3日目
この日は、まず、朝一番のランニングのときからすでにおかしかった。いつも凛と号令をかける手塚はどことなく顔つきが冴えない。隣に立つ大石は、声をかけたそうに何度も手塚に目を向けるが、きっかけを掴めずにじりじりしているのが判る。越前は、そんな中でも、怯むことなく手塚になにかと話し掛けていて、奇妙に歪んだ空気が生れていた。
朝食後、午前の練習のためにグラウンドに出てきた桃城は、集まっている部員の中から、やや小柄な姿を探し出して、近づいた。
「いったい、どうしちゃったんすか、部長たちの状態は…?」
顔をしかめて、桃城が低い声で不二に尋ねる。いかな不二でも、なにもかもを知っているわけではなく、桃城の問いかけに首をひねった。
「うーん…。大石がイラついてる理由は、心当たりがあるけど……手塚は、なんなんだろうね。やっぱり、昨日、大石と何かあったっていう、あれが原因なのかな?」
「なにをそんなに揉めたんでしょうね…、一晩経っても、元に戻ってないってのは?」
「さてね。そこまでは判んないし、僕たちが首を突っ込むことでもないんじゃない。ほら桃、号令かかってるよ」
不二の軽い調子につられて、桃城も気を取り直し、集合地点まで走っていった。確かに、中心2人の様子がおかしいからといって、部全体まで調子を崩すことはない。
「集合! 本日の練習を始める」
たとえ調子が悪かろうと、責務を放棄するなど、手塚も大石も決してしないし、普段どおりに振舞う努力だってする。部員に集合をかけ、ウォーミングアップ、通常メニュー、特別メニューと、午前中4時間をたっぷりと使った内容を、いつも通りに進めていく。
「…なあなあ、手塚。大石と、いったいなにがあったん?」
練習の合間に、手塚に声をかけたのは、菊丸だった。その声がとても心配そうで、手塚はひとつ溜息をつくと、重たい口を開いた。
「昨日…部屋割りを変更しただろう? あれは、大石は反対していたんだ。余計な動揺を引き起こすようなことは避けたいと言って。最初は俺も、それはもっともだと思ったんだが……」
「それって、いつ?」
「昨日の朝だ。おまえが駆け込んでくる前」
「ああ。それで、フジとタカサンがついて来ちゃって、事情が変っちゃったんだ?」
「そうだ。部屋替えをせざるをえなくなって、それでも大石が渋るから……俺は、こうなったら、動揺を避けたいなどと言っている場合じゃないと言ったんだ。そうしたら…大石に『俺の気持ちを解っていない』と言われた」
「手塚…」
「俺には解らない。大石が、どう思って、どう考えて、どうしたいと思っているのか。俺は、大石の気持ちの、なにを解っていないのか……それが、見つけられない。いつも、大石の考えにも合うようにと思って言動に気をつけたって、それで上手くいくことはあまりにも少なくて、そんな俺は、やはり大石の隣にいてはいけないんじゃないかという気さえ、してくる」
「それは、手塚が考えすぎちゃってるんじゃないの? 手塚が思うほどのことは、なかったりしない?」
切なげに目を伏せてしまった手塚に、菊丸はいたわるように言葉をかけた。
「昨日のことは、大石だって、ちょっとした弾みで言っちゃっただけとかさ? 実際は、そんな深い意味はなかったのかもよ? なぁ、手塚ぁ。そんなに落ち込むなよ…」
菊丸が必死に慰めようと言葉を尽くすが、手塚は悲しげに首を振ると、近くに置いていたタオルを取り上げた。
「……すまん。少し抜ける……」
「あ……」
タオルで表情を隠すようにして、手塚は足早にコートを出て行く。菊丸は追おうかとも思ったが、去っていく手塚の背中は人を拒絶するオーラを放っていて、ついていくことさえできなかった。
「お…っ」
急激にこみ上げてきた悔しさと悲しさで、菊丸の胸はあっという間にいっぱいになる。
