大石君の夏期合宿

1日目



 蓼科にある〝青春学園蓼科寮〟の建物の前。車寄せに、物々しく観光バスが乗りつけた。

 バスのフロントガラス上部には、「青春学園中等部男子テニス部様」の文字。そう、乗っているのは青学テニス部の部員たちである。

 整然とバスを降り、自分たちで荷物を引き出すと、整列して運転手とバスガイドに挨拶をする。バスが見えなくなるまで見送ると、顧問の竜崎女史が号令をかけた。

「それじゃ、中に入って整列! 管理人さんにご挨拶しな」

 年配の女性ながらよく通る声に促されて、部員たちは荷物を持って建物の中に入っていく。

 玄関ホールで、この寮の管理人夫妻が出迎えてくれていた。手塚の合図で再び整列した部員たちは、礼儀正しく挨拶をする。

「青春学園中等部の男子テニス部です。今日から一週間、お世話になります。よろしくお願いします」

「「「しゃす!!!」」」

 手塚の言葉に続いて、部員たちが頭を下げると、管理人夫妻はにこやかに礼を返してくれた。

「大所帯なもんで、なにかとご迷惑をおかけするかもしれませんけど、よろしくお願いします」

 女史がそう言い添えると、管理人夫妻は「いえいえ」と手を振って、女史を管理人室へと招いた。

「じゃ、手塚。後は頼んだよ。あたしは管理人さんと話があるから」

 引率教員への使用上の注意やらなにやら、大人同士でもなにかとあるらしい。この後を任されて、手塚は「わかりました」と答えると、部員たちを追い立てた。

「全員、荷物を持ったままで2Fのホールに集合! 2、3年生は1年生を案内してやれ」

 乾や不二が先導しながら全員が移動を始めるのを確認して、手塚は最後尾につく。手塚が歩き出すのを待っていた大石が、すっと隣に並んだ。

「具合は大丈夫か?」

「ああ。途中からは眠っていたし、もうバスは降りたからな。心配ない」

 気遣わしげな大石に、手塚はちょっと微笑んで見せた。少し―――といっても、大石と菊丸くらいにしか判らないだろうけれど―――眠たそうな表情ではあるが、具合は問題なさそうだと、大石は内心で多きに安堵する。

 乗り物酔いする性質の手塚は、長時間密閉された車内にいることができない。今日も、部長としての威厳よりも体調維持を重視して、酔い止めを飲むと早々に眠るという防衛行動に出たのだった。おかげで、まだ薬が効いているために眠気が残ってはいるが。

 お互いに、相手が自分の隣にいることに安んじて、階段に足をかける。部活で合宿のために来ているとはいえ、いつもとは周囲の環境さえ変わってしまうこれからの1週間に心が躍るのは、どうにも抑えられなかった。




 しんと静まっているホールに、手塚のよく通る声が響く。大石と2人がかりで割り振った、部員たちの部屋割りの発表である。

 出来上がるまで二日かかった部屋割りは、一般部員は室長に3年生もしくは2年生を据えた4人部屋、レギュラー部員は3人部屋となっていて、学年は混合である。レギュラーだけ別枠なのは、レギュラー用の特別メニューなどで一般部員と1日の練習予定がズレるため、相互に悪影響を及ぼさないようにという配慮からで、特別扱いや贔屓などではない。

「次、レギュラーの部屋割りだ。202、不二、河村、海堂。203、菊丸、桃城、越前。俺と大石は、乾と一緒に201に入る。用がある者はそちらに来るように。あと、竜崎先生は1階の〝白樺〟におられるので、各自覚えておくこと。…では、部屋の鍵を渡す」

