてて、菊丸も手塚も、ほとんどの時間を居間で共有して過ごしている。
手塚は自室から何冊も本を持って下りてきて、菊丸はテレビラックからゲーム機をひっぱりだして、とっかえひっかえスイッチを入れていた。
菊丸が一人プレイのシューティングゲームに飽きたのは、ちょうど手塚がハイラインの『夏への扉』を読み終わる頃だった。
「……なぁ、手塚ぁ。大石がいないのって、やっぱり、淋しいな」
ごろんと床に寝転がって、菊丸はソファで本を読みふける手塚に声をかけた。
本からふっと目を上げた手塚は、目つきに淋しさを滲ませて同意する。
「そうだな…。大石のいないこの家が、こんなにも広いなんて、思っても見なかった」
「大石に会いたいよ…。俺、一日だって大石の顔が見れなきゃ、淋しくて死んじゃいそうな気がする」
「………。……俺もだが」
手塚は栞を挟んで本を閉じると、わずかに身を乗り出して菊丸に同情的な目を向けた。
「菊丸は、淋しがりだからな…。大石がいないのは、耐えがたいものだろう」
反して、菊丸はごろんと寝返りを打ってうつ伏せになると、手塚をしたり顔で見つめ返した。
「無理に、自分は平気って顔、しなくていいよ。俺、知ってるよ? 手塚が、意外と心細がりなの」
「……!」
予想もしなかった菊丸の反撃に、手塚は言葉を失った。菊丸の指摘は正確に手塚の弱点を突いていて、なにひとつ言い返せないのが悔しい。
「大石が帰ってきたら、3人でラブラブしようなっ!」
満面に笑みを刻んだ菊丸が同意を求めるように言うと、手塚はうっすらと頬を染めて視線を彷徨わせた。そういうことに慣れきっていない手塚は、菊丸のように堂々と大胆にはなれないのだろう。
「…そういえばさ」
と、急に改まった口調になった菊丸に、手塚は視線を戻して次の言葉を待った。菊丸は起き上がり、手塚に向かい合って床に座る。
「手塚って、どういう姿勢でするのが好き?」
「っ!」
思いも寄らなかった質問内容に、手塚は反射的に立ち上がってかわすように一歩退こうとし……ソファに阻まれて後ろに倒れこむようにして再び腰を下ろした。
「な…っ、な……なにを……」
「俺はね~、向かい合ってるのがいいな。顔が見えないのって淋しいし、やっぱ、したいと思ったときにキスできないと、せつないじゃん。大石に抱きしめてもらうのって、なんか、ほわ~って幸せな感じになるし」
「そ、そうか……」
「うん。大石、優しいからさ。なんか、顔が見えて、抱きしめてもらうのって、大事にされてるみたいで好きだな」
「それは、よかったな」
菊丸の爆弾質問のショックから立ち直るどころか、さらに爆弾を投下されて、動揺が収まらない手塚は、かろうじてそれだけを返せた。
「で? 手塚はどんなのが好き?」
自分の好みを公言して、それで気が済んでくれたら……などと思っていた手塚の願いは、あっさりと砕かれ、菊丸は好奇心を隠そうともせずに手塚を見上げてくる。
「なーなーなーなー? どういうふうにするのが好き?」
「……そんなこと……わざわざ言うこともないだろう」
困惑と動揺で、ただでさえ会話が苦手だというのに、余計に言葉が出てこない。手塚は苦労して言葉を探しながら、ソファに座りなおして姿勢を整えた。深呼吸をすれば、気持ちもだんだんと落ち着いてくる。
「えー? なんでー? いいじゃん、別に。どうせ俺しか聞いてないんだし。大石におねだりしたら、結局は俺も聞くことになるから、同じじゃん?」
「ねだったりなど、しない」
「なんで? 『こうしてほしい』とか、『こうしたい』とか、手塚は思わないの?」
「ああ」
「ええぇ? マジで!? もったいない、手塚もおねだりすればいいじゃん!」
「……」
『もったいない』というのは、ちょっと違うような気がする。
手塚はこめかみを押さえて溜息をついた。
「…あのな。俺は、おまえと違って、あまり、その……積極的にどうとは思っていないんだ。だから、ねだることはなにもない」
「でもさぁ、手塚がおねだりしたら、大石、すっごく喜ぶと思うよ?」
そんなことをねだるのを大石が喜ぶという観点は、手塚にはまるでないことで、そんな風に考える菊丸は、その瞬間に手塚の理解を完璧に超えてしまった。
「あっ、じゃあ、手塚が言えないんなら、代わりに俺が言ったげようか? 『手塚が、こうしてほしいって』って。…なぁ、それなら手塚も平気だろ?」
だからどんなのが好き?
