大石君の夏期合宿

「…えっ!? ……マジで?」

「うん。マジで」

 すぐに気付いて、菊丸を追いかけようとしたのだが、不二が服を着て廊下に出たときにはもうすでに菊丸の姿を見失っていたのだという。

「次に見つけたときには、ちょっと声かけるの躊躇っちゃうくらいに真剣なんだもん。なかなかタイミングつかめなくて、困っちゃった」

 だから渡すの遅くなっちゃって、ごめんね。そう言う不二に、菊丸は力いっぱい首を振った。

「そんなことない、拾ってくれてありがとう! ほんと嬉しい、今なら何でも不二の言うこと聞くよ!」

「…ほんとに、英二?」

「うん! ほんとほんと。なにかお礼したいよ。俺でできることがあったら、なんでも言って」

「そう」

 菊丸の言質を取った不二の目が、一瞬だけ意味ありげに光ったのには、菊丸は気付かなくて。

「それじゃ、その、どう見ても結婚指輪に見えるリングが、どうして前に部室で大石が落としたって言ってた指輪と同じで、刻印のイニシャルが違うのか、説明してくれる?」

「……えっ?」

 途端、菊丸の動きが凍りつく。

「だから。あのとき大石が落としたって言ってた指輪の刻印は、〝For K〟だったんだよね。で、大石は自分からあげる物だって言った。そんな意味深な物、何個もバラまくような物じゃないし、大石だってそんな奴じゃない。じゃ、どうして刻印違いでまったく同じデザインのものがあるのかな? って思っても、不思議じゃないよね」

「う……」

「僕としては、あの〝K〟は絶対、手塚のことだと思うんだけど、まあ、それはこの際置いといて。大石が贈った指輪がふたつある理由、英二は知ってるでしょ? 僕の言うこと、なんでも聞いてくれるんなら、それを教えてほしいな」

「あ…と、えーと……」

 先ほどとは違う意味で困り果てて、菊丸は救いを求めるようにおろおろと視線を彷徨わせる。その肩を押さえて、自分の方を向かせて、不二はにっこりと微笑んだ。

「ね、英二? 僕と英二の仲じゃない?」

 悪魔に射竦められたとは、まさにこの状態だ……と、菊丸は渇いた笑いの陰で思った。

「と…、とりあえず、手塚が心配してるんだけど、行ってきていい?」

「じゃ、僕も一緒に行くね」

 予想外の不二の切り返しに、ひとまず手塚に相談を…と思っていた菊丸の動きが、驚愕で止まる。

「マ…ジ、で?」

「マジで。別にいいよね、やましいことがないんなら?」

「やま…っ、やましいことなんか!」

「じゃ、一緒に行こ」

 不二の笑顔に押し切られ、菊丸は気の進まない足を手塚のいる201に向けて動かし始める。

「手塚のとこの用が済んだら、教えてくれるよね?」

「……………………………………………うん」

 観念した菊丸は、心の中で思いっきり大石と手塚に謝りつつ、うなずいたのだった。




 そして夕食後、乾を追い出した201で、菊丸と1対1での手塚のお説教が延々と続いたのであった。

 そして、不二が大石家の秘密の共有者になったのも、この日のことだったのである。




4日目夜



 夕食後の自由時間も終わり、202に戻ってきた不二は、ドアを開けて深々とため息をついた。

「しんっじらんない。なんで、ドア開けて、部屋にいるのが君たちなのかな? せっかくタカと一緒になれてたのに」

 心底不満そうなその言葉に、ファンタを飲んでいた越前と、ポータブルプレーヤーでMDを聴いていた桃城が、げんなりした表情を見せる。桃城は、プレーヤーを止めてイヤホンを外すと、途方に暮れた口調で言った。

