結局、越前の相手をしたために途中のままだった仕事を、手塚は夕食前の自由時間にすることにした。できれば夕食の席で、通達をしてしまいたかったのだ。食後にミーティングの時間もあるのだが、そこでは内容が全体的すぎて、そぐわない。
ようやく終わった作業に、眼鏡を外して目頭を押さえる。ずっとクリップボードに向けていた目が、すっかり疲れてしまっていた。
「お疲れ、手塚。なにやってたんだ?」
タイミングを見計らっていたのか、大石がコーヒーを持って隣に来る。手塚は眼鏡をかけなおすと、礼を言って受け取った。
「部屋割りをやり直していた。なにもなければ、今朝のおまえや乾の意見ももっともだったが、フジとタカサンが来てしまっては、そんなわけにいかないからな。おまえと菊丸を同室にして、やつらの世話を任せようと思って、それを元にレギュラーだけ割りなおしたんだ」
「…やっぱり、変えるのか」
「仕方ないだろう。そんなことを言っていられない状況だというくらい、大石ならわかると思っていたが?」
「…………解らないわけじゃないさ。おまえこそ、俺の気持ちを解らなすぎなんじゃないのか?」
「…えっ?」
それは、つい口をついたような風だった。実際、大石は言うつもりだったわけではなかったらしく、次の瞬間にははっとして口を覆い、「すまない」とだけ言うとその場を去ってしまった。
たった一言のこと。だけど、「たった」では済ませられないほど、重い「一言」。
手塚の心を沈ませるには、ただそれだけで充分だった。大石の背中を問いかけるように見送りながら、その表情は曇っていた。
「ちょっと、なにがあったのさ?」
「知らないっすよ。俺だってびっくりしてるんす」
「部長、ヘコでる顔も綺麗っすね…」
「……おチビ、その発言、いろんな意味で問題ありすぎ」
「このまま手塚の機嫌が直らない確率、93%…」
「なんでそんなに確率高いんだよ。カンベンしてよ……」
「ふしゅ~…」
夕食の席、レギュラーたちのテーブルでの会話である。上から順に、不二、桃城、越前、菊丸、乾、河村、海堂。ぼそぼそと、声を低めて内緒話モードだが、10人掛けの同じテーブルにいて、本来ならば同席している本人たちに聞こえない方がおかしい。
が、当の彼らの耳には、一向に入っていないようだ。判る者にしか判らない程度とはいえ、顔中に憂いを滲ませている手塚と、こちらはしっかり顔に出てしまっている、なにか悔やむような表情の大石。先ほどからずっと、そこだけ無言で食事を続けている。しかも、よりにもよって、その2人が向かい合って座っているのである。
「手塚、あれじゃ、大石が原因ですって、宣伝してるようなもんだよ。大石がちょっと気の毒だよ」
「なに言ってんすか、河村先輩。あのヒトが、そんなことに気が回るわけないでしょ」
「越前、よく手塚のこと解ってるな……」
「と言うより、それで、手塚に声かけれないでいる大石も大石だろ。さっさと謝るなりなんなり、すればいいのに」
「乾ぃ、大石がそんなに無神経なわけないじゃん。手塚の負担にならないタイミング、探してるんだよ、きっと」
「英二も、よく大石のこと解ってるよね。しかも、意見はいつも好意的だし」
「うん、俺、大石のこと大好きだもん」
(そっかぁ。むしろ堂々としてるほうが、気付かれにくいもんなんだな。英二先輩、すごいっす)
ひょんなことで大石と菊丸の関係を知ってしまった桃城は、その菊丸の態度に感心する。
「そんなことは、どうでもいいよ」
最初に話題を振ったきり、会話を黙って聞いていた不二が、強い語調でみんなを遮った。話題になっている本人たちは相変わらずだが、他の者たちの視線はいっきに不二に集中する。それを、不二はばんばんとテーブルを叩いて、手塚と大石の視線も向けさせた。
「手塚、大石。君たちの間でなにがあったんでもいいけどさ、もう、そこだけ中途半端に暗いの、なんとかならない!? あおりを喰らうこっちが迷惑なんだよね!! とっとと仲直りしてくれない?」
本人たちに向かって、はっきりきっぱり『迷惑』と言い切る不二に、その場の全員が心中で「すげー…」と感心する。もっとも、不二なりにふたりを心配しての発言だと承知しているから、言い回しが尊大でも気にはならないが。