「大石のばかぁっ!!!」
コートの向こうで、1年生たちのフォームを見ていた大石に向かって、力いっぱい怒鳴ると、菊丸も勢いよくコートを飛び出した。
「え…英二?」
「なんだ、喧嘩か?」
なにがなんだか、それまでの流れをまったく知らない大石は、なぜいきなり自分が菊丸に「ばかっ」と言われたのか、解らない。面食らって戸惑う大石に、隣で球出しをしていた乾が訊いてきたが、大石には首をかしげることしかできなかった。
「大石」
と、背後に不吉な気配が近づき、不穏な声が大石を呼ぶ。
大石が恐る恐る振り返ると、そこには、なんとなく魔界の空気を纏ったように見える笑顔の不二がいた。
「なにがあったか知らないけど、なんにしたって、英二を悲しませたりしたら、まず僕が相手だからね」
「えっ!?」
「大石、ダメだよ。不二に何かあったら、いくら俺でも、黙ってないからね」
「えっ、えっ!?」
不二の言葉に驚くのも束の間、今度は反対後ろから河村も参入する。
「大石先輩! 英二先輩に、なにしたんすか!? ダメっすよ、もっと大事にしてあげなきゃ!」
コートの向こうからは、桃城がラケットを振りかざして叫んできた。
「ふぅん…大石もなかなかやるな……」
気付けば、乾が、凄まじい勢いでノートにペンを走らせていた。
「違う! きっとなにかの誤解だ!! 俺は英二にはなんにもしてないっ!」
「『英二〝には〟』?」
「〝には〟ってことは、別の誰かには、したんだ?」
無実を証明する大石の叫びは、海堂と越前に言葉尻を捉えられて、さらに追及が厳しくなる。
「さて。洗い浚い、吐いてもらおうか?」
乾の眼鏡が、きらーんと光った。
少し腫れぼったくなった瞼を水で絞ったタオルで冷やしているうちに、気持ちは幾分か落ち着いてきたようだった。
少し離れた水道場で、手塚は手近な樹の根元に腰を下ろし、幹にもたれかかる。目の上に乗せた濡れタオルが、ひやりとして心地よかった。
それでも、一度マイナス方向に進んだ思考は、容易なことでは浮上してこなかった。テニスと勉強以外の、人間らしいことが何ひとつ上手にできない自分が、やはり大石の隣を望んではいけなかったのだと、今更ながら痛感する。
誰にも迷惑をかけることなくいられたなら、それでも、まだ少しは自信が持てた。けれど、振り返ってみて、どうだろう? どんなときでも、誰かしらには迷惑をかけて事態が進んでいた。大石には手間をかけさせ、菊丸には普通ならしなくて済んだ嫉妬をさせ、不二には心配されて相談に乗ってもらうことまでした。
それでも、大石の傍にいたくて、努力してきたのに。
結果は、どうだろう? 一緒にいるようになってかなり経つというのに、『俺の気持ちを解っていない』と言われてしまった。努力が足りないのか、それとも資格がないのか……。どちらにしたって、もう、隣には戻れない。
ふたたび涙がこぼれそうになるのを、深呼吸をして堪える。これ以上泣いたって、惨めになるだけだった。
ふと、草を踏む音が聞こえてきて、手塚はタオルを外した。体を起こし、警戒心たっぷりに足音のしたほうへ目を向けると、そこには、越前が立っていた。
「越前…。なにか用か?」
「用がなきゃ、アンタを探しちゃいけないんすか?」
「当然だ。今は部活中だ。理由もなく、勝手に抜け出していいはずはない」
予想通りの答を間髪入れずに返されて、越前は軽く溜息をついた。
「じゃあ、アンタが心配だったから」
「なに?」
「アンタが心配だったから。だから探しに来たんす。それなら、ちゃんと理由があるでしょ」
訊き返され、語調を改めてもう一度言う。これで納得しなかったら許さない、とでも言うようだ。
