手塚君の手料理

「調味料は、ここ。油とか醤油とか、容器が大きいのは、こっち。鍋はそこで、左から、片手鍋、両手鍋、その下に中華鍋、奥にフライパン。包丁は手前から、万能ナイフ、果物ナイフ、文化包丁、肉切り包丁、菜切り包丁、出刃包丁…」

「ちょっと待った。ナイフの種類の違いと、文化包丁と肉切り包丁の違いが判らん」

「ナイフは、柄の形で見分けて。なんでもかんでも同じの使ってると消耗するから、果物用とそれ以外用に分けてるんだ。文化包丁と肉切り包丁の見分け方も同じ。まあ、厳密に言えば文化と肉切りは全然違うんだけど、そこまでは覚えなくっていいよ。あとは、刃の形で判るだろ。普通に調理する分には文化包丁、肉を切るときは肉切り、ほうれん草とかの葉物野菜を切る時は菜切り、魚をさばくときは出刃。あ、肉切りと出刃はものすごくよく切れるから、使うときは手に気をつけてね。すっぱりいっちゃうから。手塚、絶対、包丁使うの下手そうだし」

 台所で、やけに熱心に菊丸は同じく真剣な手塚に説明をしていた。鍋の場所、食材の場所、調味料の場所、食器の場所や後片付けの仕方。一般家庭の台所としては珍しいほど、設備は複雑かつ本格的に整っていて、菊丸の説明項目が増えるたびに手塚の眉間のしわも深くなっていく。

「英二、いいよ。やっぱり、その間は俺が……」

「ダーメっ! 大石は家長なんだから、包丁持っちゃダメなの!」

「そのとおりだな。家長は軽々しく台所に出入りするものではない。威厳に関わる」

 見かねた大石が口を挟むと、菊丸と手塚の二人に、きりっと睨まれた。いったいいつの時代の家長の話をしているのか…と思わないでもないが、台所を取り仕切るのが菊丸の家の中でのアイデンティティに繋がっているようで、そう思うと大石はおとなしく引き下がるしかない。

「……で、朝は特別に食器洗い機を使ってよし。OK?」

「ああ。たぶん、なんとかなると思う」

 一通りの説明を終えた菊丸に、手塚がうなずく。やけに頼もしいその姿に、菊丸はほっと安心の溜息をついた。

「じゃあ、俺、行ってくるからね。お土産、楽しみにしててよね!」

 軽妙に玄関まで走り出ると、菊丸は靴を履いて大きなスーツケースを持つ。

「英二、気をつけてな。旅行客は狙われ易いって言うから……」

「大丈夫だよ、大石。兄ちゃんも一緒だし」

「ならいいけど…。なにかあったら、いつでも連絡しろよ。時差なんて、気にしなくていいから」

「うん、判ってる。…じゃ、手塚。留守中の家事、頼んだにゃ」

「ああ。できる限り努力する。気にせず行ってこい」

「うん。サンキュ」

 笑顔でそう言うと、菊丸はつと伸び上がって、大石とキスをする。「いってきますのキス」にしては、やけに熱烈濃厚だが、これから数日間、顔も合わせられないのだから大目に見てほしい。名残惜しそうにもう一度だけ唇を触れ合わせて離れると、手塚とは欧米風に互いの頬にキスの挨拶。

「じゃ、いってきまぁす!」

 そして、ごろごろとキャスターの鈍い音を響かせて、菊丸は出かけていった。




 事の始まりは、先月のこと。菊丸の長兄が、商店街の福引で特等のニュージーランド旅行を引き当ててしまったことから話が始まるのだ。仕事のある両親や、海外に抵抗のある祖父母はともかくとして、ペア旅行チケットの相手の座を3人の弟妹が取り合ったのは、当然の話で。あまりに熾烈な争奪戦に疲れた長兄が、家を出て生活している末弟に、心の平穏を求めて誘いの声をかけたのも、また、自然な流れのことだった。

 パスポートも持っているし、タイミングよく部活の休みも旅行日程と重なっている。けれど、菊丸は最初、自分がいない間の家を心配して、断ろうとした。それを遮ったのが、手塚である。自分が菊丸の代わりに家事をこなせばよいだけだと、そう言って、手塚は菊丸の留守中の一切を請け負ったのであった。




 菊丸のいなくなった台所で、手塚はひとり、エプロンを締めて精神統一をしていた。一度も経験したことのない夕食の支度をひとりですることになって、少し気負っているのは確かだ。授業の調理実習や、出来上がった料理を食卓に用意するくらいならばやったことはあるが、なにからなにまで完全に1人で食事を用意したことはない。菊丸が留守を気にせずに旅行に行けるようにと思って引き受けたはいいが、実は、菊丸の代りを務められるとは、自分でも思っていないのである。

 菊丸が、初心者でも簡単にできるから、と何種類かの煮込み料理のレシピを置いていってくれたが、手塚はそれを頼りきることはできなかった。ざっと目を通して判ったのだが、どの料理のレシピにも、肝心の分量が書いていないのだ。二人分の料理に、野菜や肉をどのくらい用意したらいいのか、どのくらい使ったらいいのか、何ひとつ書いていない。  おまけに…

 『水は野菜が浸るくらい』。浸るって、どの辺までだ?