言われた当人たちは、といえば、手塚は「余計な世話だ」とでも言いたげに一瞬だけ不二を見ると席を立ってしまい、一方の大石は「すまないな」と苦笑して食事に意識を戻して終わりである。
「……重症だな……」
乾の言葉に、不二はがっくりと肩を落として溜息をついた。
夕食後のミーティングで、レギュラーだけ残るように手塚に言われて、なにかと思えば部屋割りの変更通達だった。
見せられた表に、不二は眦を吊り上げ、海堂は人知れず安堵し、越前は期待が外れて舌打ちし、乾の眼鏡が無気味に光り、大石は諦めたように目を伏せた。
203が大石と菊丸、204に海堂と河村、202が不二と桃城と越前、201は乾と手塚。1室だけ3人にするとなると、1年生の越前の部屋…ということになった。不二が不満に思うかもしれないのは承知の上だ。
消灯までに移動しておくように…と告げて、その場を解散する。とうとう、手塚は、大石とはあれからひとことも交わすことはなかった。
「大石」
浮かない表情でホールを出た大石に声をかけたのは、河村だった。振り返った大石に、河村は「ちょっといいかな」と、出てきたばかりのホールを指差す。どんな用なのか予想も出来ないまま、大石はうなずいて、ホールに戻った。
無人になったホールの、適当な場所にふたりで腰を下ろす。促すように視線を向けると、河村は言いにくそうに口火を切った。
「あのさ…、一応訊いておくけど、大石って、手塚とどういう関係なんだ?」
「え?」
「俺は、いままで、普通に友達なんだと思ってた。でも、不二がね、あのふたりは絶対デキてるよって言うんだ」
「……………」
「でも、ちゃんと聞いたわけじゃないって言ってたから、最初に確認した方がいいかなぁって思ったんだけど」
人のいい河村は、そう言って大石を見る。だが、その視線は答えを促すものではなく…どちらかといえば、優しく見守る瞳だった。
河村に他意がないことも、言うなと頼んだことは決して口外しないであろうことも、解っている。それでも、自分の一存では言うことができなくて、大石は目を伏せた。だが、それだけで河村は、だいたいを察してくれたようだった。
「そうなんだ。それなら…あのね、大石。たまには、遠慮してちゃダメだよ」
「…タカさん?」
「大石のことだから、自分の感情を押しつけたくないって思ってるんだろ。でも、言わなくちゃ伝わらないことって、けっこう多いんだよ。特に、手塚みたいな、真面目すぎて鈍いタイプにはね」
「………………」
「確かにさ、言わなくても伝わることってあるし、それで充分なこともあるよ。だけど、それだけじゃ足りないこともあるし、正しく伝わってないこともあるでしょ。相手が言葉で伝えてほしいって思ってる可能性だってある。言葉にしたことで、より強く伝わるってこともね。相手を気遣うのはいいことだけど、気遣いすぎて大事なことを見失ったら、本末転倒だよ」
「うん、そうだけど…」
「それに、自分が想ってるだけでいいつもりでいたって、何かの拍子に『なんでこいつは解ってくれてないんだ』って思うことがあるかもね? でもそれは、伝えてないんだからしょうがないじゃない。解ってくれてないって言われる方が可哀想だよ」
「……ああ。そうだな」
「でしょ」
河村の穏やかな諭しが、大石のささくれた感情をなだめていく。大石にはもう、自分の過ちが判っていた。
つい思わずのこととはいえ、なんてことを手塚に言ってしまったのだろう。河村の優しい声が、なおのこと沁みて痛い。それでも、感じるのは痛みだけではないから、大石はまっすぐに河村を見た。
「……ありがとう、タカさん。明日にでも、ちゃんと手塚に謝るよ」
「うん」
河村はおっとりとうなずく。ラケットを持っていない彼は本当にのんびりとしていて、不思議と、近くにいるのが心地いい。
「…偉そうなこと言って、ごめんね。俺が大石の立場だったとき、俺がそう振舞える自信なんて、ないのにな」
「いや。誰だって、そんなものだよ。偉そうだなんてこと、ないよ」
どことなく腰の低い物腰の河村にならば、言われても、なぜか少しも腹は立たない。大石の応えに、河村はほっとしたようだった。
「…だけど、よく俺と手塚が喧嘩したって判ったな。アドバイスまで、すごく的確だし」