 部屋割り名簿の先頭になった部員に、大石が各部屋の鍵と名簿を渡していく。口頭で発表された内容をプリントで改めて確認して、部員たちのリアクションも様々に飛び出す。

「それでは、30分後にグラウンドに集合だ」

 それを押さえ込むような手塚の号令に従って、部員たちがぞろぞろとホールを後にし始める。菊丸がバッグを肩に背負いながら、ちぇ~と呟いた。

「俺も大石と同室がよかったにゃ」

「英二~。我侭言わないでくれよ、旅行じゃないんだから」

「わかってるよ。桃やおチビと一緒なら、そんなに悪い同室じゃないよね」

「……あのな」

「わかってるってば。騒ぎません」

 翌日の打ち合わせの都合から手塚と大石は同室になってしまって、いくら部のためとはいえ、それではあまりに菊丸に申し訳なくて、それでせめてもと思って桃城や越前と同室にしたのだけれど……。

 悪ノリもすることさえある桃城・越前コンビに菊丸をくっつけたのは、間違いだったのかもしれない。

 できるだけ、英二から目を離さないようにしよう。すまないし、心配だし。

 大石は、そう、密かに決意を固める。

 もちろん、後になって、その決意を後悔することになるなんて、今このときに判るわけはなかった。




 関係者の保養施設という他に、中・高等部の部活動や大学部のゼミ・サークルの合宿所という目的でも建てられたこの施設には、合宿目的でしか使用されないのがもったいないほど立派な体育設備が整っている。

 30分後、グラウンドに集合した部員たちは、基礎トレーニングの後にレギュラー部員と一般部員に別れて、別個の特別メニューを開始した。

 高原の清浄な空気に、高く通るインパクト音が幾つも響く。それを打ち消すように張り上げられる、「青学ーっ! ファイ、オー!!」の声。いつもは閑散とした辺りに、見違えるほどの活気が満ちていく。

「手塚、ちょっといいか? この後のメニューのことなんだけど……」

「なにか問題か?」

「うん、ちょっと」

 乾に呼ばれて、練習の進行状況を監督しつつ、自身も決められたメニューをこなしていた手塚は、後を大石に任せるとコートを外れた。

「……乾ってさ、なにかと手塚を傍に呼びたがるよね?」

 その後姿を見送りながら、不二がぽつりとつぶやく。

「ああ…、うん。そうかもね。やっぱり、手塚って頼りになるからな」

 相槌を打ったのは、河村だ。だが、微妙に論点がズレている。不二はくすりと笑みをこぼして、「タカさん、そうじゃないよ」とジャージの上着を引っ張った。

 隣で、不二が言外になにか含ませているのに気付いたのは、菊丸である。乾が手塚に片想いしているのかも…と解釈してしまい、心中は穏やかではない。

 乾の邪魔をした方がいいんじゃ…? と思って大石の方を見ると、大石は眉間にしわを寄せながら、河村の耳に顔を寄せて何事かを囁いている不二をじっと見つめていた。知らない者が見れば、あらぬ誤解をするかもしれないその視線は、しかし、単に「ウチのフジとタカサンも、最近あんな感じなんだよな…」という視線なだけなのだが。

 そう、菊丸のおねだり攻撃に陥落した大石と手塚が菊丸に贈ったシャム猫のフジとセント・バーナードのタカサンは、生後一ヶ月で貰われてきたときから一緒にいたせいか、とても、ひどく、非常に、すごく、大変、仲がいいのである。その様子を見ていた菊丸に、「犬と猫ってペアリングできるの?」と訊かれて困ったのは、ついこの間のことだ。