 『塩はぱっぱ。醤油はちょろ。隠し味にみりんをたら』。〝ぱっぱ〟というのは、何グラムなんだ? 〝ちょろ〟は何ccだ? そして、極めつけには、〝ちょろ〟と〝たら〟の違いが判らない。

 自分の感覚を頼りに料理をしている菊丸にとって、手順をメモすることは容易でも、分量を正確に書くなんて、できなかったのだ。菊丸なりに精一杯丁寧に書いていったのだったが、それがかえって手塚を混乱させていた。

 『柔らかくなったら、茹で上がり』。柔らかくなる=茹で上がりなのは当然のことだ。柔らかくするために茹でるのだから。そうではなくて、手塚としては柔らかくなるまで何分かかるのかを知りたいのである。しかし、手塚の知りたいことこそが、まるごと記載されていなかった。

 仕方なく、手塚は冷蔵庫の野菜室を開けた。調理実習で作ったことのあるカレーなら、何とかなりそうな気がしたので。

 それが、あまりに甘い見込みであったと知るのは、もう少し後のことである。



 大石は、居間でそわそわと立ったり座ったりを繰り返していた。見かけに寄らずアバウトで天然な手塚に、食事を用意することができるなど、手塚にはすまないと思うけれど大石にはとても信じられないのだ。

 だが、手塚に厳しく言われて、大石は手伝うことどころか、台所に入ることさえ許されない。落ち着かずに大石はラックのテニス雑誌に手を伸ばす。けれど文面は一向に頭に入ってこなくて、すぐにまたラックに返してしまう。

 大石は、『鶴の恩返し』の猟師の気分をものすごく実感した。気になるのに、入れない。気になって落ち着かなくて、むず痒いことこの上ない。

 そして、ついにそのときはやってきたのだった。

「うわっ!?」

 台所から聞こえてきた手塚の大きいとは言えない悲鳴を、大石は聞きつけるなり飛び出した。



 ガスコンロの上の大きな寸胴鍋の中で、勢いよく炎が上がっていた。

「な…っ!? 大丈夫か、手塚!?」

「大石!」

 大石は中に入ると、コンロの前で咄嗟に行動できずにいた手塚に声をかける。一瞬、手塚は大石に縋ろうとして、思い直したようだった。気を取り直すようにふるりと頭を振って、事務的な口調で要点だけ告げる。

「すまん。油に引火したらしい。消火器は……」

「そんなもの、あるか。大丈夫だ。手塚、フタはどこにある?」

「あ、ああ。鍋の向こうに……」

 それでも、動揺は抑えきれないのか、言葉がはっきりしない。大石は安心させるように手塚の肩を叩いて、炎を避けるように回り込み、フタを取った。

 炎を押さえるように、ばくん! と一息にフタをする。すぐに換気扇を回し、窓を開けて換気をする。油の燃えた嫌な臭いが、風に洗われて流れていった。

「手塚。もう、大丈夫だから」

 思いがけなく炎を間近に見た手塚は、小刻みに震えていた。手伝おうとして、けれど炎が恐くてできなかったのが、姿勢から見て取れる。大石は手塚に近寄ると、すっぽりとその体を包み込んだ。

「大丈夫だから。火事にもならないし、俺も怪我してないよ。大丈夫だから。もう安心していいから。…手塚が無事でよかった」

 なだめるように、ぽんぽんとゆっくり背を叩く。何度も何度も、手塚の震えが止まるまで。

「……………驚いた……」

 やがて手塚はそうつぶやくと、小さく声を漏らして、眼鏡を外した顔を大石の肩に押し付けた。しなやかな髪に指を滑り込ませて手塚の頭を抱き寄せ、大石は気遣うようにそっと撫でてくれた。




 居間のソファに座って、大石はほぅ…と長い溜息をついた。ちょうど、事の顛末を手塚から聞き出したばかりである。

 曰く、最初の手順である豚肉を炒めるために鍋を火に掛け、温まった頃合に油を引いたところ、火の加減が強すぎて、油があっという間に沸騰し、引火したというのだ。

「やっぱり、手塚に料理は無理だよ。することがたくさんあって、ゆっくり考えながらやっていたら、すぐに焦げたり燃えたりする。1つのことに集中する性質の手塚には、あんな忙しない作業は向いてないと思うよ」

「大石、だが……」

 今日は大石が機転を利かせて、アルコールランプを消す要領で火を消し、後に残ったのはただ焦げた鍋だけで済んだ。それでも、一歩間違っていたら、大惨事になっていたところだった。

 2度と1人で調理はさせないという大石に、手塚は食い下がろうとする。慣れればできるはずだし、努力を怠るつもりだってない。その手塚の目をまっすぐに見返して、大石はうなずいた。

