大石君の夏期合宿

「手塚?」

 てっきり、身勝手に手塚を傷つけてしまったことや、清城とのことを言われるとばかり思っていた大石は、予想もしていなかった手塚の言葉に、戸惑いを隠せない。これではまるで、手塚のほうにこそ非があったようではないか?

「おまえがうらら先生と親しげにしているのを見て。越前が俺に……キスをして。初めて解った。俺が、どうして今まで、こんなに平和におまえの隣にいられたのか。どうして、なんの心配もなくおまえに愛されていられたのか。おまえはいつだって、俺たちとそれ以外の人間の境界線を、きちんと引いて守っていたんだ。俺たちがどれだけ特別なのか、他の人間との関わり方で示していてくれたんだ。なのに……俺は。それに気付きもしないで、俺が解っていればそれでいいと、自分だけ納得して。それがおまえに、どんな気持ちをさせるのかさえ、解らないで。そんな俺に、どうしてそんなに優しくしてくれるんだ……」

 大石が自分を責めないことが、そしてその理由が解らないことが、苦しくて仕方ない。報いたいのに、報い方が判らないことがもどかしい。だけど、手塚は泣かなかった。それは、涙が涸れたからとかそんなことではない。この問いかけが、苦しみから解放されたくてのことではなく、大石のことを理解したいがためのことだからだ。

 相手を理解しようと努力する過程のどこに、泣かなければならない…いや、泣いてもいいことがあるのだろう?

 そう信じるゆえにまっすぐに大石を見つめる真摯な手塚に、大石はそっと手を伸ばして触れた。

「そんなの…俺は優しくなんてないよ。俺はおまえを大切に想ってる。大切だから、自分にできるすべてで守りたいと思う。ただそれだけだよ。おまえがどう思っているかなんて、気にしていられる余裕なんかない。俺が、俺の気の済む方法で、おまえを大事にしてるつもりなだけなんだ」

「そんなことは……」

「それをお前が喜んでくれるから、優しいって評価になる。ただそれだけのことなんだよ。…でももし……まだなにか要素があると言うんなら……俺は、手塚が俺のことをなによりも大切にしてくれているのを知ってる。その気持ちの表現方法がどうかっていうのは、ここでは別の問題でね。俺が手塚の俺に対する気持ちを知っているってことが、ポイントなんだと思うよ。知っていることが、自信になる。自信があるから、揺るがないし、変わらない。偽りや理屈に負けない。コートに立ってるときのお前と同じだ。そういうことなんだと、俺は思うよ」

「大石…」

「だけど」

 大石の大きさに気が緩み、肩から力の抜けかけた手塚に、大石は困ったように眉根を寄せる。

「俺も、まだまだ全然だから……、できれば、俺以外の奴に隙を見せたりしないでほしいな。もし同じことがもう一回起きたら、今度こそ俺は越前を殴らずにはいられない」

「…!」

 思いもよらない言葉にはっとして隣の菊丸を見ると、菊丸はこくりとうなずいた。

「夕方、大石が戻ってきたときに、全部話した。そしたら大石は、すごい顔してホールに向かってったよ。俺と不二と、みんなで止めなかったら、間違いなくおチビは殴られてた。手加減なしでね。現に、大石に追いついたとき、胸倉つかんで引き上げてるとこだったんだから」

「実際には、殴ってないけどね。レギュラー総掛かりで止められたら、さすがに振り切れないよ」

 話の中の大石らしからぬ行動にうろたえて、もう一度目を大石に戻すと、大石は苦笑いして肩をすくめる。たまらなくなって、手塚は空いている手で大石の袖をきつく掴み、うつむいた。

「馬鹿」

「お前のためなら、いくらでも馬鹿になるよ」

 優しい微笑を顔中ににじませる大石に、手塚はうっすらと頬を染めると、視線だけ大石に向けて睨む。

「………………それを嬉しいと思ってしまう自分が悔しい」

「これから一生悔しがらせてみせるよ」

 唐突に、優しい中に余裕を漂わせる大石に、手塚は返す言葉を見つけられなくなって歯噛みした。

 と、横からがばっと菊丸が飛びついてくる。

「うわっ!」

 不意を衝かれた手塚は、今度は横向きに倒れ、サイドテーブルにごん! と頭をぶつけた。その衝撃で眼鏡がずれる。せめてもの救いは、下になった足は無傷な方だったということか。

 2度もの頭への衝撃にくらくらしている手塚の上から、菊丸はひたむきな笑顔でその顔を覗き込んだ。

「俺も、これからもずっと、手塚と一緒にいるよ。手塚と一緒に、手塚とじゃなきゃ味わえないことを味わうよ」

 そのセリフは、とても優しくてとても嬉しい言葉だったのだけれど、短時間に2度も押し倒された手塚は、巨大な猫に懐かれているような戸惑いばかりが先に立ってしまって、何の言葉も返すことができなかったのだった。




7日目



「あらあらまあまあ、皆すごいことになっているわねぇ」

 食堂にやってきた清城は、入るなり呆れたように眼を丸くした。レギュラー陣に対して遠慮がちになってしまう一般部員はもちろん比較的おとなしいのだが、それより何より、そのレギュラー部員たちの様子がただ事ではないのだ。

 手塚が大石と菊丸に肩を借りて、2日ぶりに部屋から出てきたのはよい。それはよいのだが……

 やけに上機嫌なのは、不二と乾と菊丸。周囲の空気がピンクに染まっているような錯覚さえ覚えてしまうほど、にこやかだ。乾だけは、そんな様子がたまらなく不気味だが、本人がそれを知らないのはある意味幸せだ。対照的にズンドコに不機嫌なのが、越前。そして、この世の終わりのような悲愴感を漂わせて沈んでいるのが海堂と桃城。ただし、海堂のほうは、そんな自分が表に出てしまわないよう、それなりに努力している。その努力がほとんど何の効力も発揮していないことは、知らないほうが本人のためだろう。そしてぐったりと疲れている河村と、行儀が悪くなってしまわないように必死に気を使いながらもりもりと食事を平らげている手塚。手塚の向いには、そんな手塚の様子を嬉しそうに眺める大石。それぞれがそれぞれな事情は、推して知るべし。それが一堂に会しているこれを異様と呼ばずして、なんと呼ぼう?