感心したように大石が言うと、河村はちょっと呆れて溜息をついた。
「やだな、大石。誰も気がついてないと思ったの? 手塚と大石が喧嘩したってことくらい、見てれば簡単に判るよ。それに、喧嘩っていうのは、いろんな原因があるとしても、根本的には、相互理解が足りてないことが引き金になるからね。そしたら、アドバイスだって根本的にはひとつで充分…だろ?」
「なるほどな……。言われてみると、確かにそうだ」
「な、気付いたって言っても、そんな大したことないだろ。今日はもう時間も遅いけど、大石の気持ちをきちんと伝えてごらんよ。手塚だって解ってくれるさ」
「うん………でも、どうなんだろう。それって、ただの我侭だったりしないかな?」
「本心を言うこと?」
「うん」
「じゃあ、大石は、腹を割って話すことのできない相手を『大切だ』って言える?」
「……!」
「我侭だって、いいじゃない。気を許してない相手に、我侭言ったりしないでしょ。それに、我侭なくらいに自分の気持ちを口にしなくちゃ、想いの強さは伝えられないと思うんだけど。大石には、相手の都合なんかどうでもよくなっちゃうくらいに伝えたいことって、ないの?」
「………相手のこと、考えられないくらいの気持ち、か」
「我侭ってさ、定義が難しいと思わない? 言われた方が迷惑だったら『我侭』だけど、迷惑じゃなかったらなんでもないことなんだ。手塚は、大石が自分の気持ちを伝えることを、我侭で独り善がりの行為だなんて、思うかな?」
「思わないでくれたらいいな……」
河村の問いかけに、大石はそう答えた。答えたけれど、内心では、きっと思わないでくれる確信があった。言われて、気付いたのだ。菊丸は毎日毎日、子供のように「好きだ」と自分に言うけれど、自分がそれを嫌だと思ったことは一度もないことに。
ふっと浮き上がるように大石の表情が晴れるのを、河村は安心したように眺めていた。
「サンキュー、タカさん。もう大丈夫だよ」
立ち上がる素振りを見せると、河村も一緒に立ち上がる。
「そう? よかった。大石、ちょっとひどい表情してたから」
「えっ、俺、そんなにすごい表情してた?」
肩を並べて部屋に向かいながら、大石は思いもよらない指摘に、驚いて河村を見上げた。
「うん。けっこう、この世の終わりっぽいカンジだったよ。で、さっきの部屋割り見て、理由これかな? って。手塚が乾と2人部屋になるの、そんなに嫌なんだなって思った」
「うーん……まあ、そんなようなところなんだけど……。もうちょっと、子供染みてて情けないこと考えてた…と思う」
「それ、俺が聞いてもいい?」
「いいけど…。乾が手塚の寝顔見るの、嫌だなぁ…と思ってさ……」
「なんだ、そんなことか」
自分にとっては、子供っぽくても情けなくても、けっこう重要なことなのに、河村にあっさりと「そんなこと」と返されて、大石はちょっとショックを受けた。そんな大石に、河村は苦笑いして、ごめんと言う。
「そうじゃなくて、そんなことなら俺はいつも思ってるよ、ってこと。不二、あんなだからさ。ああいう不二が好きなんだけど、俺以外の男に笑いかけないでほしいと思うのも、本音なんだよね」
「そういうことか…」
大石が納得してうなずくと、河村は羨ましそうに大石を見た。
「その点、大石はいいよな…。手塚、あんまり感情を表に出さないもんな。他の奴にそんな顔見せてないでくれって思うこと、ないだろ?」
「いや、かなりあるよ」
「え? 手塚が? 笑うの?」
大石の答えに対する河村の反応は、ちょっと失礼だったが、非常にもっともだった。大石は「そうじゃなくて…」と言いつつ、苦笑を禁じえない。
「手塚、ものすごく自分に無頓着なんだよ。試合会場で、やっぱり手塚って有名だからみんなちらちら見てたりするんだけど、ぜんぜん気にしてなくて……っていうか、自分が注目集めてるの解ってないっていうか……。すごい威厳があるのに、あんまり無防備で無警戒で、俺はいつも胃に穴が開きそうな気がしてる」
「ああ。それでいつも試合前に胃薬飲んでるんだ」
「いや、それは気分的に落ち着くからなんだけど……」
「ふぅん? …大石も大変なんだな」
「でも、そういう大変さを抱えてない〝彼氏〟なんて、世の中にはいないと思うよ、タカさん」