「またっすかぁ、不二先輩? 部屋換えからこっち、もう3日目っすよ~? いい加減、諦めてくださいよ」

「『諦める』なんて言葉を知ってたら、レギュラー不動の座なんて座れないよ」

「いや、まあ、そうっすけど…」

 不二の不機嫌な切り返しに、桃城は言い淀む。不二はぼすっと勢いよく自分のベッドに腰をおろすと、自分の方を向いている後輩2人にひとつ提案してみた。

「ねえ、桃と越前、204のタカと換わってよ。そしたら僕、中学在学中はずっと恩に着るよ?」

「冗談! いくら不二先輩の頼みでも、そればっかりはカンベンしてくださいよ。マムシと一晩一緒だなんて、考えただけでも鳥肌立っちまいますよ」

「俺は別にいいっすけど、朝になって、キレた海堂先輩に俺が殺されてなかったら、海堂先輩の方がノイローゼになって逝っちゃってるかもしれないっすよ?」

 間髪入れずに返ってきた答に、不二は観念したように仰向けに転がった。あの一途な2年生は、一途すぎるがゆえに、親しまれ難いらしい。本人が意識してのことではないことを考えれば、少々不憫な事実だ。

「あーあ、手塚も、なんで部屋換えなんてしたのかな? あの仔たちの世話なら、英二さえいれば別に、大石とじゃなくたってできるだろうにさ。こうなると、手塚の判断が恨めしくなってくるよ…」

 不二のどことはなしに淋しげな独り言に、桃城と越前は顔を見合わせた。

「こういう場合、恨む対象って、手塚部長じゃないんじゃないっすか、不二先輩?」

「そうそう、こういうときはやっぱり、連れてきちゃった英二先輩や、ついてきちゃった犬猫の方を恨むもんじゃないんすか?」

 越前と桃城の当然といえば当然の問いかけに、不二は起き上がると不愉快そうに唇をとがらせた。

「だって、英二のことは大好きだから、恨んじゃったら可哀想だし、だいたい、僕があの仔たちのこと、悪く思えるわけなんてないじゃないか。僕とタカの名前なんだよ?」

「不二先輩、犬の方はともかく、あの猫が自分と同じ名前なの、嫌なんじゃなかったんすか?」

「僕がいつそんなこと言った? タカが可愛いって言ってくれたのに、嫌なわけないじゃないか」

 ………今日の昼、確かに不満そうだったっす…。それに、タカさんが言ったのは、「似てる」ってだけで、不二先輩のことを可愛いとは、ひとっことも言ってなかったっす……。

 桃城と越前の内心では、ものすごくつっこみたい衝動が駆け巡るが、自分の身の安全を考えれば、それは決して言ってはいけないことだった。

「タカぁ……」

 不二が、今度はうつ伏せに転がって、枕を抱えてつぶやく。その捨てられた仔猫のような姿に、桃城と越前は困り果ててお互いを見遣った。

「どうしたもんかな…。さすがに、ちょっと気の毒な気はするんだけどさ……」

「そんなこと言ったって、桃先輩、部長に直談判する勇気、ある?」

「………………………………ない」

「っしょ? じゃ、仕方ないっすよ。そのうち、なるようになるんじゃないすか?」

 飲み終えたファンタの缶をべきょっと握りつぶして、越前はごみ箱にシュートする。

「おやすみ、桃先輩。明日、寝不足で困っても、知らないっすからね」

「あ…、待てよ。俺ももう寝るよ」

 ベッドに潜り込んだ越前を真似るように、桃城もベッドに入る。

「不二先輩、消しますよ?」

「うん…。おやすみ、桃。越前」

 電灯のスイッチに手をかけて問えば、もぞもぞとシーツをかぶった不二が、力のない声で答えた。

「いいじゃないっすか、先輩。明日の朝になったら、また一緒なんすから。先輩たちができるだけ一緒にいられるように、俺、気をつけますから」

「……………ありがと、桃。おやすみ」

 その憔悴加減に哀れさを誘われた桃城が言うと、不二は今にも泣き出しそうな微笑で応えた。




5日目



 温まるたびにこまめに湿布を替えていたおかげなのか、朝起きると、足首の腫れはかなり引き、なにもしなければ痛みもほとんど感じないくらいになっていた。

 が、昨日の手塚の様子に日参の決意を固めた清城は今日も来るはずで、となると、手塚は部屋から出ることはできない。練習に加われない歯がゆさを持て余しながら、手塚はベッドの上からテニスコートを眺めていた。

