大石君の夏期合宿

4日目



 河村の肩を借りてグラウンドに出た手塚は、頭が未だにすっきりしなくて、顔をしかめて首を振った。

 昨夜はあんな有様で、まだ身体の芯に疲れが残っている気がする。おまけに薬に頼るのが嫌で、鎮痛剤を飲まずに寝たのが悪かったらしい。湿布は冷たくて心地よいのに、足自体はひどく熱くて、おまけに鈍い痛みが続くものだから、眠りが浅かったのだ。

「大丈夫、手塚?」

「ああ…なんでもない。気にしないでくれ」

 気遣わしげに声をかけた河村に、手塚は素っ気なく応える。周囲に気を配れるような精神状態ではない今、心配してくれるのはありがたかったが、できるだけ放っておいてほしかった。

 昨夜の今朝で乾に肩を借りる気にはなれなくて、わざわざ頼んで河村に来てもらったのだが、それも手塚を落ち着かない気持ちにさせていた。河村が悪いのではない。河村に頼んだ瞬間、不二の目がすっと開き、その後もずっと、河村の肩を借りる手塚を不二の視線が威嚇するように追ってきている、それが居心地悪いのだ。

 ベンチに座らせてもらうと、礼を言って練習に戻ってもらう。自分はここで、練習できないまでも、様子を見守るつもりだ。河村が立ち去ると同時に不二の視線も消えて、その意味でも手塚はほっと安堵した。

 ふと、あくびが出そうになって、慌ててかみ殺す。大石が同室で、しかも2人部屋だったなら、もう少し眠れていたかもしれなかったが、大石との喧嘩の原因である大石の気持ちを理解しないうちは、大石の隣に戻れないと決めたから、それはできなかった。

「なぁん…」

 甘えるように、足元でフジが鳴く。手塚は掬うようにフジを抱き上げると、膝の上に乗せて、顎を撫でた。

「おまえはいいな」

 気持ちよさそうに目を細め、手塚に撫でられているフジに、思わず語りかける。偏見かもしれないが、それでも、猫に自分のような悩みがあるようには思えず、羨ましくなってしまう。

 タカサンも寄ってきて、湿布の匂いが気になるのか、手塚の左足に鼻を近づける。

「よしておけ。おまえには匂いが強すぎるだろう」

 頭をぽんぽんと軽く叩くと、タカサンはとんとベンチの上に乗り、手塚の横に腹這いになった。

 他に誰が来るでもなし、手塚は咎めずにタカサンの耳をかいてやりながら、始まった練習に目を向けた。



「しっかし、英二先輩のペットだってのに、ずいぶん部長に懐いてますね~、その猫」

 休憩時間になって、レギュラー陣はなんとなく手塚の座るベンチの周りに集まってきた。相変わらず手塚の膝の上にいるフジの姿に、桃城が感心する。懐いている理由を聞かれては…と、大石と菊丸がぎくりとするのに気付かず、手塚は首をかしげた。

「〝その猫〟じゃない。名前を教えていなかったか? こいつは〝フジ〟だから、そう呼んでやってくれ」

「やだな、部長。不二先輩の名前を呼び捨ててるみたいで、それはちょっとできないっすよ」

「そうか?」

「そうっすよ」

 幸運にも、桃城はそこには気が行かなかったようで、手塚がフジをまったく自分の猫のように扱っていることに対してなにも言わなかった。大石と菊丸は、こっそり胸を撫で下ろす。そこへ、当の不二が釈然としない表情で加わる。

「でもさ、英二。なんでこの仔が僕と同じ名前なんだい? 『ぴったりな気がした』って、どの辺?」

「ん~…、なんか、わけが判んなくて、可愛いとこ。…かな?」

「なにそれ。僕、そんなにわけが判んない?」

「うん、なんとなくだけど。ミステリアス、ってゆーのかにゃぁ? あと、ちょっとセクシーなとことかも、似てると思うよ」

「……セクシー、なんだ……僕……」

 思ってもみなかった言葉に、喜んでいいのか怒るべきなのか、不二はどちらともつけかねて、複雑な表情を浮かべる。そこへ、横で聞いていた河村が、おっとりと口を挟んだ。

「でも、俺もこの仔、不二に似てると思うよ。ちょっと甘えっこで、でもあんまり構われると機嫌が斜めになってさ。可愛い顔してるのに表情が醒めてるとことかも、すごくそっくりだよ」