菊丸に悪気はさらさらないことくらい、よく解っている。畳み掛けるように問いを重ねられて、さすがの手塚もホワイトアウトした頭では、これ以上は突っぱねられなくなってきた。
話せば満足するというのなら、話してもいいことじゃないか。という気になってきたのである。
これが例えば不二や乾が訊いてきたのだったら死んでも言わないけれど、相手は他でもない菊丸なのだ。同じ大石の〝妻〟であり、言わば〝同志〟でもある。
「別に、大石には言わなくていい。俺が勝手にそう思ってる、我侭のようなものだから……」
「うん。手塚がそう言うなら、言わないよ」
手塚の重い口が開かれるのを察知して、菊丸は手塚に合わせて発言を翻した。
「俺は…きっと、みっともない顔をしていると思うから……抱かれているときは、顔を見られたくない」
赤くなりはしたが、手塚はしっかりとそう言った。菊丸の顔も見ることはできずに、側に積んでいた本を整えるフリをしながら。
「……ふぅん。そうなんだ」
菊丸は、笑うでも否定するでもなく、手塚の言葉を受け取った。それは、恥ずかしくて仕方ない手塚の心を、充分に軽くしてくれる反応だった。
が、菊丸はやっぱり菊丸だったのである。
「じゃあさ、手塚は後ろからするのがいいんだ」
はっきりと指摘されて、手塚の頬がさらに赤くなる。どさばさと手の中の本が落ち、慌てて拾い上げる手塚を菊丸も手伝う。
「……別に、絶対というわけじゃない。とにかく、顔を見られたくないだけだ」
「…いいけどさ。どういう言い方したって、内容は一緒だし」
微妙にイジワルにも聞こえるセリフは、菊丸が言うとなぜか嫌味がなかったけれど、痛いところを突かれたのは事実で、手塚はそれ以上言葉を重ねるのを断念した。
「……ってことはさ、どうしたらいいんだろな? 手塚は顔みられるのヤなんだろ? 俺は顔見えないのは我慢できないし…」
手塚、ちょっといい? と言いつつ、菊丸は手塚の肩を押してソファに倒した。
「おい…、菊丸?」
「いいから! ……だから、こーして…大石がこうで……手塚、ちょっと向こうむいて?」
「…なにをするつもりだ?」
戸惑いながら言われるままに向きを変え、手塚は菊丸の真意に嫌な予感を覚えた。
案の定、
「なにって、シミュレーション。本番でもたついたら、興醒めじゃん? だから、今から、どうしたらちょうどいいか、考えてみようと思ってさ」
けろりと言われて、手塚は『やっぱり…』と思いつつ、それでもしっかりショックを受けて脱力した。
「だめだよ、手塚! ちゃんとヒザ立ててて。…で、ええっと、こう……したら大石がぎっくり腰になっちゃうから、そしたらこうかなぁ?」
なすがまま、されるがままになってしまった手塚の姿勢を好き勝手にいじりながら、菊丸は一生懸命に試行錯誤を繰り返す。
大石が不在で、本当によかった。手塚が心底そう思っていることに、菊丸はきっと気付いていないだろう。
大石が不在ゆえにこういう事態になったとは言っても、こんなところを大石に見られたら、恥ずかしくてとてもじゃないが顔など合わせられない。
投げやり気味な諦めと限りなく後ろ向きな安堵感を抱えた手塚の耳に、不吉な金属音が聞こえたのは、そのときだった。
「ちょ…菊丸、待て…!」
「はー…。英二たち、寂しがってるだろうな……」
玄関灯のおかげでほの明るい家の前、大石は玄関の鍵を取り出しつつ門を通った。
