大石君の夏期合宿

「ごめんなさい、ちょっといいかしら?」

 そこへ、張りつめた空気を知ってか知らずか、清城が顔を覗かせた。睨みあう大石と越前に、清城は「あら…」と、一瞬迷う素振りを見せるが、その手にある封筒を見て、大石の方が歩み寄っていく。

「すみません、先生。どうでしたか?」

「大丈夫よ。ちょっと気をつけるのなら、自宅療養で済むわ」

「そうですか…。よかった」

 ふたりだけで万事を了解して話す様子は、確かに、事情を知らないものに勘繰られても仕方のない雰囲気を漂わせている。そんなふたりに、不安げに表情を曇らせる菊丸と、不愉快そうに睨みつける越前と桃城。不二も「これで信じろって言われてもね…」とばかりにため息をつく。

 不穏な空気を感じて室内を振り返った大石は、不安や不信の色を浮かべる仲間たちを目にして、瞬時に、自分の置かれた状況を悟る。大石の視線を辿った清城にも、それははっきりと伝わってきた。

「ちが…っ、違うんだ、みんな! 先生とは、そんなんじゃないんだ!」

 慌ててぶんぶんと大きく腕を振り回して否定する大石の横で、清城もくすくすと笑いながら、手にしていた封筒を菊丸に差し出した。

「ええ、そのとおりよ。わたくしと大石君は、なにもないわ。これを見たら、きっと誤解は解けると思うけど」

 封筒を開けた菊丸が最初に目にした文字は、『検査結果』。急いで読めば、それは大石の胃の検査の結果報告書だった。

「なんだよ、これ!?」

「今日の検査結果よ。本当は、もっと時間をかけないといけないのだけれど……」

「こんなの、もったいぶって隠すようなことじゃないじゃないか!!」

 『異常と認めるほどの兆候は見られない』と書かれている結果報告書を不二に叩きつけるようにして渡すと、菊丸は大石に食って掛かる。こんなことのために、自分はこんなにも不安な1日をすごしたのか。そう思うと、怒りで脳が沸騰しそうだ。

「だって、言ったら、英二は絶対心配しただろ!?」

「言ってもらえない方が心配だよ!! なんだよ! こんなオチ、納得できるかーっ!!」

「まあまあ、そんなわけだから、心配することないわ、猫丸君」

「「「『猫丸』って、誰?」」」

 安心させるように微笑む清城に、全員の視線が突き刺さる。応えて清城が指差した先には、菊丸の姿が……

「俺は菊丸」

「あら、残念。惜しかったわ」

 ……………そういう問題か…?

「……うらら先生、人の名前覚えるの、下手だから……」

 昨日から散々間違えられてきた大石が、実感たっぷりに取り成した。

 清城の笑顔と、次々に明かされた疑惑のあまりと言えばあまりな真相。居合わせたすべての人物が、緊張感も刺々しさも、なにもかもが泡と消えていくのを感じた。




「ちくしょう。絶対負けるもんか」

 部屋に戻る道すがら、桃城の横で越前はぶつぶつとつぶやく。「負けるもんか」もなにも、すでに彼の負けは決定しているのだが、決定した経緯からして受け入れられない越前にしてみれば、まだ勝敗は決していないのだ。

 清城が嵐のように爆弾発言を連発して帰っていくと、毒気を抜かれた不二と不安が解消された菊丸が「腹減った!!」と叫んで食堂に飛んで行き、それを合図に解散となってしまったのである。

 もちろん、闘志満々の越前は不完全燃焼。越前に負けさえしなければ勝利の大石や、もともと他人事の乾たちがいそいそと夕食を取る横で、気持ちのやり場を取り上げられた越前は大荒れに荒れていたのだった。

 有耶無耶のうちに大石に軍配が上がったのが、納得できなくて仕方がない越前は、どすどすと廊下を歩きながら、自室に引き上げていくところなのである。

「あ…、大石副部長」

 気まずげな桃城の言葉に顔を上げると、ちょうど、大石と菊丸が手塚のために夕食を運んでいるところだった。

「ああ、桃。越前。部屋に戻るのか」

 先ほどまでの対立ぶりもどこへやら、実にさわやかに大石が応える。越前はその笑顔がただただ癪に障って仕方がなかったが、人の感情に敏い桃城は、その微笑の裏に手塚に拒まれることへの恐怖が隠されているのに気付いてしまった。