 そんな手塚の様子を承知してか、レギュラーたちが入れ代わり立ち代わりやってきて、練習の様子を報告したり、メニューの相談をしたりする。手塚としては退屈はしなかったが、自分のことを気にしすぎて練習を疎かにするのは許さない、と言い渡さなければならなかった。

「あらあら、今日はおとなしくお部屋にいてくれたのね。よかったわ」

 練習に加われないストレスから、部屋の静寂にさえ苛立って、本を読むことも放棄していた手塚に、不意にそんなのほほんとした声がかかる。言わずと知れた、清城だ。手塚はドアの方を振り向くと、ぺこりと頭を下げた。

「おはようございます」

「おはよう。今日は、気分転換になればと思って、いろいろ持ってきてみたわ。気に入ってもらえるといいのだけど」

 そう言って、清城は背後を振り返る。後ろには、なにに使うのかも判らない機材やら箱やらを持たされたテニス部員たちが続いていた。

 「じゃあ、荷物をお部屋の中に置いたら、練習に戻ってちょうだいな。みんな、ありがとう。助かったわ」

 清城に言われて、彼らはなにやら満足げに、荷物を降ろしては帰っていく。やけに重たそうなコードの束を運んできた河村と桃城が「じゃ、ここに置いときますんで」と言って去っていくと、最後には、左手に白い手提げの箱を、右手にフタ付きの籠を下げた越前が入ってきた。

「……これは、いったい?」

 あれよあれよという間に部屋中に正体不明の荷物を運び込まれて、困惑した面持ちで手塚が尋ねると、清城はうきうきとスチーマーのセッティングをしながら答えた。

「部長さん、お部屋の中で退屈していて、ストレスも溜まっていたりするかしら、と思って、リラクゼーション用の道具を持ってきたの。よくエステティックサロンで受けられるアレ。意外と気持ちがいいものよ。貴方は素がいいから、わたくしも腕が鳴るわ」

 想像もしてみなかった清城の言葉に、手塚は絶句した。女性の好む、リラクゼーション? そんなものを、まさか、男性である自分が受けることになるなど、いったいどうして、予想できるだろう?

 だが、手塚がなにか言う前に、入り口に立ったままだった越前が清城に声をかけた。

「清城うらら先生、これ、どこに置くんすか? けっこう重たいんすけど」

「ああ、別にどこでもいいわよ。蹴飛ばしたりしない場所に置いてちょうだい」

「越前、どうしておまえがここにいるんだ。早く練習に戻れ」

「うらら先生が俺が戻ってもいいって言うなら、戻りますけど。一応、助手として来たんで」

「先生!」

 まさか、清城が越前を駆り出したとは思いもしなかった手塚は、つい声を荒げて清城を咎めた。そんな手塚に、清城は残念そうに頬に手を当てる。

「あら…、やはりダメ? 一人、助手がいてくれたら助かるわ…と思ったのだけど。でも、そうよねぇ、部員さんの練習をお邪魔するわけにはいかないわよね。無理言ってごめんなさい、越前くん」

「いや、俺は別にいいけど。…練習戻った方がいい?」

「ええ。振り回してしまって、ごめんなさいね」

「じゃ、昼にまた来るよ、部長」

 手塚の傍に張り付いていられなくなって、内心では不満しきりだったけれど、引き際が肝心と心得た越前は、そう言って201を後にする。こうしておけば、昼に来たときには手塚も邪険に追い払えなくなるだろうという計算もあったりして。

「可愛い後輩さんね」

 越前がおとなしく練習に戻っていくのをベッドの上から見送っていた手塚は、不意の清城のそんな言葉に、はっと我に返った。

「はい?」

「あの子、越前くん。可愛いわね、と言ったのよ」

「………………………………………………」

 にこにこと微笑んでいる清城は、スチーマーのセッティングを終えて、今は一抱えもあるバスケットからウェッジウッドのティ・セットを取り出してお茶を入れる支度をしている。

