大石君の夏期合宿

5日目夜



 消灯の時間をすぎて、ほとんどの部員が寝静まったことを確認した不二は、自室に戻ると壁際の1年生に鋭い目を向けた。パジャマ姿の越前は、河村と菊丸に見張られて、部屋の隅の椅子に座っている。

 午後の練習が終わってすぐ、越前は菊丸にべったりと張り付かれた。手塚のところへ行こうとすると、さりげなく…だがばっちりと阻止される。それが自分を見張ってのことだったのだと気付いたのは、部屋割り発表後、河村も一緒に行動するようになってからだった。

 消灯時間が近づくと、越前はふたりに有無を言わさず203に連れ込まれた。すでに話をしてあったのか、越前と同室の桃城はなにも言わなかった。

「で。聞かせてもらおうか、越前。君は、手塚になにをしたんだ?」

「なにって…、『これまでに』ってことなら、いろいろしましたけど」

「なんだって!? おチビ、そんなにいろいろ手塚にしてたの?」

「英二、座って」

 思ってもみなかった越前の言葉に、手塚に対してはややもすると大石以上に過保護になる菊丸が思わず立ち上がる。それを、横から不二がぴしゃりとたしなめた。ぐぅ…とうめいて座った菊丸を、越前は不敵な眼差しで見返す。そんな越前の前に、不二は腕を組んで立ちはだかった。

「じゃあ、最初から教えてもらうよ。手塚に、なにをしたの?」

 鋭く射抜くような見下ろす目と、静かな、けれど逆らうことを一切許さない声音。それは、静かだからこそ、不二特有の凪いだ海のような迫力を帯びる。

「越前。全部言うんだ。どんなことも、余さずね。事と次第によっては、ただで済ませてはあげられないけど」

 その不二を守るように斜め後ろに立つ河村の表情も、硬く張りつめている。

「……なんで、先輩たちに言わなきゃいけないんすか? そんなの、俺と部長の問題でしょ?」

 わずかな照れと、そして猛烈な反抗心に突き動かされて、越前はそう楯突いた。わざともったいぶってみたら、菊丸に予想以上の反応をされて、ちょっと驚いているということもある。

 確かに、手塚はとても魅力的な存在だと思う。なにしろ、テニス以外の観点で他人に興味を持つことのなかった自分が、初めて自分だけのものにしたいと思ったくらいなのだから。だが、こんな風に、まるで王女に対する騎士のような態度で守られているというのは、どう考えても普通ではない。

 すると、座っていた菊丸が立ち上がり、越前は仁王立ちの3人に取り囲まれた。

「あのね、越前」

「解ってないようだから言うけど」

「「「手塚に手出しする奴は、俺たちを踏み越えていかなきゃいけないようになってるんだよ」」」

「手塚が大石のものになったときからね」

「な…っ!?」

 手塚に言葉どおり〝騎士〟がついていたことも驚きだが、最後に菊丸が付け加えた一言は聞き捨てならないことだった。驚愕に目を見張る越前に、不二と菊丸が指を突きつけて言い渡す。

「そういうわけで、手塚になにかしようとしたら、俺たちが黙ってないんだからな!」

「他言無用、だからね。その辺で言触らしたりしたら、承知しないよ!」

 容赦のないふたりに追い詰められた越前に、河村が言った。

「じゃ、洗い浚い全部、教えてもらおうか」

 越前の告白と、それに対する菊丸と不二の大ブーイングが収まったのは、時計の針が合わさり、また離れてだいぶ経った頃だった。




6日目



 深夜まで続いた話し合いのおかげで、翌朝はレギュラーのほとんど半分が今にもその場で眠り込みそうな有様だった。不二、菊丸、河村、越前。睡眠不足で前日の疲労を解消できていないために、食欲も振るわない。主力選手がこんな様子では、自然、練習そのものに覇気がなくなる。

 普段ならば、カリスマ鬼部長・手塚がこんな状態を許しはしないのだが、その鬼部長は現在、自室のベッドで睡眠中である。臨時部長の不二は、寝不足による情緒不安定で、河村を傍から離そうとしない。様相はもはや自主練習状態だった。

 遊んで、かまって。と、タカサンが菊丸の足に擦り寄るが、菊丸もそれどころではない。一度にいろいろなことが起こりすぎて、涙腺が一触即発状態だ。だが、一般部員もいるここで泣くわけにはいかない。