 さておき、不二が河村にじゃれつくのを尻目に、レギュラー練習が続けられる。

「わぁっ!?」

「うわっ!?」

 紅白戦で試合をしていた越前が、勢い余って手塚にぶつかったのは、未だに乾との打ち合わせが続いているときだった。

 とっさに、手塚は越前の小柄な身体を受け止める。30センチ弱の身長差は、ダッシュが止まらずに突進してきた越前を抱き止めるのに、なんら支障をもたらすことはなかった。

「怪我はないか?」

「……大丈夫っす」

 短い、無事を問う言葉に、越前は一拍の間を置いて答えた。

「なら、いい。気をつけろ」

「…うす」

 抱きとめられたことで、真下から見る羽目になった手塚の顔に、越前が見惚れていたのは、本人だけの秘密である。

 何事もなかったかのように乾に向き直る手塚に、名残惜しそうな目線を向けながら、越前は大石との試合に戻っていった。

 加えれば、手塚に抱きとめられた越前を、大石が少し羨んだのも、本人だけの秘密である。




 汗まみれの練習後は、大浴場での入浴だ。普段は、間に合わせのように作られた校舎内のシャワー室でざっと汗を流すことができる程度だが、ここではきちんと風呂で汚れを落とせる。キレイ好きな者にとっては、最高の環境である。

 勢いよくジャージを脱いで、いちばんに飛び込んだのは桃城。ザバザバと湯を浴びて、浴槽に飛び込む。

「桃、風呂で泳ぐなよ」

 苦笑いを禁じ得ぬ様子で、大石が声をかけた。隣で、手塚が苦い表情でこめかみを押さえている。

「乾! 風呂にまでノート持ってくるなよ!」

「しょうがないだろう、入浴時のクセも重要なデータだ」

 げっ! と引きつる菊丸に、乾は顔色も変えずに答える。ノートが濡れたら、インクが滲んで読めなくなるはず…と思いきや、筆記用具はシャープペンシルなので心配は無用らしい。つくづく、周到な男である。

「そっか、日本って、大勢でも風呂に入るんすよね…」

「ああ、越前は初めてなんだ? そしたら、まずは…」

 アメリカ育ちの越前は、初めて体験する大浴場に、カルチャーショックを隠せないようだった。公衆浴場でのマナーを、河村が丁寧に教えている。

「ふしゅ~…」

 湯船で心地よさそうに溜息をつく海堂に、不二がにこにこと微笑んだ。

「…桃先輩、飛沫が飛ぶっす」

「なにぃ!? 越前、大浴場じゃ泳ぐのが常識だ!」

「嘘だよ、それは絶対に嘘だから!」

 桃城のとんでもない発言に、河村が慌てて否定する。その必死な物言いに、菊丸は「ぶふっ」と吹き出した。

「………。毎年、思うんだけどさ」

 汗を流して浴槽に浸かった手塚の隣で、唐突に不二が手塚をしげしげと見つめる。

「手塚って、肌きれいだよね」

「……は?」

「だから、肌きれいだね、って。流石に、白いって言うほど白くはないけどさ、あんまり焼けてないし、肌理が細かくてすごく手触りよさそう。なんか、すごく色っぽいよね」

 いきなりなにを言い出すのか…と呆気にとられる手塚を余所に、不二はつつっと手塚の肌を撫でる。条件反射でぴくんと震えた手塚に、不二は楽しげに笑った。

「やっぱり。すごく感度もいいね。ちょっと羨ましいかな」

 幸か不幸か、少し離れたところで、大石がはらはらしているのには誰も気付いていない。不二の言葉をきっかけに、手塚の肌に注目し始めたレギュラー陣は、口々に感想を漏らした。

