2日目
まだ夜が明けきらない早朝、大石はベッドを出ると、手塚のベッドに近づいてそっと腰をかがめた。
「手塚、起きろ」
乾に聞こえてしまわぬよう、低めた声で、耳元でささやく。
無防備に眠る手塚は、大石の声に何の反応も示さず、すぅすぅと穏やかな寝息をたてている。その肩を揺すりながら、大石は何度か声をかけた。
「ん……おいし…?」
ようやくうっすらと目を開けた手塚にうなずいて、大石は手塚の身体を起こす。
「早く起きろ。もう少しすると、乾が目を覚ます」
「ああ…そうか……」
手塚が寝起きが悪いことは、別に、乾に知られようと然したる問題ではないのだが、大石が手塚を起こすのに慣れていることを知られるわけにはいかない。そして、こちらの方がより重要なのだが、大石としては、手塚の寝顔をできるだけ余人に見せたくない。来るときのバスの中でさえ、遮光のためと称して、頭からジャージを被らせたくらいなのだ。
いつものように、「そうか」と言いつつまだ頭が眠っている手塚を、バスルームに追い立てる。熱いシャワーを浴びさせないと、手塚ははっきり覚醒しないのだ。湯温を調節してシャワーの準備を整え、半分以上寝ぼけている手塚がパジャマのボタンを外すのを手伝うと、バスルームに放り込む。
手塚のことが済むと、今度は、洗面台に向かって自分の朝の支度を始める。時間に余裕を持ってはいるけれど、乾が起きるのがいつだかわからない以上、とにかく手塚をバスルームに放り込むまでは気が気でない。歯を磨きながら、大石はようやくほっと肩の力を抜いた。
ジャージに着替え、キャビネットの設備でコーヒーを入れる。まだ眠っている乾の分を除いて、2人分。カップを持って窓際のソファに腰を下ろすと、そこに手塚がシャワーを終えて出てきた。
「おはよう、手塚。コーヒー入ってるぞ」
「おはよう、大石。…もらおう」
がしがしと髪を拭きながら、手塚は大石の向いに腰を下ろした。開けた窓から朝の空気が入ってきて、一晩かけて室内に澱んだ空気を清めていくのが気持ちいい。
「……考えたんだが」
「?」
ひとくちコーヒーを飲み、手塚が少し改まった口調で切り出した。大石は無言のまま、問い掛ける目を向ける。
「やはり、部屋割りを変更しようと思う。いくら事情が事情でも、海堂一人だけが個室というのは、不公平だ」
「そのことか……。…手塚の言うことも、正しいけど……」
「反対か?」
「ああ、少しな。…昨夜のことを、俺たち以外は知らない。それを、今ここで部屋を変更することは、昨夜何かあったのだと、部員たちにわざわざ教えるのも同じことになる。無用な動揺は、できるだけ起こしたくないよ」
「だが、部活動というものは、各自の意思で行うものとはいえ、授業の一環だ。その合宿中に、その…ああいう行動は、認められてはならないことだ。河村と不二を同室にした俺にも責任はあるが、ならばなおさら、部屋割りを変える必要があると思う」
「でも、昨夜も言ったけど、止めた方がいいと思うよ」
突然、背後から声が割り込んだ。振り向くと、目を覚ました乾が、ベッドの上に起き上がっていた。
「大石とは違った視点で、俺も今のままがいいんじゃないかと思う。ここで部屋割りを変えてごらん。ふたりとも、見物されたと思ったら不愉快がるだろうし、今更河村と裂かれた不二は、殊にヘソを曲げると思うな。自分に責任があると思うんなら、昨夜のことが表沙汰にならないように処理する努力をすべきだよ」
「乾……」
「まあ、最後は手塚が決めることだから、俺があれこれ言うことじゃないけどね。俺だったら、とりあえず204にもう一人移動させて、取り繕うかな」
そう言って、乾はふあぁと大あくびをしながら、洗面所に姿を消す。
大石と乾の2人に反対意見を言われて、手塚はふたたび苦い表情で考え込んだ。大石は大石で、そんな手塚を心配そうに見つめる。
最初は、ただ、気難しい海堂と上手くやれそうな者を…と思っただけだった。人当たりのいい不二と、温和な河村。失敗の原因は、ふたりがバカップルだということを失念していたことだ。
「手塚…」
苦しげな手塚を見ていられなくなって、大石が呼んだ、そのときだった。
「大石、手塚!! どうしよう!」
叫んで、ノックもせずに飛び込んできた菊丸の腕の中に、家に置いてきたはずのフジとタカサンが抱かれていた。
「どうやら、カバンにもぐりこんでたみたいなんだよ…」
次々に起き出してきた部員たちのまとめを乾と不二に任せて、3人は、厨房の裏手にいた。今ごろは、他の者たちは朝練のためのウォーミングアップを玄関前でやっている最中だろう。
厨房から貰ってきたご飯を勢いよく食べるフジとタカサンを見守りながら、菊丸が溜息をつく。