予定よりも2時間ほど早く終了した親族集会を受けて、大石は実家に泊まる予定をキャンセルしたのである。夕食会を兼ねた親族集会は予定通り今夜だったのだが、当初から、〝妻〟たちを愛して止まない優しい〝夫〟は、帰れるものならば即座に帰りたいと思っていた。そんな大石が実家に泊まって翌日帰る予定にしていたのは、終了時刻が遅すぎる見通しだったためで、他意など、カバンの底をほじくり返したってあるわけはない。
翌日の帰宅予定を今夜に変えたところで、どこにも支障など在るわけはなく、大石はいそいそと帰路についたのだった。
鍵を開けて、「ただいま」と言いながら靴を脱ぐ。声がやや小さかったのか、それに応える声はなかったが、居間からもれてくる灯りと話し声で、ふたりがまだ起きていることは知れた。
「ちょ…菊丸、待て…!」
聞こえてきた手塚の慌てた声音に、大石は「また英二が手塚に無理を言っているな?」と笑いをかみ殺しつつ、居間のドアを開けた。
「ただいま、ふたりとも…」
「「あ…大石……」」
開いたドアのこちらとあちらで、ばっちりと目を合わせつつ、その場の3人は互いに思いも寄らない光景を目にして、硬直した。
最初に動いたのは、菊丸だった。
「おかえり、大石ぃ!!」
ただじゃれついていたにしてはやけに艶めいた体勢で手塚に圧し掛かっていた菊丸は、ぱっと立ち上がると、突進するような勢いで大石に飛びついた。
驚きながらも大石がそんな菊丸を抱きとめると、菊丸は嬉しそうに大石に頬を摺り寄せて『おかえりなさいのキス』をする。
「なぁなぁ、お土産は? ある?」
「あ…ああ。あるよ。大したものじゃないけど」
菊丸の勢いに圧倒されつつ、大石は愛しげに菊丸の髪を梳いて『ただいまのキス』を返す。菊丸はごろごろと喉を鳴らす猫のように、上機嫌の笑顔で大石の胸に再び頬を寄せた。そんな菊丸を抱いたまま、大石は、今度は手塚に「ただいま」を言おうと顔を上げる。
手塚は、菊丸に押し倒されていたときの状態で、耳まで赤く染めて硬直したままだった。
「……ただいま、手塚」
直前までの二人の会話や経緯を知らない大石にとっては、何の含みもなくただにっこりと微笑んで言っただけのことだった。
だが、手塚にとってはそうではない。菊丸にいろいろシミュレートされていたのを知られたと思った手塚は、ばっと起き上がると、台所に続くドアから抜けてすばやく2階に上がってしまったのである。
「え…っ、手塚!?」
当惑したのは大石だ。なにがなにやらさっぱり判らないまま、手塚に得意技の『天の岩戸』をかまされてしまったのだから。
「ちょ…、英二、手塚はどうしたんだ?」
「え、手塚? …大丈夫じゃん?」
菊丸の名誉のために言っておくなら、別に、手塚のことなどどうでもいいという訳ではない。ただ、菊丸にとっては、大石にくっついていられることのほうが重要だっただけのことである。
が、大石にしてみれば、(いつものことながら)手塚の予想外の態度の方が心配だ。手では菊丸の頬を撫でながら、足は階段に向かって動き出す。
「えぇ、なに、大石? 先にシャワーの方がよくない?」
大石の行動を誤解した菊丸が、コケティッシュな仕草で右に首をかしげる。
「英二~~~。そうじゃないだろう~?」
弱りきった大石の情けない声に、菊丸が今度は左に首をかしげた。
「にゃに? どうしたの?」
たったひとりの全ての事情を知っている人物は、その心を完全に大石に占められて、事態をまったく解っていなかった。
『天の岩戸』をこじ開けるという至難の業に大石がなんとか成功したのは、3時間後のことである。