「うーん……タカがそう言うんなら、それでもいいけど……」

 ………いいんだ、不二……。

 納得しきれなさそうながら、それでもそう言った不二に、その場の全員の内心にそんなツッコミがよぎる。

「じゃあ、犬の名前は、どうして河村先輩なんすか?」

 訊ねた海堂に向き直って、菊丸は得意げに胸を張る。

「似てたから」

「いや、似てるのは確かにそう思いますけど。そうじゃなくて、どの辺が…?」

「ぬいぐるみみたいなとこ。なのにおっきくて、なんか頼れそうな感じがしてさ。すごくあったかそうなとことかも。おまけにこいつ、すごくおとなしいし。リードつけると、バーニングするけどさ」

「……英二?」

 菊丸が列挙していく河村とタカサンの共通点を聞くうちに、不二がすっと開眼する。菊丸は慌ててにゃはは、と笑うと否定するように手を振った。

「だーいじょうぶいっ! タカさんがどうとかじゃなくて、こいつがタカさんと似てるって話だからさ。不二から取ったりなんてしないし、そもそも、俺がタカさんのこと好きなのは、友達としてだから」

「…ならいいけど」

「ああ、ほら。不二、大丈夫だから」

 拗ねたようにぷくっとふくれた不二を、河村が引き寄せる。ふくれた頬を河村の大きな手でぺしょっとつぶされて、不二はうなずいた。

 と、凄まじい勢いでシャープペンシルを走らせている乾に、越前が尋ねてみる。

「……乾先輩、なにしてんすか?」

「いや…、ちょっと、個人データを……」

 こんなデータ、なにに使うんだ…? とでも言うような目線を、乾は平然と受け流す。もういい加減、慣れっこになってしまっているようだ。

 そんな話をしているうちに、休憩時間はあっというまに過ぎる。

「それじゃ、そろそろ…」

 と大石が休憩終了の号令をかけようとしたときだった。

「あらあらまあまあ。お願いしておいたというのに、これはいったいどういうこと? いったい誰が、患者さんを外に連れ出したの? さあ、今すぐ、お部屋に戻ってちょうだい」

 ほややんとした口調は変わらず、けれど有無を言わせぬ力強さの語調で、清城の言葉が飛び込んできた。振り向けば、すぐそこに清城が腰に手を当て、仁王立ちで立っている。

「「うわぁ! 先生、ハイヒールでコートに入らないでくださいっ!」」

「そんなことはどうでもよろしいわ。今すぐ患者さんを部屋に連れ戻してちょうだいな。そうしたらコートから出て行くわ」

 驚いて叫んだ桃城や大石にかまわず、清城はまっすぐに手塚に歩み寄る。

「歩いてはダメと言ったのに、どうして言いつけを守ってくれないの? わたくしの言うこと、そんなに聞けない?」

 しゃがみこみ、ベンチに座ったままの手塚と目線を合わせた清城は、悲しげに首を傾げる。しゃらん…と音がして、清城の耳のイヤリングが清かな音を立てた。それだけで、女性馴れしていないのも手伝って、手塚は困り果てて俯いてしまう。

「いや……その。やはり自分が、練習を見ていないと…と、思って………」

「それは、誰かに代わってもらってちょうだいと言ったはずね。言うことを守れない患者さんなら、わたくしにも考えがあると言ったわね? 覚悟はいい?」

「「「「か…、覚悟…?」」」」

 清城の、ちょっと物騒な物言いに、居合わせたレギュラー陣は反射的に一歩退く。

「君と君、患者さんを部屋に連れて行って。それから君、副部長さんだったわよね。後を任せても平気ね? それと君。患者さんの監視をお願いするわ」

 怯んだレギュラー陣に、清城がてきぱきと指示を下していく。背の高い乾と河村が手塚の連行命令を受け、昨日の診察の際に肩書きを名乗っていた大石が後を託され、海堂が手塚の監視を命じられた。