「……それもそうだね」
「なに堂々と、惚気話してるの?」
「ぅわっ!?」
「ふ、不二…」
突然後ろから声をかけられて、焦って振り向くと、そこには凶悪な笑顔の不二が腕を組んで立っていた。
「もうここ、宿泊ブロックだって、判ってる? 他の部員もたくさん歩いてるのに、そんな話堂々としてて、僕たちはともかく、大石はみんなに知られてもいいんだ? 誰かさんは隠したがってるのにね?」
いちいち問いかける語尾が意地悪だが、不二の言うことは非常にもっともである。大石も河村も、返す言葉が見つからない。
「大石、さっさと荷物持って、203に行きなよ。英二が僕と同じ名前の猫抱えて待ってるよ。タカも、早く204に移ってくれないと、桃と越前が場所なくて困ってる。手間取ってると、手塚のご機嫌が急降下するよ」
不二に追い立てられて、大石と河村の行動速度が上昇する。その様子を見送って、〝姫君〟の威力は絶大だな…と、不二は呆れ半分で感心した。
こうして、合宿2日目は、種々の問題を抱えつつ、慌しく終了する。
2日目夜
真ん中にぽかりと空いてしまったベッドを机代わりにして、手塚は乾と翌日の確認をしていた。
「…あのさ」
話が一区切りついた頃、不意に、乾が顔を上げて、手塚の胸元に目をやった。既に着替えも終え、ふたりとも、パジャマ姿である。普通の衣服に比べてゆとりを持った作りのそれは、緩やかな襟刳りから鎖骨が少しだけ見える。
「昨日から気になってたんだけど、手塚、首にかけてるチェーン、なに?」
「っ!」
突然の質問に、手塚はどきりとして言葉に詰まった。
乾が言っているのは、手塚の襟元に光る、細かい銀のチェーン。少し長めのそれは、ちょうど、ヘッドが心臓の真横に来るようになっているから、服の中に入れている今は鎖だけしか見えていないはずだ。それでも、ちらちらと見え隠れするチェーンは、差し向かいで話をしていれば、目に付いたって不思議はない。
「べ、別に……なんでもない。お守りみたいなものだ」
「へぇ? ちょっと、見せてもらってもいいか?」
「それは困る」
乾にしてみれば、軽い気持ちで言った言葉だったが、手塚の答は即座に、きっぱりと返ってきた。その予想外の語調の強さに、乾は面食らう。
「どうしてだ? ただのお守りなら、別に構わないだろう?」
「ダメだ。見せることはできない」
「ふぅん? 人に見られないように持ってなきゃダメなのか。どこの神社のだ?」
不審がる気持ちを抑えられずに重ねて聞いても、頑なな拒絶だけが返ってくる。こうなると、今度は好奇心を刺激されて、乾はデータノートを開いた。手塚がそこまで信仰している神仏に、興味も湧いてくる。
「ど…どこの、と訊かれても……」
「知らないのか?」
「あ…ああ。人から貰ったものだからな」
「ふぅん。それじゃ、誰から?」
「だっ、誰からだって、いいだろう!」
とうとう、手塚は服の中に入れているチェーンの先を守るように上から押さえて、ぷいと顔を背けた。その頬が、ほのかに赤く染まっている。
その様子を見て、これ以上はやめた方がいいらしい…と、乾は追求を止めた。その代わり、と言ってはなんだが、チェーンのことからそれに関する手塚の態度まで、事細かにノートに記入する。
乾が静かになったのを潮に、手塚は「もう寝るぞ」と声をかけて、そそくさとベッドに潜りこんだ。乾に背を向けて、チェーンを守るような姿勢になっているのが見て取れて、乾は感心したように息をつく。
自分もベッドに入り、手元のスイッチで室内灯を消す。毛布に包まり、どうすればあのチェーンの先を見られるか、乾は思考をめぐらせた。風呂に入ったときには気付かなかったことを考えると、手塚のガードは相当に堅いと見て間違いない。
考えながら、いつのまにか、乾は眠りに引き込まれていった。手塚の〝お守り〟を知る手段が、思いつかないままで。
それだけ考えても破る方法が見つからないほど堅くガードされている手塚の〝お守り〟が、実はイニシャル入りの銀の指輪だと、乾が知るのはまだ当分先になりそうだ。
そして…
「フジ! タカサン! 英二! 俺のベッドに入ってくるんじゃない!!」
悶々として眠れないでいた大石が、思わぬ侵入者に驚いて叫んだのも、同じ頃のことである。