練習を終えて、制服に着替えた手塚は、部室の机について部活日誌をひろげた。その日の練習内容を書いて、多忙な竜崎女史に見せなければならない。
レギュラーたちも心得たもので、事情の許す限り手塚に付き合い、互いにその日の練習の記憶を補い合う。その日も、他の部員たちはどんどん帰宅していく中、レギュラー陣は着替えを済ませると思い思いに部室内に陣取りながら、その日の練習内容を思い出していた。
「あ、手塚。池田がグラウンド10周したの、抜けてるにゃ」
「…そうか。すまん、菊丸」
手塚の邪魔にならない程度に好き勝手におしゃべりをするレギュラーたちの横で、乾の作ったレギュラー用メニュー表や大石の作った通常練習メニューを見ながら、黙々と日誌を書いていた手塚に菊丸が記載ミスを指摘した。
今日の練習を反芻することで頭がいっぱいになっていた手塚は、訂正のために修正液を使おうと、ペンケースのある机の左上ではなく、なにを思ったか机の中に手を入れた。
そこまでは、意外とおまぬけな手塚にはよくあることだったのだが……
「痛っ」
小さな悲鳴と共に、手塚が机の中を探った手を引いた。なにか指先に触れたらしい。
その声を聞きつけた面々が手塚を案じる前に、横からさっと伸びた手が手塚の左手を取った。
「ああ、棘が刺さったな」
大切そうに手にとった指先を診て、痛ましげに呟いたのは、大石だった。
大石(副部長)……すばやすぎ。
その場にいた誰もが、内心でそう思う。が、もちろん、恐くて口には出せない。
大石は手塚の手を自分の目の高さまで持ち上げて、じっくりと眺めた。
「……これじゃ、抜けないな…」
ぽつりとつぶやいて、問題の指先を口に含む。場所を確認するように舐められ、次にはきつく吸い上げられて、手塚の頬に朱が上った。
「ちょ…大石っ」
手塚がうろたえて大石を呼んだが、大石はしっかりきっちり無視した。怪我をした手塚を放す気はさらさらないらしい。
…なんでそこで舐めるの? それで、どうして手塚(部長)は赤くなるわけ??
見守っていた、1名(=菊丸)を除くレギュラー陣に疑問が湧くが、やっぱり、恐くて口に出すものはいなかった。
「…ダメか。すまないけど、海堂。針を1本もらえるか?」
「お…大石。保健室に行くから、いい」
手塚の指を口から放した大石が、唯一ソーイングセットを持っている海堂の声をかけると、手塚が慌ててそれを遮った。そこに、乾が無慈悲な一言を投げかける。
「保健の先生なら、今日は出張でいないよ」
「…だそうだ。海堂、頼む」
手塚に口を挟む余地を与えず、大石は場所を机からベンチに移した。自分の右に手塚を座らせて、真剣に棘の具合を確かめる。
「そうだ、不二。ライター持ってるだろ? 貸してくれないか」
「…ライターだと?」
当然のように不二に言った大石の態度も問題だったが、手塚にしてみれば、そんなものを学校に持ってきている不二の方が問題である。聞きとがめた手塚に、不二は大石に向き直る。
「貸してもいいけど、不問にしてくれる?」
「わかった」
不敵に微笑む不二に、大石は間髪いれず了承する。既に、手塚に発言は許されていないらしい。
海堂から受け取った針を、不二から借りたライターで炙って消毒する。左手をしっかりと押さえ込まれた手塚は、針と炎という不穏なものを間近で見て、びくりと身体を強張らせた。
「できるだけ、優しくするから。痛かったら、言うんだぞ」
手塚の眼鏡を外して、大石は手塚の腕を脇に抱えて押さえ込みながら、いたわるように言う。
それが閨事のたびに言われる言葉とひどく似ていて、手塚は再び顔を赤らめた。
そんな二人の様子が、1名(=菊丸)を除くレギュラー陣の余計な(ある意味正しい)妄想を後押しする。
「恐かったら、別の方見てればいいから」
そう言って大石が指に針を当てると、手塚は耐え切れないように大石の肩に顔を埋めた。その仕草はさながら甘える仔猫のようで、やけに艶めいて見えた。