「うん。英二と何度か練習すれば、きっと手塚も料理ができるようになると思う。でも、今はダメだ。絶対に許さない。……なんで俺がそう言うかは、解るだろ?」

 その大石の目を、窺うように見つめ返しながら、手塚はおずおずと答える。

「……もう、火事になりそうなことは、起こさないようにするが…」

「そうじゃない! 解らないのか!? さっきみたいなことが起きて、お前が火傷したらどうする! 今だって、切り傷だらけのおまえの手を見てかなりショックなんだぞ。それより酷い怪我をするようなことになったら、俺は心配で気が狂うに決まってるよ」

「大石…」

 どさくさで忘れていた、包丁で何箇所か切ってしまった手を見られていたと気付いて、手塚は慌てて手を隠そうとする。大石に心配をかけたくなかった。こんなに大切に思ってくれているのが嬉しくて、だからこそ大石の負担になりたくない。

 その手を、隠されてしまう前に、大石は腕を伸ばして捕まえた。手塚の骨張った手は、それほど陽に焼けていないせいで、赤い切り傷がことのほか目立って見える。それが、指先に幾つもある。すべて、食事を用意するための傷。大石は、その傷のひとつひとつに、慈しむキスをする。

「こんなに…手塚に怪我をさせるくらいなら、食事なんてどうでもいい。英二が帰ってくるまで、食べなくたっていい。頼むから、無茶をしないでくれ…。生きた心地がしないから……」

「大石、だが…。食べないわけにいかないだろう?」

「なら、俺が作るから」

「それはダメだ。菊丸が嫌だと言ったことを、俺が勝手に許すわけにはいかない」

 懇願する大石に、手塚はにべもなく言う。その即答振りに、大石は少し鼻白んだ。

「………手塚。ちょっと訊くけど…、俺と英二のどっちが大事?」

「菊丸だな」

 またもや即答されて、大石は少し傷ついた表情をした。その表情に、手塚はちょっと困ったように眉を寄せた。

「馬鹿、誤解するな。おまえのことは、比較対象にできるものなどないくらいに、特別に思っている。どちらかを取れと言われたら、おまえだと言いたい。だが、菊丸ほど俺を救ってくれた奴はいないと思う。だから、俺は菊丸を大事にしたい。……そんな傷ついた顔をするな。今のは、こんなことを訊いたおまえが悪い」

「……手塚……」

「とにかく、なんと言われても、おまえには料理はさせない」

「それはこっちの言うことだ。こんなに怪我をするようなことなんて、させられるもんか」

 そのまま、しばらくふたりは睨みあう。どちらも譲るつもりはなくて、重い沈黙が居間に満ちる。

「………………………」

「………………………」

 きゅるるる~…

 沈黙を破ったのは、空腹の音。それも、ふたりそろって。

 刹那、ふたりは弾かれたように吹き出した。そしてけらけらと声をそろえて笑ううちに、尖った雰囲気がどんどん和らいでいく。

「とりあえず、食事にしようよ。ひとまず今日は、外で調達してきて、さ」

「仕方がない、そうしよう。明日以降のことは、食べてから考えるのでも間に合うからな」

 大石の提案に、手塚は素直にうなずいた。流石に、もう腹が空いて仕方がない。

「その前に」

「…?」

「おまえの手の手当てをしよう。飯はそれからだ」

 自分の手の怪我をすっかり忘れていた手塚は、つい自分の手を見る。

「……そこまでの傷じゃない」

「馬鹿、痕が残ったらどうするんだ」

「大石……」

 包丁で切っただけで痕が残るなど、聞いたこともなかったが、手塚は黙って大石に手を委ねた。自分の心配をする大石は、いつでも普段の優しさが嘘のように強引で、滅多なことでは逆らえない。

 大石は傷のひとつひとつを丁寧に消毒して、ばんそうこうを巻く。手当てが終わってみれば、手塚の指はまるでテーピングで固められたように、ばんそうこうでぐるぐる巻きになっていた。

「………大石」

「それだけ怪我しておいて、よく平気だなんて言えたもんだ。不便かもしれなくっても、表面が乾くまではそのままでいろよ」

 恨めしげに大石を見遣った手塚に、大石は有無を言わせず救急箱をしまう。手塚は不承不承うなずいた。

 外出の支度を整えて、外に出る。陽はすでに傾いていて、あたりは夕闇に包まれ始めていた。

「なにがいい?」

「………………。……包丁を使わなくて済むものがいい」

「手塚、本当に刃物が嫌いだな」

 くすくす笑われて、手塚が憮然とした表情になる。大石はそんな手塚の手を取って、自分のコートのポケットに入れた。ばんそうこうの感触が邪魔だけれど、そんなことは二の次だ。




 そして、菊丸が帰ってくるまで、台所から聞こえる音は汽笛と電子音のみだった。

 帰宅した菊丸は、ゴミ袋の中身を知って、二度と自分だけ長期間出かけることはしないようにしようと心に決めたものである。


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