大石君の夏期合宿

「部長、大丈夫っすか? ごめんね。俺のせいで……」

「お前のせいじゃない。俺がもっときちんとお前を受け止めていればよかっただけのことだ」

 大石に支えられている手塚に、越前がいつになく殊勝に謝る。どことなく泣き出しそうにも見える越前の言葉を、手塚は首を振って否定した。

「ほら、ぼうっとしてないで! ストレッチして、上がる準備始めて!」

 騒ぎを知った下級生たちが、動きを止めて様子を窺っているのに気付いて、不二が指示を出す。気もそぞろながら後片付けが始まり、指揮を執るために不二と、菊丸や桃城、海堂がひとまず散開する。

「倒れたときに捻ったんだな…。医務室に運ぼう。歩かせない方がいいから、河村、手伝ってくれ」

「いい、乾。自分で行ける」

「無理するな、手塚。ここで悪化させたって、いいことはないぞ」

 手塚の足首を調べていた乾が、河村とふたりで手塚を担ごうとする。担がれるのが恥ずかしいのか、それを拒もうとした手塚を、横から大石がたしなめた。

 もちろん、大石の本心では、自分が抱いていけたらと思うが、体格的にどうしたって不可能である。自分以外の者に頼らなければならなくて、心中は穏やかではないが、それよりも手塚の具合の方が重要…と、私情を抑えこむ。

 他ならぬ大石に言われて、手塚は一瞬、言い返したそうな表情を見せたが、おとなしく従った。乾と河村に両側から担ぎ上げられ、大石と越前に付き添われて、建物内の医務室まで移動する。

「そういえば、ここって、医者いるんすか?」

「いや…。常駐は管理人さんだけと聞いているから、多分、町まで降りないといけないと思う。応急処置なら竜崎先生ができると思うけど、診察となると、別だからな」

 越前に尋ねられて、大石は医師の不在を改めて認識し、顔をしかめた。医者に見せるためとは言っても、歩けないほど捻った足で、手塚を動かしたくはなかった。

 医務室に入ると、知らせを受けた竜崎女史と管理人夫妻が待っていた。乾と河村が手塚を椅子に降ろすと、竜崎女史は手塚の捻った方の足を台に乗せて、状態を診た。左の足首が、今ではパンパンに腫れていて、かなり酷く捻ったようだ。

「こりゃぁ、ちゃんと診てもらった方がよさそうだね。車を用意してもらって、近くの病院に行ってこよう。…手塚、歩けるかい?」

「あの…」

 竜崎女史が溜息混じりに言うと、横から、管理人の妻女が口を出した。

「ちょっと離れているけど、病院よりも近いところに、東京で病院を経営している先生の別荘があるんです。ちょくちょくこちらにいらしているので、わたしたちも少しお付き合いがあるんですけど、よろしければ、その人に来てもらいましょうか? 多分、町の病院に行くより早いし、怪我人さんを動かさなくて済みますけど…」

「お願いします。この分だと、手塚を動かすのはちょっと無理だと思うので」

 竜崎女史が答えるより早く、大石が妻女に頼む。その決断の早さに、事情を知る河村はともかく、竜崎女史と乾や越前はちょっと目を見張った。

 管理人の妻女は、気安くうなずくと、ぱたぱたと小走りに医務室を出て行く。

「その先生って、どんな人なんですか?」

 乾が訊ねると、管理人は親切な笑顔で答えた。

「いい人ですよ。穏やかで、優しい人でね。自然が好きなんだそうで、お休みの度にこちらにいらしてるんですよ。東京では、ずいぶん大きな総合病院をお持ちだという話です」

 管理人の挙げた病院は、都内に住む者なら大抵は知っているような、有数の名病院だった。

「へぇ…。そこの院長先生なんだ」

 感心したような河村に、管理人はうなずき、

「でも、ぜんぜんそれを傲っていなくてね。在籍してくれている医師たちのおかげなだけで、自分がすごいわけじゃないって、そう言うような人ですよ」

 そこへ、管理人が言い終えないうちに妻女が戻ってきて、電話をしたからすぐ来てくれると告げる。

「じゃあ、後はあたしたちだけで大丈夫ですから、どうぞお仕事に戻ってください。ありがとうございました」

 竜崎女史が管理人夫妻に丁寧に礼を言う。どうやら、夕食の支度中だったのを抜け出して来てくれていたらしい。

 管理人夫妻が医務室を出て行くのに重なるように、外から車のエンジン音が聞こえてきた。



 東京で大病院を営んでいるというのだからと、勝手に年嵩の男性だと思い込んでいたのに反して、やって来たのは、ほややんとした印象の年齢不詳な外見の女性だった。

「あらまあ。ずいぶん派手にやったのねぇ」

 清城と名乗ったその女性は、竜崎女史から事情を聞くと、手塚の足を見るなり、感心したようにそう言った。その緊張感のない口調と邪気のない微笑みに、様子を見守っていた部屋の張り詰めた空気が、一気に情けなく抜けていく。

