菊丸は、ここのところ、憂鬱だった。
原因は判っている。大石のもうひとりの〝妻〟、手塚だ。
夕食の下ごしらえをしながら、菊丸はこっそりと溜息をついた。
食事の支度をしている最中の台所は、2階の自室と並んで、独りきりになれる貴重な空間だ。中華丼に入れるたまねぎを板状に切りながら、菊丸は誰に見られる気遣いもなく、考え事に浸った。
こんな顔は、大石にも手塚にも見せられない。見られたら、きっと、こちらの方が申し訳なくなってしまうほど心配するのに決まっているから。
「あつっ」
不意に指先に走った痛みで、菊丸は意識を現実に引き戻された。左手の人差し指を、包丁で切ってしまっていた。
「はぁ……。まだまだだにゃ」
傷口を口に含み、生意気な後輩の口癖を真似て、自戒する。考え事の是非はともかく、調理中はもっと集中しなくては。
ふるりと頭をひとつ振って意識を切り替えると、菊丸は改めてまな板の上に注意を向けた。
菊丸の携帯電話に着信が入ったのは、夕食ももう終わろうとしているときだった。
「誰だろ? …あ、桃だ」
ディスプレイの表示を見てつぶやくと、菊丸は通話ボタンを押してそっと席を立った。様子をうかがって手を止めていた大石と手塚が、動きを再開する。
菊丸が通話を終えたのはすぐのことだった。
「あのさ、これから桃とちょっと出かけてくる。あんま、遅くならないようにするから」
どこか、夜遊びに行く約束でもしたのだろうと、大石と手塚は深く追求もせずに承諾した。自分の食器を片して、自室で着替えた菊丸は、いそいそと玄関を出て行った。
「大石」
菊丸が出て行って少しして、手塚はやや改まった声で大石に話し掛けた。おかわりをよそっていた大石が、問い返すように手塚を見る。
「菊丸の様子、最近、おかしくないか?」
「…〝おかしい〟って?」
「ここのところ、やけに沈んでいる気がする」
「そのことか…」
大石はひとつ溜息をつくと、手塚に向かい合う位置の自分の席に戻った。
「俺もそれは、気付いてたよ。…でも、訊いてもはぐらかすし、訊かれたくないみたいだったから問い詰められなくて。…手塚にも、何も言ってないのか?」
「ああ。相談してくれたら、力になれるよう、努力するんだが……」
はぁ、と、ふたりはそろって溜息をつく。
「英二………なにがあったか、話してくれよ……」
大石は力なく、そこにはいない菊丸に語りかけた。
なにも、手塚が嫌いとか、憎いとかってわけじゃないんだ…
桃城との待ち合わせの場所に向かいながら、菊丸はぼんやりと自分の気持ちを反芻していた。
手塚は、不器用だけど優しいし、大石と3人で暮らすことにもなんにも不満はないよ。むしろ、ふたりっきりだったときよりもずっと楽しくなって、すごく嬉しい。
手塚とも、以前よりずっと仲良くなれて、なんか、テニスとはまた違った面で仲間が増えて、それは幸せだなぁって思うよ。
けれど菊丸は、だけど…と表情を曇らせる。
手塚は不器用だし、慣れてないって所為ですごく初々しい。俺でさえ、可愛いって思うことが多い。
手塚は、俺が持っていない可愛さを全て持っている。それは、俺じゃ決して及ばない可愛さ、決して得られない可愛さなんだ。
大石が俺のことを愛していないなんて思わない。けれど、自分だけじゃダメなのだと思うと、やるせなくなる。
なにかにつけて戸惑ってしまう手塚を大石が構うのは、仕方のないことなんだろう。実際、大石がやらなかったら自分がフォローしてるだろうと思う。
それでも、大石が手塚にばかり構っているようで、それがたまらなく寂しい。仕方のないことなんだって思っても、寂しい気持ちは変らない。
そして、そんなふうに思ってしまう自分が嫌だ。手塚のことを嫌いじゃないのに、寂しさに任せて傷つけてしまいそうになるのが嫌だ。
そんな醜い自分が嫌で、夜、ふと目を覚まして眠れなくなる。
こんなふうに思うようになったのは、いつからだろう? やりきれなくて、涙が出そうになることもしばしばだ。でも、泣いて大石の不興を買いたくなかった。
誰にも言えない制限が、余計に苦しさを煽る。誰かに聞いてもらえたら……。でも、誰に?