「……タカさん、大丈夫?」
ふと、不二が自分の後ろに立っていたはずの河村の様子がおかしいのに気付く。河村は顔を真っ赤にして困惑していた。
「いや…なんか、見ちゃいけないものを見ているような気になるんだけど……」
「そう?」
不二が作り物めいた仕草でちょこっと首をかしげる。とたんに、河村は慌しく自分のバッグを取り上げた。
「ごっ、ごめん! 俺、家の手伝いがあったから、帰るよ! 手塚、なんともないといいな」
耳まで赤くなって走り去る河村を見送って、乾が尋ねる。
「不二、なにしたんだ?」
「別に? ちょっと刺激してみただけ」
確信に満ちた凶悪な答えに、ずざっと周りが一歩引いた。乾だけ、身動ぎもせずに返す。
「やりすぎるなよ」
「もちろん」
邪悪なやり取りに構わず、ベンチでは大石が手塚の棘を抜こうと心を砕いていた。手塚は大石の肩に顔を埋めたまま、大石に全てを委ねきっている。いつのまにか、部室の救急箱を取り出した菊丸が、大石の介添えをしていた。
「英二」
「ほい」
名前を呼ばれただけで、菊丸は的確に大石が望むものを必要なだけ差し出す。あらかじめ炙って消毒しておいたピンセットを渡すと、大石は慎重な手つきで刺さっている棘を抜きにかかる。
上手く掴めたのか、つい…とピンセットを引き上げると、大石は菊丸が差し出していたティッシュの上にピンセットを置いた。
「英二」
「ほいほい」
菊丸からガーゼを受け取り、それを傷にあてがうと、次に差し出した手にはマキロンが渡される。
「…っ」
消毒が染みたのか、手塚が息を飲んで身動いだ。大石は、手塚の肘を挟んでいた腕に力を込めてそれを押さえ、手早くばんそうこうを巻く。
ほぅ…と体の力を抜く手塚を抱き寄せて、大石は称えるように手塚の頭を軽くたたいた。
「もう大丈夫だよ。刺さってすぐだったから、抜き易かったから」
なだめるような声に、手塚はゆっくりと大石から身を離しながら頷いた。
立ち上がり、部活日誌を書いていた机に戻っていく手塚と、それを支えるように向い側に座る大石を眺めながら、蚊帳の外に置かれていたレギュラー陣はぼそぼそと会話を交わした。
「……で、あれはいったい、なんだったんすか?」
「さあ? …『惚気』ってやつ?」
越前の言葉に、不二が楽しそうに首をかしげた。
「やっぱりそうなのか? やけに世界を作ってるとは思ったけど」
いやに納得している乾に、桃城は悲しげに首を振った。
「でも……大石副部長、それじゃ英二先輩が可哀想っすよ………」
「「「はぁ??」」」
渋谷のクラブでの一件を知らない他のレギュラーたちが、一斉に桃城に注目した。
と、桃城の後頭部に視線が突き刺さってきた。彼等の背後で救急箱を片していた菊丸の「言ったら覚えてろ」の視線である。
「あ…い、いや、なんでもないっすよ。はは……」
前からは好奇心満々の、後ろからはそれを阻止する、2種類の視線に突き刺されて、桃城は乾いた笑いで必死に誤魔化そうと努力した。
「なにをしている? 日誌は書けたぞ」
気付けば、職員室に行く支度も済ませた手塚が、コートの鍵を持った大石と並んで立っていた。
「あ、部長。指はもう大丈夫っすか?」
矛先を変える相手を見つけて、桃城がぱっと手塚に声をかける。手塚は頷いて、
「ああ。心配をかけてすまなかったな。ちょっとした程度だから、すぐに治るだろう」
「そういうわけだから、もう閉めるけど……構わないか?」
大石が鍵を見せながら確認すると、レギュラーたちはてんでんに了承する。
「じゃ、俺は職員室に寄るから行くぞ。みんなも、もう帰るといい」
手塚がそう言って部室を出たのを潮に、レギュラー陣も帰宅を始めた。
こうして、手塚と大石の関係は、レギュラー陣に余計な(でも正しい)想像を抱かせたままで、〝つっこみ禁止〟項目の一つとなった。