越前の態度は、生意気を通り越して尊大でさえあったけれど、手塚には言い返す言葉が見つからなかった。気まずげに俯くと、外していた眼鏡を取り上げて、かける。レンズを通してふたたび越前を見上げると、越前は軽く微笑んでいた。
「なんてね。ほんとは、ちょっと休憩したかっただけだったりするんだけど。ひとりで抜けると、後で怒られるからさ。それなら、アンタ探して一緒にいた方がいいじゃん」
「越前」
咎める手塚の視線にも動じることなく、越前はすとんと手塚の隣に腰を下ろす。そして、自分を観る手塚の瞳を正面から覗き込んで言った。
「でも心配だったのはホント」
「っ!」
見上げてきたその瞳が、思いがけなく真剣で、手塚は息を呑んだ。大きな少年の瞳に射竦められて、身動ぎもできない。
と、
「部長、視力いくつ?」
「…え?」
「目。いくつ? って訊いてんだけど」
「なぜだ? おまえに関係あるのか?」
「いや、直接はないすけど。だって、そんなに綺麗なのに、眼鏡で隠しちゃもったいないっすよ」
おもむろに聞かれた内容は、それまでの会話の流れとはなんの繋がりもなくて、手塚は戸惑った。しかも、綺麗だなんて、男である自分が普通に言われる言葉ではないような気がする。
考え込むように眉を寄せた手塚を見上げて、越前はすこし唇を尖らせる。
「また、そうやって眉間にしわ寄せるし。そうやって力入ってると、やりにくいんすよね」
「俺の眉間にしわが寄っていてもいなくても、おまえが部活に励まなければならないのは、変らないと思うが?」
「そうじゃないっすよ。キスすんのに、眼鏡も眉間のしわも、すごく邪魔」
「…は?」
「眼鏡があると顔寄せらんないし、顔に力入ってるとすごくやりにくいんだよ。アンタ、キスしたこと、ないの?」
教えてあげようか? と、越前は手塚の眼鏡に手を伸ばしてくる。理解の範疇を超えた展開に呆気に取られて、手塚は越前の手を押さえることにも思い至らなかった。
近づいてくる越前の顔を、手塚はきょとんと凝視する。あとちょっとでも動いたら触れてしまうほどの距離まで近づいて、越前はぴたりと止まった。
「ねぇ。ほんとに、したことないの? ふつー、目ぇ閉じるんじゃない、こういうとき?」
呆れたように言われて、手塚はようやく、越前が本気で自分にキスしようとしていたことに気付く。けれど、そんな素振りは少しも見せずに、手塚は言い返した。
「おまえとキスをする気はないから、閉じない」
「じゃあ、なんで抵抗しないの?」
「抵抗してほしいのか?」
「……アンタ、意外と意地悪だね」
手塚の場合、単に、感情が表情に出にくいだけなのだけれど、一見無表情に言われると、なんだか少し腹が立つ。越前は拗ねたように手塚を見遣ると、諦めたように立ち上がった。
「ま、いいよ。今は見逃してあげる」
でも、逃がさないから。
自信たっぷりの眼差しが、負けじと見上げる手塚を余裕げに眺めて、去っていく。その背が見えなくなるまで睨んでいた手塚は、越前が角を曲がって姿を消すと、力尽きたように上体を樹の幹に預けた。
人の感情がぶつかり合うことが苦手な手塚にとって、ストレートに感情をぶつけてくる越前は、戸惑わされてばかりの不思議な相手だった。
昼食を取り、午後の練習が始まる。午前の基礎練習メニューを受けて、午後は特別強化メニューだ。得意分野を伸ばし、苦手分野を克服するために、綿密に練られた特訓メニューをこなすことになる。
高く響くインパクト音のこだまの中、活気に満ちた掛け声と共に、練習が進んでいく。
一般部員がレギュラー獲得のための練習をしているとすれば、レギュラーたちは地位の保有と大会を勝ち抜くための練習をしている。乾の立てたプログラムと、手塚の鉄壁の遂行意思。このふたつに比肩するものはなく、だからこそ、現レギュラーたちは他の追随を許さずにレギュラーの座を確保しているのだと言えよう。