「あ、おはようございます、うらら先生」

「おはようございます」

「……はよっす…」

 にっこりと全開の微笑を浮かべて挨拶する大石の声を皮切りに、レギュラー陣が口々に挨拶する。それを受けてから、清城はようやく「おはよう」と口にした。

「あの…、なにか、悪いことでもあったの? 嫌いなものが朝ごはんに出た? 特に、その辺の……越中君?」

「「「「こいつは越前です」」」」

「褌じゃないんですから……」

「こいつのことはほっといてください、うらら先生。下手に構うと、ろくでもねぇ目に遭いますよ」

「…そうなの?」

 きれいにハモって清城にツッこむ3年生(疲労困憊の河村を除く)と、体験談に基づく忠告をする桃城に、清城はのほほんと首をかしげた。

「それはそうと、今朝はまたずいぶん早くいらっしゃいましたね。何かありましたか?」

 大石が手近な椅子を勧めながら訊ねると、清城は「そうそう」とうなずいて、ハンドバッグから封筒を2通取り出した。

「今日が合宿の最終日だと聞いていたから、これを渡しておこうと思って。何時に出発か聞いていなかったから、とりあえず、早めに来てみたの。…どうぞ、持って行って」

 差し出した相手は、大石と手塚。訝しみながら中を見ると、それぞれに診断書と紹介状が入っていた。通常なら、どちらも有料で書いてもらうものだ。

「ウチの病院やわたくしの家に来てくれてもいいのだけど、もし通うのが不便だったり掛かりつけの医師がいるのなら、あった方がいいだろうと思って。それと、中にわたくしのプライベート用の電話番号も入れておいたから、必要ならいつでも電話してちょうだい」

 にこにこと告げる清城に、大石と手塚はただ深々と頭を下げるしかできない。

「それじゃあ、わたくしはこれで。ゆっくりご挨拶できなくてごめんなさいね。どうしても外せない仕事が入って、急いで東京に戻らなくてはいけないの」

 二人が封筒を受け取ったのを見届けて、清城は慌しく席を立つ。これから東京まで、愛車のアルシオーネをかっ飛ばすのだろう。

「ありがとうございました、うらら先生」

「お世話になりました」

 続くように席を立つ大石を手で制し、重ねて礼をする手塚に首を振ると、清城は最後の爆弾発言を投下して行った。

「気にしないで。息子が増えたみたいで、わたくしも楽しかったわ」

 ……息子!?

 想像だにしなかった単語が飛び出したことに凍りついた一同に、「それじゃ、もしあなたたちさえよろしければ、またね」と手を振って、清城が去っていく。

 ………息子!!?

「「あの人は、いったいいくつなんだ!!??」」

 菊丸と桃城の叫び声が、静まり返った食堂に木霊した。




 迎えのバスは、昼過ぎに来る。それまでの最後の練習の最中、越前はベンチで練習を監督している手塚の許に近づいた。

「部長」

 声をかけると、手塚の肩がびくりと動いた。振り向いた表情は、慣れた者ならすぐに判るくらいに強張っている。

「…そんなに警戒しないでよ。なんにもしないから」

「……………」

「謝ろうと思って、来たんだ。聞いてくれる?」

 確かに、この少年にしては珍しく、殊勝な面持ちをしている。滅多に見られない年相応の表情に、手塚は眉間のシワは消せないまま、うなずいた。

「聞こう」

「ありがと。…部長の気持ち、考えなくて、ごめんね。俺、俺が部長のこと好きになったの、悪いことだとも、間違ったことだとも思ってないけど、表現の仕方は間違ってたと思う。いきなりキスなんて、するんじゃなかった。部長があんなことになるなら………いや、なったってなんだって、俺のものになってくれるならそれでいいと思ってたけど、でもそれじゃいけなかったんだ」

「越前…」

 自分と大石とのことを解ってくれたのかと、手塚の表情がほっとしたものになり、シワが数本減る。

 が。

「俺、わかったよ。これからは、正々堂々と部長を奪いに行く。大石副部長に負けない自信なら、あるから。待っててね、部長!」

「……………………………………え…っ」

 ちぜん……………

 予想もしてみなかった展開に手塚が面食らっている間に、越前は意気揚々と練習に戻っていく。

 呼び止めようとした声は最後まで続けられず、ベンチには途方にくれた手塚だけが残された。




 帰路のバスの中、公認になったのをよいことに最後部座席を手塚と3人で陣取った大石と菊丸は、痛恨の一撃を食らったダメージからまだ立ち直れないでいる手塚を、何も知らない竜崎女史に気付かれないように一生懸命隠しながら、精一杯慰めたのだった。




 そして、各方面にいろいろな状況を発生させつつ、彼らの夏はまだ終わらない。


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