「ちょ…、ちょっと待って! 部長の付き添いなら、俺がやる!」

 そこに割って入ったのは、清城の剣幕に呆気にとられていた越前である。

「海堂先輩みたいな恐い顔が傍にいたら、部長だって落ち着かないよ。その代わりに、俺がついてるから」

「待て、越前! 手塚の付き添いなら、俺が……」

「大石副部長は、今、練習の監督を頼まれたばっかりじゃないっすか」

「……ぐ…っ」

「だから、俺がついてるよ。安心して、部長。絶対に不自由なんてさせないから」

 清城を押しのけて手塚の前にかがみこんだ越前が、戸惑う手塚の目を覗く。その大きな目に魅入られるように、手塚は無意識のうちにうなずいていた。

 すい、と清城の手が動き、河村と乾に合図を送る。すっかり清城に飲み込まれているふたりは、合図に従って手塚を担ぎ上げた。

「お部屋に連れて行って。…それと、昨日患者さんにぶつかった君。君が付き添ってくれるのね? じゃ、一緒にいらっしゃい」

 凛然とした清城の態度に、レギュラー陣は粛々として従う。

「………意外と、迫力あるね……」

 手塚を運ぶ後から建物の中に入っていく清城の背中を見送って、不二がぽつりとつぶやいた。「不二先輩並みっすね」とは、部員たちすべての素直な感想だったが、それを口に出せる勇気ある者はその場にはいなかった。



 「それじゃお願いね、越前君。トイレとかは仕方ないけど、他には絶対に歩き回らせちゃダメよ」

 そう言って清城が部屋を出て行くと、緊張が解けた手塚はぐったりとベッドに身を沈めた。

 清城は念のために診察をして、替えの湿布薬を置いて行ったのだった。それだけのことなのだが、清城ほどの美貌の女性と間近に接したことのない手塚にとっては、拷問にも似た時間だったのである。

「……部長、大丈夫?」

 呆れたような口調で、横の椅子に座った越前が訊ねた。手塚は力なく、それでもうなずく。

「まったく、まだまだだね。確かにあの人綺麗だけど、そんな緊張することもないじゃん。化け物とかじゃない、ちゃんと人間なんだし、別に、あの人が恋人ってわけでもないんだし」

「………それは、そうだが」

「綺麗な人ってだけで緊張してたら、これから、心臓幾つあっても足りないよ? どうせあの人、しばらく診察で来るんでしょ。いい機会だから、慣れとけば?」

「努力する……」

 疲れた身体を投げ出してシーツに埋もれる手塚は、越前にはとても無防備に見える。その無防備さが自分の嗜虐心を、そしてテニスでは一度も勝っていない相手だということが自分の征服欲を、これでもかと刺激してくれるのだ。

 それでも、まずは警戒されないことが第一。越前は逸る気持ちを抑えて、静かに本を読み始めた手塚の横顔を眺めて満足することにした。




 騒動が起きたのは、その夕方のことだった。時間的には、練習後、風呂に入っているくらいの時間である。

 まったく練習をさせないわけにもいかないと、午後には越前を練習に戻らせていた手塚がひとりで本を読んでいると、ばんっと勢いよく菊丸が飛び込んできたのだ。

「どうした?」

 いつものように平静な口調で尋ねる手塚に、菊丸は涙を溜めた目で手塚に抱きついた。

「どうした? なにがあったんだ?」

 同室の乾がいないことに内心で感謝しながら、いきなり飛びつかれて驚きつつ、それでも手塚は落ち着いた口調でもう一度訊ねる。背に腕を回して抱き、水分をたっぷり含んだ洗い髪を幾度かなでてやると、菊丸はそれですこし落ち着いたのか、顔を上げた。

「手塚……俺、どうしよう!? リング、なくしちゃったかもしれない!」

「リング? …って、あの?」

「そうだよ! それ以外、どのリングがあるんだよ!? 風呂に入るとき、外して、ロッカーに置いといたんだ。誰もロッカーを覗いたはずないのに、風呂から上がったらなくなってたんだよ! ……こんなこと、大石には絶対に言えない。ねぇ手塚、俺どうしたらいい!?」

 今にも零れ落ちそうなほどに涙を溜めている菊丸に、手塚はひとつ溜息をついて言った。

「とにかく、浴場からここに来るまで、通ったところをもう一度探して来い。難しいだろうが、焦るんじゃないぞ。物陰や、脱衣所の簀の下なんかも、よく探すんだ。…手伝ってやりたいが、俺は動けないから…、心細いかもしれないが、ひとりで頑張るんだ。できるな?」