答えの出ないまま、菊丸は交差点の先に桃城の姿を見つけて、笑顔の仮面を顔に貼り付けた。
桃城に連れ出されたのは、渋谷のクラブだった。足を踏み入れたこともなかった場所にいきなり連れてこられて、菊丸は唖然とする。
「英二先輩、こっちこっち! ドリンク、なんにします?」
「ドリンクって……」
まったく初めてで、場違いな気がしている菊丸には構わず、桃城はドリンクをオーダーする。
「…なあ、桃。いきなりなんだよ? こんなとこ連れてきて……」
渡されたグラスを受け取って、菊丸は戸惑いがちに隣の桃城に目をやった。
「んー…。とりあえず、こっちに移動しましょう、英二先輩」
桃城は、慣れた態度で人を縫って、ぽかりとそこだけ開いたスペースに菊丸を導いた。壁に寄りかかり、こくりとひとくちドリンクを飲んで、なんて切り出そうかと思案して…
「…いいや、取り繕っても仕方ないし。ねぇ、英二先輩。なんかあったんすか? ここんとこ、ずっと沈みがちっしょ? なんか、俺、それが心配で……俺で力になれることなら、相談してほしいなぁ…と思って……」
わざと自分のほうを見ないまま、桃城が言うのを聞いて、菊丸は苦笑いをこぼした。
「にゃんだ。そんなことかぁ…」
「〝そんなこと〟って……。これでも、一応、マジで心配してるんすけど?」
「うん。そっかぁ…。……ありがと、桃。心配かけてゴメンな。…でも、これは、人には言えないことなんだよ……」
「俺が、誰にも言わないって、約束してもですか?」
「うん。他の誰にも言わないって、約束してることだから……ゴメン」
「そうっすか……。じゃあ、無理には聞かないっすけど…俺で相談に乗れることがあったら、いつでも言ってくださいね」
「うん。ありがとう、桃」
ドリンクを口に運びながら、こうして心配してくれる後輩がいるというだけで気持ちが軽くなった自分に、菊丸は笑みをこぼした。
それから、少ししてのことだった。
「俺、新しいドリンク、取ってきますよ。ちょっと待っててください」
空になったグラスを、菊丸の分も持って、桃城がその場を離れた。
途端に、音楽が耳を突き、辺りの喧騒が押し寄せてくる感覚がする。いきなりの音の洪水に、菊丸はわずかに顔をしかめた。
周りでは、誰憚ることもなく、いろいろな人たちが声高にしゃべっている。その場しのぎに心の空白を埋めるためのような、そんな光景に、菊丸はやはり自分は場違いだなぁ…と実感した。
こんな虚しい埋め方をしなければならないような心の空白なんて、自分にはなにもない。
「あれ? 君、中学生じゃない?」
ぽけっとフロアを眺めて桃城を待っていた菊丸に、そんな風に声をかけてきたのは、20代も後半くらいの男性たちだった。
「いいの、中学生がこんな時間にこんなとこにいて? 暇なんだったら、一緒に遊ぶ?」
茶色く髪を染めた男が、そんなふうに馴れ馴れしく寄ってきた。後ろで、友人らしい数人が、なにやら囁きあっている。
「…なぁ、可愛い顔してたって、男じゃん?」
「なんで? どうせなんにも知らないガキだろ? 面白そうじゃん」
喧騒の合間の瞬間的な静寂に、そんな囁きが届いてくる。遊びでナンパしてきているのだと理解するのに、数秒の時間がかかった。
「やっ…やめろよ!」
肩に置かれた手を振り払うと、その力が意外だったらしく、男たちは目を丸くした。
「へぇ…けっこう力、強いじゃん。なにかスポーツでもやってる?」
けれど、彼等が驚いていたのは一瞬のこと。気を取り直して、にやにやとまた近寄ってくる。
今度は、振り払えなかった。
やはり、中学生と大人ではまったく違うのだと、思い知らされる。さっと青ざめて顔を強張らせた菊丸を、男たちは楽しそうに笑った。
「ヤだ!! 放せよ!」
「そんなに嫌がんなくたっていいじゃん? 別に、取って喰おうってわけじゃないんだからさ」
菊丸は内心、ウソつけ、と毒づく。だが、いくら足掻いても、掴まれた手を振り解くことができなかった。
「ヤだっ! 嫌だ、助けて!! 大石!」
恐怖の中、大石の名が口を突いて出た。その瞬間ふっと腕が軽くなり、誰かに抱き寄せられる感触がして、菊丸は閉じていた目を開いた。
大石が両者の間に割って入り、菊丸を抱き寄せて、男たちにアイスピックを突きつけていた。
「悪いけど」
押し殺した声が、怒りの表情を隠そうともしない大石の唇からこぼれる。
「こいつは、髪一本も残さず俺のものだから、手を出さないでもらえますか」
「な…っ」
「このガキ!」
大石の登場に一瞬鼻白んだ男たちが、カッとなって叫ぶ。が、今にも殴りかかりそうなその動きは、菊丸の左側に現れた人影が押さえ込んだ。
大人でもなかなかいないであろう、179の長身。テニスで鍛え上げた身体も、伊達ではない。険しい表情の手塚が、菊丸を守るように立ちふさがっていた。
「…どうしてもと言うなら、相手になるが?」
押さえた声音は、充分な威圧感で男たちを凌駕した。
「あっ、先輩! どうしたんすか、大丈夫っすか!?」
そこへ、ドリンクを持った桃城が戻ってきたものだから、ひとたまりもない。男たちは、情けない取り繕い方でその場を離れていった。
「英二…間に合ってよかったよ……。心配したんだぞ」
「大石……どうして」
「帰りが遅かったからな。桃城の家や越前に電話して、行きそうな場所を教えてもらったんだ」
大石の代わりに手塚が答えると、大石はぎゅっと菊丸を抱きしめた。
「ここのところ、様子がおかしかったから……心配したんだぞ。英二になにかあったらどうしようって、そればかり気になって」
「大石……ゴメン。もう、大丈夫だから」
強く自分を抱き寄せて緩まない腕を心地よく思いながら、菊丸はそっと大石の背に腕を回した。きゅっと力を込めれば、それ以上の力強さで抱き返されて、菊丸は呼吸に困りながら至福に浸る。
「…桃城」
「はい、部長」
その場を離れようと手塚に合図されて、桃城は素直にそれに従った。
歩きながら、手塚は低く告げる。
「他言無用だ。いいな?」
「はい。判ってるっすよ」
薄暗く、他者に干渉するのを良しとしない場所で互いの存在を確かめ合っている二人を置いて、手塚と桃城は帰路についた。
もう、大石が手塚を構うことに、不安はない。
自分にとっての一番は大石で、大石が自分を大切に思っていてくれているのが判ったから。
次の日、それまでの憂鬱さもどこへやら、菊丸は上機嫌で台所に立っていた。
もう、包丁で指を切ることもないだろう。