 歪んだ緊張感に満ちたコートは、その状況を打開できる唯一の人物の不在によって、放置されているのだった。




 事態が急変したのは、夕食前のこと。清城の運転するアルシオーネに乗った大石が、合宿所に戻ってきてからのことである。

「ただいま。急に抜けて、悪かったな。俺のいない間、なにもなかったか?」

 玄関で車を降りた大石は、そこに待ち構えていた菊丸と不二に、なにも知らずに話し掛けた。その表情は、心配事を解消したすっきりしたものだ。

 が、出迎えた二人の方は、すっきりしてもいなければ笑顔でもなかった。殊に、不二の半眼はものすごく怖い。

「大石、どこ行ってたの? 君、手塚がどんなことになってたかも知らないで、よくここを離れられたね」

「俺にも誰にも行き先言わないで、それはちょっとあんまりなんじゃない? 事情もなくそんなことする奴じゃないって、解ってるけど、でもタイミングは最悪なんだぞ」

「ふ…不二? 英二も…どうしたって言うんだ?」

 二人の気迫に押されて、大石がたじろぐ。滅多なことでは人を詰らない二人が自分を責めていることに、嫌な予感を感じないではなかったが、それとは別問題として純粋に怖い。特に不二。

 と、大石はいきなり胸倉を掴まれた。ぐいっ! とあまりに強く引かれて、一瞬よろめいたが、相手が菊丸と見て取ると、倒れこむわけにはいかないと足を踏ん張って止まる。

「手塚がおチビにキスされた。手塚はショック受けて、昨日の昼から何も食べてない。もちろん乾が一緒の部屋なのをものすごく嫌がったし、乾と部屋代わった俺でさえ中に入れてもらうのに一苦労だった」

「なんだって…!?」

 大石の驚いた瞳が、菊丸の怒りの眼差しとぶつかる。大きな瞳は、涙を堪えて怒っていた。こんな瞳をした菊丸を、大石はもうずっと見ていない。

「大石が! うらら先生とでかけたりするから! だから手塚は、もう大石に会っちゃいけないと思ってる。手塚だけが悪いんじゃないのに、自分がいけなかったからこんなことになったんだって、帰ったら家出てくって言ってる!! 俺、やだよ!! 手塚がいない家なんて、もう考えられないよ! なんで大石は手塚を放って行けたの、手塚のこともう好きじゃないの!?」

「そんなわけない!! 手塚が大事だ、今も変わったりなんてするもんか!」

 菊丸の言葉に、大石は反射的に答えた。誰にも譲れない真実。そのためもあって、昨日、留守にする理由を誰にも言わずに出たのだ。

「じゃあ、早くそう言ってあげなよ。手塚は部屋にいるから。君の傍にいられなくなったって、魂が抜けたみたいな顔してるから。言っとくけど、僕はあんな手塚、痛々しくて見たくない」

「不二…」

「君とケンカした。仲直りできないうちに、越前にキスされた。そして君はうらら先生といい雰囲気で話して、どこかにでかけた。しかも、ほぼ丸一日。…あの真面目すぎて視野の狭い姫君が、君の傍にいる資格を失った上に君の愛まで失ったと思い込んだって、無理はないと僕でも思うよ。だけど、僕はあんな手塚を見たいわけじゃない。君のしたことの結果を、見てきたらいい」

 不二の厳しい言葉と、それほどに痛ましい姿になったという手塚が気になって、大石は走り出した。

 階段を上って、廊下の一番奥。201のドアを、大石はぶち破る勢いで開ける。窓際のベッドの上、毛布に包まっていた手塚が、その音に驚いて警戒するように顔を向けた。

 瞬時に、大石は不二の言っていた意味を知る。泣きはらして真っ赤に腫れた顔。前髪も睫毛も、涙でべとべとになっている。そして、警戒しているのが伝わってくるとはいえ、それでも何の感情も浮かんでいない瞳。あれほど鮮烈だった存在感はすっかりと形を潜め、覇気をなくした抜け殻のような姿で手塚はいた。

「………………おおいし…?」

 ぽつりとつぶやかれた声は小さく、泣き疲れてかすれている。紡がれたのは言葉になっていない音の連なり。

「手塚…」

 足早にその傍らに寄ると、大石は乱暴なくらいに強く手塚を抱きしめた。腫れた両のまぶたに、そして唇にそっとキスを落とす。

 いつもなら、くすぐったそうにそのキスを喜んでくれる手塚。だが、今はなんの反応も示してくれない。心が疲れ果てて、周囲の変化を認識するのに時間がかかっているのだ。

 いつもならありえない手塚の様子が、まさしくあまりにも痛々しくて、大石はぐっと拳を握り締める。手塚の様子に気付かず、傍を離れてしまった自分に、猛烈な怒りが湧いてくる。そしてもちろん、手塚がここまでになってしまうようなことをしたという後輩にも。