「練習中に、後輩を受け止めて転んで……」

「あら、そうなの。それは素敵な先輩ね。それに、その後輩の子も、男の子なんだもの。そのくらい元気な方がいいわね」

 怪我をしたときの状況を説明しようと、手塚が口を開くと、清城は朗らかにうなずいた。

「手塚のお母さんに似てる……」

 並外れた清城の大らかさに度肝を抜かれて、大石はぽつりとひとりごちる。ふぅん、と河村が応え、清城を心配そうに見た。

「なんだか、大病院の院長先生には、見えないんだけど……」

「ずいぶん、若そうに見えるしね」

「あら、そう? ありがとう。いくつだと思う?」

 手塚の足を診察しながら、清城は越前のつぶやきに応える。聞こえていないと思っていた一同がげっと固まるのに構わず、清城はにこにこと手塚に笑顔を向けた。

「よかったわね。ちょっと重いけれど、捻挫よ。筋に異常はないわ。レントゲンを撮ってないけど、骨折もしていないと思う。10日くらい不自由するでしょうけれど、3週間も経てば完治するわよ」

「ありがとうございます」

「ただし」

 ほっとして頭を下げる手塚に、清城は思いのほか強い語調で続けた。

「しばらくは、部活は禁止よ。特に合宿中はね。早く治したいのなら、お部屋で静かにしていらっしゃい。先生もお友達も、この子をよぉぉく見張っていてちょうだいね。どうやら、この患者さんは、生真面目すぎて自分を軽んじる人のようだから」

 清城は印象と違って、意外と鋭い人物らしい。手塚の性格をずばりと言い当てたセリフに、手塚以外の者は内心で拍手する。

「ですが、部長の自分が練習を休むわけには……」

「あら。こちらの部活は、部長さんがいないと練習もできないほどの弱小部なの?」

「青学テニス部は全国大会にも出ます」

「そんなに立派な部なのなら、代わりに指揮を執れる人がいるわよね。だから、君は休んでいらっしゃい」

 優しそうな笑顔の割に、言質を取って抑えこむ辺り、なかなかの曲者である。大石は、手塚の母に似ていると思った感想を若干変更した。曰く、手塚母の感覚を持った不二である、と。

 清城は慣れた手つきで手塚の足に湿布を貼ると、サポート力の強い厚手の包帯をしっかりと巻いて足首を固定した。

「今日は、湿布が温くなったと思ったら、すぐ新しいものに換えてね。長くても3時間に一回くらいのペースかしら。今夜はかなり腫れて熱を持つから、放っておくと湿布の意味がなくなってしまうわよ。それと、包帯を巻くときには、足首がきちんと固定されるように気をつけること。動かしてはダメよ」

「わかりました」

「また、様子を見に来るわ。そのとき、少しでも運動した形跡があったら、そのときには考えがありますからね」

「はい」

 注意事項を申し渡すと、手塚の返事に満足したようにうなずき、清城は来たときと同じようにするりと帰っていった。

「まあ、とにかく、完治に時間のかかるような怪我でなくてよかった。お医者の先生もああ言っていたことだし、手塚はしばらく休むことだね」

 竜崎女史も、そう言うと、後は任せたと医務室を出て行く。

「じゃあ、手塚。部屋に戻ろう。肩を貸すよ」

「すまない、乾」

「いいって。同室なんだし、使ってくれて構わないよ」

 手当てが済んだことで少し楽になったのか、今度は河村に反対側も支えてもらわずとも、なんとか歩けた。一歩一歩、痛みと固定されたために歩きづらい足に負担をかけないよう、少しずつ進んでいく。

「そうだ、大石。すまないが、この後を頼めるか。こんな様子では、先生の注意がなくても、みんなの前には出られそうもない」

「わかった。こっちのことは気にしないで、ちゃんとおとなしくしてろよ」

 手塚が余計な気を回しては…と、大石は安心させるように微笑んでうなずいた。

 手塚が後を託すのが自分だということに、優越感がないわけではない。それでも、手塚の傍に付きっきりでいられないことが悔しい。そんな心配と嫉妬が、内心でどろどろと渦を巻いているけれど、手塚にだけは悟られるわけにはいかないと思う。