「昨日の朝、起こしちゃったら可哀想だからって、ハウスの中を確認もしないで出てきただろ? もう、あのときにはカバンの中だったみたい。昨日は、こっちのカバンは開けなかったし、最初のうちに騒いで疲れてたのか、俺が部屋にいるときはおとなしくて、気付かなかったんだよ。さっき、カバン開けて、驚いたのなんのって」
「驚いたって……。しかし、こいつら、よく無事だったな……」
「感心してる場合か。そんなことなら、今ごろ、留守中の世話をお願いしてきた菊丸のお姉さんが心配してるだろう! 早く連絡しないと…」
「ああ、そうか! それに、食べ終わったら早く散歩に連れて行ってやらないとな。トイレ以外では排泄しないように躾てたから、体壊すかもしれない…」
「えっ! うわっ、ゴメン! 早く気付いてやればよかった…!」
無心にエサを食べる2匹を取り囲むようにしていた3人は、言葉にして初めて、事の重大性に気付いたようだった。
「菊丸、急いでお姉さんに連絡して来い」
「ほいほいっ」
「なにか、リードの代わりになるものあるかな…。手塚、タカサン、ランニングに連れてっていいだろ?」
「仕方ないだろう、散歩のための時間は作れないからな」
「あーっ! フジ! フジはどうする? フジは散歩じゃないよ!?」
「仕方ない、大石は残ってフジを頼む」
「わかった。とにかく、なんとか必要なものを整えてみるよ」
菊丸は走って建物内に消え、大石と手塚は後片付けをする。いきなり慌しくなった飼主たちを、エサを平らげたフジとタカサンは不思議そうに見上げてきた。
「食べ終わったか? そうしたら、フジは大石と残って留守番だ。タカサンは俺たちと一緒に行くぞ」
その視線に気付いた手塚が、優しく2匹の頭を撫でる。
「それじゃ、大石。リードを頼む」
「わかった。気をつけて行ってこいよ」
甘えっこのフジが擦り寄ってきたのを管理人室に向かう大石に渡し、おっとりと口の周りを舐めているタカサンを抱き上げると、手塚は玄関に向かって歩き出した。
いつまでも続くウォーミングアップに訝しがる部員たちを誤魔化しつつ、手塚が来るのを待っていた不二は、ようやく姿を見せた手塚に声をかけようとして、その腕に抱えられているものに瞳を見張った。
「手塚、どうしたの、それ?」
「……菊丸の犬だ」
「英二の犬? なんで、そんなのがここにいるわけ?」
「簡単に言うと、ついてきてしまったんだ」
「それで、どうするの?」
「どうするもこうするも、仕方ないからな。帰るまで、一緒にいるしかないだろう」
手塚の容認発言に、不二との会話のなりゆきをじっと伺っていた部員たちが、歓声を上げる。ただし、犬嫌いでない者たちに限ってのことだが。
「可愛いっすね」
「セント・バーナードって言うんでしたっけ、この種類」
動かなければぬいぐるみのような外見のタカサンを、何人かが寄ってきて、撫でまわす。タカサンはおとなしく、手塚の腕の中でもみくちゃにされていた。
「……おとなしいっすね、この犬」
「ああ。滅多なことでは吼えもしない。……らしい」
越前に話し掛けられ、うっかり普通に答えてしまった手塚は、急いで誤魔化す。
「名前、なんていうんすか?」
「菊丸に訊け」
桃城の問いをはぐらかし、手塚はしみじみと犬の持つ魅力を実感した。これからの練習が、果たしてまともなものになるのかどうか、怪しいことこの上ない。
「手塚、こいつランニングに連れて行くの?」
扱いを心得ているようにタカサンの頭をかく河村に訊ねられて、手塚はうなずいた。
「今、大石がリードの代わりを探しているはずだ」
「ごめーん、手塚! 姉ちゃんに連絡取れたよ」
建物から走り出てきた菊丸が、手塚に駆け寄って、腕の中のタカサンの前足を握る。
「やっぱり、昨日、すごく心配して探してくれたらしいんだ。俺に電話しようかどうしようか、すごく迷って、一晩だけ様子を見てたとこだったんだって。…まったく、名前に似合わず人騒がせだよな」
優しく耳の裏をかきながら、菊丸が呆れて微笑む。手塚はこめかみを押さえると、溜息をついた。
「それは、名前のモトじゃなくて、飼主に似たせいじゃないのか…?」
「名前、なんていうんすか?」
「タカサン」
海堂に訊かれて、菊丸が即答すると、周囲に爆笑が起きた。
「それって、河村の呼び名から採ったのか?」
「うん、そうだよ。イメージぴったりだろ?」
「ぴったりすぎ……」
呆れて問い返す乾に、菊丸はけろっと答える。越前が耐え切れずにこっそりと笑っているのを、見つけた桃城が更に爆笑していた。
「…なんだ、英二。タカサンの名前、みんなに話したのか」
リード代わりにできそうなロープを持った大石が、肩にフジを乗せて出てくる。げらげらと笑う面々を見て、その場の状況が読めたらしい。苦笑いを浮かべながら、タカサンを抱えた手塚に歩み寄る。