 離れがたくも手塚を抱く腕を解くと、大石はくるりと踵を返し、201を後にした。



「越前!」

 部員たちが夕食前の自由時間をすごすホール。河村たちとしゃべる桃城の横で、つまらなさそうに座っていた越前は、突然大声で名前を呼ばれて、声のした方を振り向いた。

 怒り狂った大石が、どかどかと入ってきたところだった。

「大石っ!」

「大石、待って!」

 後ろから不二と菊丸が大石に追いすがるのを振りきり、振り払い、大石は越前の前に立つと、荒々しくその胸倉をつかんで引き上げるように立たせた。

「大石、ダメだ!」

「なにするんっすか、大石先輩!」

 大きく拳を振り上げた大石を、追いついた菊丸がその腕にしがみつき、越前の隣にいた桃城が割って入って、止める。

「離せ、英二!」

「離したら大石はおチビを殴るだろ? 聞けないよ!」

「大石先輩! なにがあったか知らないけど、いきなり殴るのはなしっすよ!」

「うるさい、桃。越前は殴られて当然のことをした!」

「大石、落ち着け! 越前を殴ったって、時間が逆行するわけじゃない」

「乾まで俺を止めるのか!?」

「俺たちはおまえの味方だよ、大石。だけど、ここじゃダメだ。後輩がみんな見てるんだぞ」

 河村の強い語調に諭されて、大石ははっとして腕の力を緩めた。確かに、ホールにいる1・2年生たちの視線は今、ここに集中している。

 足が床に届くか届かないかの状態で吊られていた越前が、自分の足で床に立ち、けほけほと咳をしながら軽く絞まっていた首を擦る。その声に、越前の方へ視線を向けると、大石は深く息を吐いた。

「…すまない。逆上してた」

「うん。まずはゆっくり話をしよう。大石は、手塚とも話をしないといけないしね。僕らも、聞きたいことはたくさんある」

 そう言って、不二は1階にある会議室に集まるようにと指示をした。

「レギュラーだけで話をしよう。大石、もう君のプライベートな事情は隠せないと思ってね。ここまできたら、誰もが納得する説明をしないと、収まらないよ」

 夕食の時間が迫っていたが、後のことを荒井に任せると、手塚を除くレギュラー陣は1階の会議室へ移動を始めた。



「その説明、なんか、納得いかないんだけど。大石先輩、菊丸先輩とつきあってるんじゃなかったんすか?」

 場所を会議室に移して、大石と手塚は越前が入学する前からつきあっているのだと聞かされた越前の眼差しは、いつもの生意気な印象を通り越して、敵意を持っているようにしか見えないほど強かった。

 関係を隠されていたのも気に入らないが、説明を受けた今でも信じられないくらいにそうは見えなかった常日頃のふたりの様子はもっと気に入らない。菊丸との仲のよさが、まるで、つきあっているのを隠すための隠蓑のように聞こえる。

 それは桃城も同じだったようで、越前とは違って菊丸と大石が普通以上に親密なのを知っているだけに、桃城としては大石への不信感と不快感を隠しきれないようだ。大石を睨みつける眼は、むしろ今のほうがずっと鋭い。

「理解してはもらえないかもしれないけれど、確かに俺は英二のことも大切に思ってる。ただ、英二と手塚は同じじゃない。英二は英二で、手塚は手塚だ。どちらが欠けても、俺は俺らしくいられない」

「…! そんなの!!」

「詭弁だと思うか? でも、偽りのない俺の本心だ。…そんなことより、今は、俺の大切な手塚を傷つけた越前を俺は許せないよ、っていう話だったと思うけど?」

「その弁論術は、誰に教わったんすか? 大石先輩が俺を許すかどうかは問題じゃない。俺が部長を俺のものにできない理由に、俺が納得できないっていう、そういう話だったはずだ」

 傷付いた手塚の様子を知っている大石は、どんなわずかな同情もしない容赦のなさで越前を見据える。対する越前は、己のもっとも崇高とする存在を手中に収めるために、一歩たりとも退かない構えだった。

「越前が納得できるかどうかは、何の問題にもならないよ。まだ解らないのか?」

「その自信、ただの思い上がりとどう違うんっすか?」

 守る大石と、攻める越前。越前の気迫は確かに凄絶で、文字通り火花を散らすことができたなら、大石を焼き尽くすことも不可能ではなかっただろう。だが、誰の目にも、越前の負けは明らかだった。

 なぜなら、手塚の気持ちを考えているのは大石の方だったから。

 大石の言い方も、自分本位の言い方だ。その点では、越前に劣らない。けれど、大石の発言の裏には、手塚に愛されているという自負があった。それは、間違いでも自惚れでもない、事実に基づいた正しい認識だ。越前はまだ気付いていない、手に入らない月に泣く子供と同じ越前では太刀打ちできない、それは絶対的な違いだった。


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