今日は、己の力量を改めて把握するための、トーナメント戦。重要なのは、最後まで勝ち抜くことではなく、自分の弱点を見つめなおすことだ。だが、わざと苦手な相手同士を組み合わせての試合は、己を見つめなおすどころか、白熱した展開を繰り広げていた。
「もうすぐ、このトーナメント戦も終わるが……どうだ、乾。次のメニューに行けそうか?」
自分の試合を終えた手塚が、データ計測中の乾に近寄り、声をかけた。コートの中では不二と越前の試合が続いており、手塚がこの試合の勝者と試合をすればトーナメントが終了する。
「時間的には可能だけど、止めておいた方がいいかもしれないな。みんな全力で試合していたから、適当に切り上げないと、疲労が残って明日に響く可能性がある」
「そうか。……だが、レギュラー以外はもう少し練習をさせておきたいところだな…」
「そうだね。次のランキング戦には1年生も入るわけだし、それなら…」
会話に没頭した手塚と乾は、場所を移動することもなく、この後の予定や練習内容の打ち合わせを始めた。乾の集めた資料や、今日これまでの練習状況やらを持ち出し、ああでもない、こうでもないと、論議が続く。
「危ない、部長!!」
「避けろ、ふたりとも!」
ふたりが周囲に意識を向けたのは、数人の叫ぶ声が耳に届いたときだった。だが、その危険を知らせる声を認識したときにはもう遅く、ふたりの立っている場所に、走りこんだ勢いが止められずに、越前が突っ込んでくるところだった。
「「「うわっ!!」」」
どさっ!
「手塚!! 乾!?」
「ぅわぁっ! 大丈夫か、3人とも!?」
越前にタックルされるような体勢で、手塚と乾が倒れる。周りにいた大石や菊丸たちが、無事を確かめようと、慌てて駆け寄った。
「いってぇ……」
顔面から突っ込んでしまった越前は、手塚が咄嗟に抱き止めて庇ったために、怪我ひとつなかったようだ。鼻の頭を擦りながら、それでもすぐに立ち上がる。
「越前、無茶すんなよなぁ。まったく……」
「しょうがないじゃないっすか。なにもなければ、返せてたんすよ」
呆れた表情の桃城に、越前は唇を尖らせた。不二との試合に、なにがなんでも勝ちたかったらしい。落ちた帽子を拾ってやりながら、桃城は苦笑いをこぼす。
「手塚、乾。大丈夫?」
越前が無事だったことでほっとしたのも束の間。下敷きになったふたりの方は、まったくの無事というわけでもないようだった。河村が心配そうに横に膝をつくと、あちこちをぶつけた手塚と乾が、痛みに顔をしかめながら起き上がるのを手伝う。
「流石に、2人分の体重が乗っかるのはキツかったな…」
越前と越前を受け止めた手塚の、その下になった乾は、眼鏡をかけ直しながらつぶやく。倒れた際に何箇所かの擦り傷と、肘や腰を少し打ったらしい。だが、本人の表情からすると、怪我という怪我もしていないようだ。
「すまなかった、乾。越前、怪我はなかったか?」
「はい。助かったっす」
大石に助け起こされながら、手塚は先に立ち上がっている越前を見上げた。越前が照れたようにうなずくのを見て、手塚はほっと息をつく。
「やれやれ、とんだアクシデントだったな」
「まったくだ」
手塚も立ち上がったのを見て、大石は安心した溜息をもらす。それに頷いた手塚は、だが、次の瞬間に、小さくうめいてうずくまった。
「手塚!? どうした?」
「うっそ、手塚、どうしたの!?」
「部長!?」
その場を離れかけていたレギュラーたちが、驚いて駆け寄ってくる。手塚は「大丈夫だ」とまた立ち上がったが、歩こうとした瞬間にバランスを崩しかけて、隣にいた大石の肩に縋った。越前を抱き止めるのに無理な体勢を取ったせいで、それが倒れる乾の脚に絡まり、足首を捻ったようだった。