「ほら、越前。急いで大浴場に行かないと、風呂に入り損ねるぞ」

 大抵の私情なら、後回しにできる自信はある。だが、手塚に関することとなると、どんな些細な気持ちさえ、抑えることも難しい。自分が普段どおりに振舞えているか、それを気にしながら、大石は所在なさげに立っている越前に声をかけた。

「一旦部屋に戻って、着替えとかを持ってこないといけないからね。急ごう」

 河村も、あえて深刻さを見せずに、ふたりに声をかける。先輩ふたりに急かされて、越前も重い足取りで歩き出した。




 夕食の席で、手塚の負傷が告げられると、部員たちにどよめきが走った。だが、大会中でなかったことが幸いして、大きな動揺には至らずに済んだようだ。

 そして、〝夫〟である大石、同室の乾、自責と下心を抱える越前が、それぞれに、手塚への手厚い看護を心に決めつつ、合宿3日目は夜を迎える。




3日目夜



 やはり、清城の言葉は間違っていなかった。

 あれから短時間で、靴が履けないほどに手塚の足は腫れあがり、湿布を張り替えようにも、足に力を入れることができなくて、自分では包帯も巻けないくらいになってしまった。

 夕食の後、201には大石と、手塚にとっては不思議なことに越前が、歩き回れない手塚の手伝いのためにやってきて、痛みとショックで情緒不安定な手塚を大いに刺激してくれた。そんな手塚の様子に気付いた大石が越前を連れ出してくれなかったら、ヒステリックに泣き喚いてしまったかもしれない。

 今は、少しでも気を楽にしたくて、ベッドの上に足を投げ出して座り、ぼうっと天井を眺めていた。

「できたぞ、手塚」

 先ほど、なにか思うところがあったらしく部屋を出て行った乾が、ボトルを持って戻ってきた。

「手塚のために作ってきた。特別製捻挫治療用乾汁だ」

「………………正気か?」

 乾が持っているのは、とても人間が口にしてよいものとは思えない色をした液体だ。しかも、流動率が恐ろしく低そうである。不二ならばともかく、それをまともに飲める自信は、自分にはない。

「乾、味は見たのか?」

「一応、見ることは見た。大丈夫だ、吐かない程度に整えてある」

 そんなもの、整っていないのと変わりない。手塚の表情が、瞬時に決死の形相に変化した。

「ちょっと待て! 飲めるか、そんな危険なもの!」

「危険なことがあるか。飲めば、治癒が早くなるんだぞ」

「別の意味で寝込みそうだ、遠慮する!」

「よく冷やしてある、味は判りにくいよ。一気飲みすれば、問題ない」

「大ありだ! 飲み下した瞬間に吐き戻しそうだ、そんなもの!」

「鼻をつまんだら、大丈夫さ」

 手塚の頑なな拒絶に乾は溜息をつくと、手塚のベッドに乗りあがり、鼻をつまんで無理やり飲ませようとまでし始めた。

「なにがあっても飲ませる気か!? 俺はまだ死にたくないぞ!」

「だから、死にはしないと言ってるじゃないか」

 その手を振り払おうと、手塚は必死で抵抗する。乾がじれったそうに舌打ちした。

「往生際が悪いぞ、手塚。せっかくの人の厚意を、無にするって言うのか?」

「厚意だと思える厚意と、そうじゃない厚意がある! そんなものに、往生できるか…っ!」

 ベッドの上から逃げることの出来ない手塚と、その手塚に圧し掛かって乾汁を強いる乾。その拮抗した状態を崩したのは、やはりこの人だった。

「手塚。湿布の追加、預かってきたよ」

 かちゃりとドアを開けて入ってきたのは、不二。その彼が、部屋に入った瞬間目にしたのは、手塚を組み敷く乾。思いもよらない光景に不二は一瞬だけ足を止めたが、すぐさま、手近なところに湿布の箱を置くと、にこりと微笑んでこう言った。

「邪魔してごめんね。気にしないで、続きをどうぞ」

 そして閉められる扉に、手塚は乾の下から怒鳴った。

「待て、不二! 助けろ!! 心得顔で立ち去るな!」

「やだな、手塚。僕、そんなに野暮じゃないよ」

「だから、違うと言っている!!」

「照れなくていいったら」

「…ええい、お前じゃ話にならん! 大石を呼べ!!」

「手塚、見苦しいぞ」

「うるさい、乾! 見苦しいもへったくれもあるか。ただでさえ練習に出られないというのに、そんなものを飲んで悪化するのは願い下げだ!」




 手塚が乾の魔手から救い出されたのは、それから数十秒後。

 手塚の怒鳴り声に不審を抱いた大石が様子を見にきてからのことだった。


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