「確かに、部長ってキレイっすよね~」

「やっぱ、ジャージをきっちり着てるのって、焼けないため?」

 横でそれらのセリフを聞きながら、大石は「どうか手塚に言い寄る奴が現れませんように…」と祷る。菊丸は菊丸で、そんな大石に同情していた。

「うるさい。女性じゃあるまいし、そんなことを考えたりなんてするものか。くだらないことを言っていないで、さっさと風呂を済ませろ」

 付き合っていられない…とばかりに、手塚は浴槽を出る。その雫を滴らせる姿に越前が見惚れているのに、誰も気付いていなかった。

 大石の祷りは、届かなかったらしい。合掌。




 食堂での食事後、ホールでしばらく自由時間をすごす。トランプで盛り上がるグループもあれば、おしゃべりを堪能するグループもあり、楽しみ方は千差万別だ。

 手塚が、不二にポッキーゲームで襲撃されたのも、その時間のことである。

 こうして、表面上は平穏無事に、合宿1日目は過ぎていった。



1日目夜



 明日の打ち合わせも終わった深夜、そろそろ寝ようかという201のドアを、こんこんと叩く音がした。

「…誰だ、こんな夜中に?」

「まだ寝ていないところがあったのか」

 時間も時間なだけに、取り締まる立場の彼らは眉をひそめる。

 立っていった大石が開けると、そこには不機嫌そうな面持ちの海堂が立っていた。モスグリーンのパジャマ姿で、どうやら、一度寝ていたのを起き出して来たもののようだ。

「海堂、どうした? なにか事件でもおきたか?」

 驚いた大石が訊ねると、海堂は「いや」と頭を振った。大石は不可解さを隠せず、ならば、いったいなんだろう…? と、奥で様子をうかがっている手塚と乾も、顔を見合わせて首をひねる。

 203での消灯時間をすぎても続いていた枕投げファイトは、手塚が雷を落として治めたはずだし、一般部員たちの部屋も、3回見回りをしたから、流石にもうおとなしくなっているだろう。

 海堂がなぜ来たのか、さっぱり判らない幹部3名に、海堂は低い声で言った。

「部屋を変えてほしいんすけど……」

「「「…はぁ?」」」

 予想外の申し入れに、そろって問い返す手塚・大石・乾。そんな彼らの様子に、海堂はむすっとしたまま、202のドアを指差した。いいから来てみろ、ということらしい。

 海堂に従って202に入った3人は、瞬時に納得して、深い深い溜息をついた。河村のベッドで、不二が一緒に寝ていたのである。しかも、こともあろうに、不二は河村に腕枕されているのである。流石に、言葉どおり眠っているだけのようだが、それにしたところで、こんな状態の中では、同室の海堂が居心地悪がるのも、無理はない。

「タカさん、不二には甘いから……」

 呆れたような大石の言葉に、手塚は内心で『お前も同じくらい菊丸に甘いぞ』と思うが、とりあえず口には出さないでおく。もっとも、手塚が気付いていないだけで、大石は手塚にも充分すぎるほど甘いのだが。

「仕方ない。明日になったら、部屋割りを変えよう」

「やめたほうがいいと思うな。不二に呪われたくないんなら」

「普通は、『恨まれたくなかったら』って言うんじゃ…?」

 眉間にしわを寄せた手塚に、乾が忠告する。その失礼な言い回しに海堂はつっこんだが、大石の苦笑いは暗に乾の発言を肯定していた。

「確か、204が空いていたよな。海堂には、そっちに入ってもらってはどうだ?」

 大石の提案に、手塚はうーん…と考え込む。どうやら、いくら事情があるとはいえ、一人だけ個室にするというのに抵抗を感じているらしい。

「いいんじゃないか、他に仕方ないだろう。このままじゃ、海堂が気の毒じゃないか」

 親切そうに言葉を添える乾の眼鏡は、だがしかし、意味ありげに光る。それに気付いた海堂が「204にはなにかあるのか!?」と、一瞬怯むが、それに気付かない手塚は不承不承にうなずいた。

「…そうだな、他に方法はないようだ。海堂は、204を使っていい。鍵は今ないから、明日渡すことになるが、ドアは開いているから入れるだろう。204に移って、早めに休め」

「…う……うす。ありがとうございます」

 乾の眼鏡に恐怖を感じながら、しかし、海堂は安眠の場所を確保できて、そそくさと移動を始める。202を後にしながら、手塚はふたたび、深々と溜息をついた。

 人目をまったく気にしないでいられる河村と不二を、大石が少しだけ羨んだのは、本人だけの秘密…。こうして、大石だけの秘密は、着々と増えていく。とりあえず、明日は、胃薬を飲んでおこう…と思う大石だった。


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