 なにも知らないままだったなら、素直に大石副部長を憎めたのに……

 でも、気付いてしまった今となっては、もう遅い。ぎらぎらと大石を睨みつける越前を引きずるようにして、桃城は部屋に入った。

 越前の敗北は、本人が認めたがらないだけで、「誰が見ても明らか」どころか「揺るぎない」ものなのは決定だった。



 消灯の時間もとっくにすぎて、クーラーなしでは体温で温まった毛布が気持ち悪くなりそうなくらいの時間が経って。

 エアコンをつけ放しにして河村とくっついていた不二は、寝返りを打って河村の顔を覗きこむと、ずっと気になっていたことを口にした。

「ねぇ、タカ…。大石たち、上手くいったかな? 大丈夫だと思う?」

 その、いつになく心細げな口調に、河村は不二の髪を撫でる手を止めて、その瞳を覗き込む。

「ずいぶん、気にしてるんだね。俺はもっと、不二はなんの心配もしていないと思っていたよ」

 その意外そうな、けれど嬉しそうな声に、不二はヒジをついて上半身を起こすと、拗ねたように河村を睨んだ。

「なにそれ。なんだか、僕が、ものすごい自己中心的に聞こえない、それ?」

「ははっ、ごめんごめん。そういうつもりじゃなかったんだ。そうじゃなくて、俺は、不二はもっと、菊丸や大石や手塚のこと、信用してると思ってたからさ。今になってもまだ心配してるなんて、思ってなかったんだ」

「……タカの意地悪。僕が英二たち心配しちゃ、いけない?」

「まさか。そんなこと思ってないよ。むしろ俺は、不二が自分に直接関係するわけじゃないことを自分のことみたいに心配してるのは、いいことだと思うよ」

「それ、やっぱり、僕がすごい自己中心的な人間だって言ってるみたいに聞こえる」

 ぷぅっとふくれてそっぽを向く不二を、河村は笑いながら優しく抱き寄せた。

「そうじゃないさ。そんな優しい不二が、俺は大好きだな…ってことだよ」

 ふくれた頬は河村の大きな手に潰されて、無骨だけれど優しい指に髪を梳られて、不二が甘えるように目を閉じると、河村は心からの愛しむキスをくれた。



「…それにしても、意外だったっす」

 ぼそりと紡がれた言葉は、脈絡もなく発せられたのにもかかわらず、しっかりと乾の耳に届いた。

「なにがだ、海堂?」

 聞き返す乾に、海堂はひたと乾を見据えて答えた。

「手塚部長のことっすよ。先輩、部長のことが好きなんじゃなかったんすか?」

「………どうして、そう思った?」

「どうして、って……」

 聞き返された海堂は、一瞬口篭もった。乾を見ているうちに定着してしまった認識の理由を、新たに説明するとなると、なかなか骨が折れる。

「つまり、それだけ海堂は俺を気にしていた、ということだよな?」

 心なしか機嫌のよさそうな乾に、海堂はふいと顔を背けた。なんだか、術中にはめられたようで面白くない。

 そんな海堂の本心を読み取ったかのように、乾は上機嫌の笑顔を浮かべた。(海堂にとっては、不気味この上ない表情である)

「それだけおまえの気を引けたなら、俺の作戦は成功だ」

「なに言ってんすか…」

 乾の不気味さに一歩引いた海堂を、乾は一歩踏み出して追い詰める。

「まだ解らないのか。全部俺が仕組んできたことだってことが……」

 部内随一の高速サーブを打つ腕に手首を掴まれた海堂は、まさしく「ヘビに睨まれたカエル」状態だった。いや、普段なら「ヘビ」は海堂のはずだが。

「待…っ、先輩! はなっ、話せば解るから!!」

 海堂の焦った声が、空しく響いた。



 そして、一部にとっては甘く、一部にとっては悪夢のような一晩が過ぎていく。




6日目夜



 部屋に入ると、手塚はベッドの上に上体を起こして、窓を眺めていた。夜の闇に塗り潰されたそこに、景色など窺うべくもなかったが、そんなことはどうでもよいらしかった。

 今や、手塚の瞳にはすっかり意思が戻り、なにか思い定めた表情で一点を見据えている。昼間の虚ろな表情を知っているふたりには、それは喜ぶべきことであり、同時に、不安にもなることだった。落ち込んでいたときの手塚がなにを考えていたか、そして一度決めたことは滅多なことでは翻さない彼の性格を、よく判っているから。

 それでも、あの状態のままでいるより、どんなにかいいだろう?