大石の肩に、甘えるように乗っている猫を見つけて、不二が訊ねた。
「大石、その猫は?」
「タカサンと一緒に英二についてきちゃった、英二の猫だよ」
「名前は?」
「フジ」
「…はぁ?」
予想もしなかった答えに、不二が呆気にとられる。すでに桃城は腹を抱えて笑い転げ、乾はノートにペンを走らせ、海堂は必死に笑いをこらえてうずくまっていた。
「それって、モトは僕なわけ?」
「だって、名前付けるときに、いちばんぴったりな気がしたんだもん」
あんまり爆笑されて、菊丸はやや機嫌を損ねたらしい。そんな菊丸の様子が判った大石は、こっそりと手塚に目配せした。うなずいた手塚が、桃城に近寄る。
「いちばん笑ったお前に、特別にタカサンのリードを持たせてやろう。がんばれ」
「は?」
どうしてそういう展開になったのか、さっぱりわからない桃城は首をかしげる。そんな桃城に構わず、大石が手際よくタカサンの首輪にロープを結わえると、その端を桃城に渡した。桃城がそれを受け取ったのを確認して、手塚は抱いていたタカサンを下に降ろす。
「っ! うわぁっ!!」
勢いよく走り出したタカサンに引っ張られて、桃城が悲鳴を上げた。全力疾走するタカサンに無理やり走らされる桃城の背に向かって、大石が叫ぶ。
「タカサン、リードつけると性格変わるから! 転ばないように気をつけろよ!」
ふたたび爆笑しだした部員たちに、手塚が号令をかける。
「それでは、ランニングを始める。コースは桃城が決めるから、桃城が止まるまで走るものと思え。行くぞ!」
桃城が止まるまで。イコール、バーニング状態のタカサンが止まるまで。更に言えば、その桃城は、タカサンに引っ張られて、相当先まで行っている。追いつくには、かなりのペースで走らざるをえない。
朝食前にいつ終わるとも知れないハイペースのランニングをすることになったテニス部員たちは、案の定、合宿所に戻ってきたときにはほとんどが半死人になっていた。
そんなこんなで午前中は慌しかった2日目も、昼食も済んで午後の練習が始まると、どうにか落ち着きを取り戻していた。手塚の得意技『グラウンド10周』は、期間限定で『タカサンの散歩』に変更されたが、それ以外には今のところ取り立てて、フジとタカサンによる影響も出ていない。
フジを膝に乗せ、コートが見渡せる木陰のベンチで、手塚がクリップボードに挟んだ用紙になにやら真剣に書き込んでいると、すっと人影が差した。
「部長」
生意気なボーイソプラノは、越前のものだ。顔を上げると、逆光で表情はよく見えないが、ラケットを持った越前が目の前に立っていた。
「なんだ?」
「相手、してほしいんすけど」
「……見て判らんか。取り込み中だ」
「判るっすよ。急ぎじゃないでしょ、それ」
「越前」
「だって、仕方ないじゃないっすか。3年の先輩たちは他の1年の相手してるし、桃先輩ノリノリで暴走してるし、海堂先輩相変わらず愛想なくて近寄れないし」
越前の言葉を裏付けるように、背後から桃城の熱血シャウトが聞こえてくる。それに呻き声が重なっているのは、乾汁の新たな犠牲者が出たということらしい。手塚は小さく溜息をつくと、フジを抱き上げて立ち上がった。
「タカサンはどこにいる? フジを頼んでこないとな……」
「…なにそれ」
「フジは、すごく甘えたがりでな…、独りにしておくと、不安がっていつまでも鳴く………んだそうだ」
「へぇ? よく知ってるんすね」
「………別に。大石ほどじゃない」
ついしゃべりすぎて、越前がつっこんできた。手塚は大石を引き合いに出してかわし、コートの隅でひなたぼっこをしているタカサンに向かって歩き出した。
「猫と犬って、仲良くなれんの?」
「どちらかだけでも子供の頃から、上手く飼主が取り持ってやれば、可能だと聞いた」
「ふぅん…」
「こいつらは、生後1ヶ月で貰われてきているから、余計なんだろう」
「やっぱ、よく知ってるんじゃないすか」
「……全部、聞いた話だ」
気持ちよさそうに伏せているタカサンの傍にフジを下ろすと、フジは甘えるように鳴いてタカサンに擦り寄り、丸くなった。
「………。本人たち並みに、らぶらぶっすね」
その光景をつぶさに見ていた越前は、感心したようにつぶやく。手塚は気まずげに視線をそらして、越前のつぶやきを黙殺した。まさか、だから名前を貰ったんだとは、言えない。
「じゃ、猫も心配なくなったし、相手してください」
嬉々として手塚を見上げる越前に、手塚はうなずくと自分のラケットを取った。なんとなく、この1年生に強く出られなくて、手塚はその日、ずっとそんな自分に首をひねることになった。