 手塚の諭す口調に、菊丸は無言で大きくうなずく。

「よし。探している途中で大石になにか訊かれても、答えるんじゃないぞ。見つかったら、すぐに来い。一緒に口裏を考えよう」

「うん」

「じゃあ、早く行って、見つけて来い」

「うん」

 菊丸が部屋を飛び出していくのを見送って、手塚はひとつ溜息をついた。



 ぺたぺたと、菊丸は宿舎の床を這っていく。手塚の部屋から、大浴場まで。それは決して短い距離ではないし、手塚は焦るなと言ったけれど急がなければ休憩時間が終わってしまうのも確かだ。菊丸は必死になって、目を皿のようにして大浴場目指して進んでいく。

「英二、どうした?」

「あ……うん、まあ……ちょっちね」

 予想通り、たまたますれ違った大石が、驚いて訊ねてきた。手塚に言われるまでもなく、大石には言えないと、菊丸は曖昧に誤魔化そうとする。

「なにか探し物か? 手伝うよ」

「う…っ、ううん、大丈夫! それより、大石。ホールに行って、みんなの様子見てくる方がいいんじゃない?」

「……そうか? 英二がいいんなら、構わないけど……。困ったことがあったら、すぐに言えよ。必ず助けるから」

「……うん…。ありがと、大石」

 菊丸がちょっと笑んで答えると、大石は安心したようにうなずいてホールの方へ歩いていった。実際、手塚が身動き取れなくなって、大石の仕事は一気に増えている。大切なリングをなくしてしまったかもしれないなんて、それだけでも言えないことなのに、大石の忙しさを思えば、余計に言えない。

 大石の優しさに、弱くなった心がちょっと涙ぐみそうになったけれど、菊丸は気を取り直して、もう一度廊下に目を向けた。

「ない…、ない…っ! こっちにもない! どうしよう!?」

 歩いた道筋を辿って、菊丸はとうとう大浴場にたどりついてしまった。脱衣所の簀を片端から持ち上げて、下に落ちてはいないかと探すが、あのシルバーのリングは影も形もなかった。

「どうして!? 通ったところは全部見たのに!」

 あまりにパニックになりすぎて、菊丸の頭には既にもう一度探してみるという考えが浮かばなくなっていた。どうして見つけられないのかという思いでいっぱいになって、もしかしたらまだ探していないところがあるかもしれないなんて、露ほども思わない。

「どうして!? なんで? なんで見つからないんだよっ!? こんなに探してるのに!」

 八つ当たりに、誰にともなく怒鳴る。その拍子に、一粒、雫が落ちた。

「英二」

 不意に、穏やかな声が、そんな菊丸にかけられた。慌てて振り向けば、不二が立っている。自分が取り乱しているところを見られたと知って、菊丸は一瞬迷い、何もないフリをすることに決めた。

「…にゃに、不二? 俺に用?」

「……。ちょっと、寂しいかな。仕方ないことだけど」

「?」

 不二の独り言に、思い当たる節のない菊丸は首を傾げる。その菊丸の前に、不二がすっと手を差し出した。

「これ、英二のでしょ? 裏に〝For E〟のイニシャルが入ってたから、間違いないはずだけど」

 その上に乗っているのは、銀のリング。菊丸が探しているものと、寸分違わない。

 菊丸は、自分たちの関係を秘密にしようと決めているのも忘れて、不二の手に飛びついた。もぎ取るようにそれを取ると、光にかざして確かめる。裏側に〝For E〟〝From S〟と刻印の入っている、世界にたった一つのリング。

 もう2度となくしなどしないと誓うように、急いでそれを左の薬指にはめる。先ほどまで、瞳にいっぱいの涙を溜めていたのが嘘のように、菊丸は不二に抱きついた。

「ありがとう! ありがと、不二。どこで見つけたんだよ? 俺、一生懸命探してたんだよ!?」

 満面の笑顔で抱きしめる菊丸とは対照的に、抱きつかれている不二は少し困ったように眉を寄せて、複雑な面持ちになる。

「う~ん……、実は、だからちょっと言いにくいんだけどね……。風呂から出た後、英二が服着てすぐに飛び出して行ったでしょ。そのとき、ちょうど英二の使ってたロッカーのすぐ下に、落ちてたんだよね」


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