「よかった、手塚! 元気になったんだなっ」

 ドアを入ってすぐの場所に大石を放り出して、がばっと勢いよく菊丸が抱きつく。

 突然寝ていた場所を揺らされて、手塚のベッドの片隅に陣取っていたフジが、驚いて飛び出していく。床の上で寝ているタカサンの隣まで逃げていくと、その懐に入り込んで身の安全を確保してから、恨めしそうに菊丸を見上げた。

 不意打ちで全力タックルされたも同然の手塚は、身構えることもできずに「うわっ」と叫んでもろともに倒れこむ。その弾みに、ヘッドボードにごぃん! と頭をぶつけた。

「~~~~~!!」

「あっ、ごっ、ごめ…っ、だいじょぶ手塚!? 痛かった?」

 菊丸を腹の上に乗せたまま、頭を抱えて悶絶する手塚を、菊丸が心配そうに身を乗り出して上から覗き込む。

「~~~~~………っぅ……。……………次やったら怒るからな…………」

「うにゃぁぁぁぁぁぁ」

 涙をにじませながら上目遣いに睨むと、菊丸は情けなく眉尻を垂れてこくこくと頷いた。その様子があんまり可愛くて仲良くて、大石は先程までの緊張した気持ちもどこへやら、つい吹き出してしまう。

 その小さな声を聞きつけて、憮然とした面持ちだった手塚がふと表情を改めて顔を向けた。そこには、気まずそうな大石が笑いをかみ殺しながら立っていた。

「……………大石………」

「ただいま、手塚」

 なんて言ったらいいか判らなくて、大石はとりあえず言わなくてはいけない挨拶を口にした。手塚がいつものように「おかえり」と言ってくれることを疑いもしないで。けれど、手塚はふいっと視線をそらすと、突き放すような素気ない声でこう答えた。

「………帰れ。ここはおまえの部屋じゃない」

「手塚…」

 手塚の無感情な声に、菊丸がそっと離れた。二人の会話の邪魔にならないように手塚のベッドから降りて床にしゃがみ、けれど存在を主張するように手塚の手を握る。励ますとか、安心させるとか、そんなためというよりは、自分や大石が手塚にとってどんな存在なのかを忘れさせないために。手塚が、一時的な感情で、その先を失ってしまわないように。

 そんな菊丸の気持ちを知ってか知らずか、手塚はその手を握り返すこともなく言葉を続ける。

「おまえは、本当に傍にいたいと思う者の処に行けばいい。俺に遠慮することはないし、俺がおまえの傍にいてはいけないことは自分で判っている。気遣いはいらない」

「そんなんじゃない、俺はここにいたくて来たんだ。誤解させたのは、悪かったよ。謝るし、説明するから、聞いてくれないか」

 落ち込んだ人間のマイナス的思い込みというのは、強固なものと相場が決まっている。それが、平素から意志の強さに定評のある手塚とくれば、なおさらだ。手塚のベッドの横にある椅子に腰を下ろして、大石は努めて冷静に、丁寧に話をしようと自分に言い聞かせる。

 大石の落ち着いた口調と態度のおかげで、手塚もむきにならずにすむ。それでも、素直に話を聞く態度も取れなくて、無言のまま顔を横に俯けて、大石のしゃべるに任せた。

「部屋替えのこと、感情的になってすまなかった。タカさんに諭されたよ。ちゃんと伝えてないのに、理解がないって怒ったって、ただの我侭だって。確かにそうだと思ったよ。だから、ずっと、謝ろうと思ってた。タイミングが掴めなくて、言えないまま今日になっちゃったけど。我侭言ってごめん、手塚」

「………………」

「それから…」

「どうしてそんなに優しいんだ、大石……」

 続けて清城とのことも説明しようとした大石の言葉を、手塚のつぶやきが遮った。心底解らないといった表情で、呆然と大石を見つめて。

 確かに、河村の言うことにも一理あるだろう。けれど、相手の気持ちを考えることができないなど、それでは幼稚園の子供と同じだ。まして、相手である大石は、いつも、先回りしすぎなくらいに手塚の表情を読み、状況を読み、望むものを「欲しい」と言う前に用意して待っていてくれるような人であるというのに。与えられることが当たり前すぎて、相手に与えることに思い至りもしなかったなんて。それは………それは、あまりにも。

「俺は…、おまえがよく『無防備すぎる』と言う意味を、少しも理解していなかったのに。おまえがいつも、どれだけ俺たちのことを思っていたか、どんな気持ちでいたのかも知らなくて、知らなければならないことがあることにさえ気付かないでいたのに。それを、おまえへの……裏切りとさえ言える行為で、ようやく気付いたくらいなのに。どうして、そんなに優しくしてくれるんだ…?」


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