「紅茶はお嫌い?」

 難しい表情で考え込んでしまった手塚に、清城は首を傾げる。手塚が反射的に首を振ると、清城はよかった、とつぶやいてガラスの密閉ビンを取り出した。

「ダージリンのセカンドフラッシュがまだあったから、持ってきたの。きっと美味しいわ。F&Mのショートブレッドもあるのよ」

「あの…、そうではなくて。清城先生……」

「うららと呼んでほしいのだけど、ダメかしら?」

「では、う…ら、ら…先生」

 勢いで名を呼ぼうとして、でも気恥ずかしさについしどろもどろになってしまった手塚に、けれど清城はほややんとした笑顔でその次の言葉を待つ。そんな穏やかな優しさにほっとしつつ、手塚は気を取り直して、尋ねたかったことを口に乗せた。

「越前の奴、可愛いですか?」

「ええ。とても」

 とてもそうは思えない、というニュアンスをびしばし込めたにも関わらず、清城は即答した。だけでなく、次の瞬間にはころころと笑い出す。

「そんなに、『信じられない』という表情をしないでちょうだいな。貴方は歳が近いから、気付きにくいのかもしれないけれど、あの子は感情をとても素直に表に出すから、見ていてとても可愛いわよ」

「…そうでしょうか」

 言いながら、手塚は、自覚はないながらも、自分は今きっと眉を思い切り顰めているのに違いないと思った。ティ・ポットに茶葉を入れた清城は、注意深くポットとカップの両方に熱湯を注ぎ込みながらうなずく。

「あの子、とても優しいいい子ではない? 貴方の役に立とうとして、必死なの。きっと、貴方の怪我を気に病んでいるのだわ。さっきの、わたくしを手伝いに来たのだって、本当のことを言えば、あの子がずいぶんと真剣になにか手伝いたいと言うからお願いしたのよ。貴方の気を引きたくて、仕方がないのだわ」

 かたんと銀の砂時計をひっくりかえして、清城は湯のポットを横に置く。思ってもみなかった事実に、手塚は呆然と清城を見つめていた。

「それだけ、貴方はみんなにとって重要な存在なのね。すべて、貴方の努力の賜物だわ。とても素晴らしいことね」

 清城のふんわりとした自然な口調は、けれど、この上なく柔らかく手塚の心に染み渡る。カップの湯を捨てて、砂時計の砂が落ちきると同時にティ・ポットを持ち上げ、ゆるく揺すってから紅茶を注ぐと、芳しいダージリンの香りが部屋中に広がって、まるで清城の言葉のように、ゆっくりと全身に染み渡る。

「さあ、どうぞ召し上がれ。今日のリラクゼーションは、まずはゆっくりお茶をいただくことから始めましょう。肩の力を抜いて、考えることを今だけはお止めなさいな」

 優雅な仕草で、清城がなにかを手塚の前に差し出す。見れば、それは美しいセピアのダージリン。カップの乗ったソーサーには、まぶされた砂糖がきらきらと光るショートブレッドが添えてある。

 柔らかな美貌の穏やかな笑顔と耳をくすぐるような落ち着いた声、澄んだ紅茶とその力強い香り、明るい日差しと冴えた空気。そのひとつひとつがあまりにも優しくて、手塚はカップを受け取ると、思い切って顔を上げ、真剣な眼差しを清城に向けた。

「先生。助けてほしいことがあるんです」

 言葉は、意外と簡単に紡ぐことができた。実家を離れて、『甘え』ではない『頼る』ということを知って、その言葉は信じられないほどするりと言えた。誰にでも言ったりなどしない。けれど、この人にならと思えたならば、言えない言葉ではなくなっていた。

 出会ってまだ3日目だけれど、清城の、すべてを知り、その上で何もかもを包み込んでしまうような、そんな大きな微笑は、手塚が信を寄せるには充分で。

「愛している人の気持ちを知るには、どうしたらいいですか……」

 手塚は、初めて、友人以外の人に恋愛相談をした。


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