11時近くになると、昼食の時間だと言って、清城は出て行った。さすがに、昼食も彼女の分までは用意されていない。自宅で食事を済ませて、午後にまた来ると言い置いて、清城はハイヒールの音も軽やかに、宿舎の廊下を去っていった。
一人残された手塚は、ベッドのヘッドレストにもたれかかると、眼鏡を外して瞳を閉じた。さっきまで受けていたフェイシャルマッサージの余韻が、想像以上に心地よい。
ちょうどよい温度の蒸気で顔を温められたのは初めてだったが、意外なほどに気持ちがよかった。マッサージをする清城の細い指はほのかに温かくて、程よい力強さで触れてくるその指遣いは痛くもなく、くすぐったくもなく、適度な刺激をもたらした。手塚が女性ではないことに配慮した、香料の少ないフェイスミルクも、清城らしい心配りが溢れていて。すべては強引に受けさせられたというのに、不思議と不快感はなかった。むしろ、受けてよかったという気さえする。
お茶と一緒に食べたショートブレッドのせいで、昼時だというのに、すこしも空腹を感じない。なにしろ、清城は食べ比べをしようと言って、イギリスの有名ブランド数社のショートブレッドの利き味に手塚をつきあわせたのだ。おかげで今は、食べきれないこと必定の昼食よりも、むしろ、心地よい余韻が残っているままで昼寝をしたい気持ちの方が強かった。
日当たりのいい窓際のベッドの上、ふかふかの枕に頭を預けると、手塚はくぁふ…とあくびをひとつ漏らして睡魔に意識を委ねた。
ノックをしても応えがなくて、片手に昼食のトレイを乗せたまま、越前はしばらく扉の前で考え込んでいた。
返事がないということは、おそらく眠っているのだろう。あの気高く高潔な人に、罷り間違えば居汚い印象さえ受ける朝寝は似合わない気がしたけれど、怪我をしていることを考えれば、無理のないことだと思えた。
眠っているのなら、起こしたくない。けれど、料理が冷めてしまわないうちに、作ったばかりで温かい食事を摂らせてあげたい。そもそも、眠っているところに無断で入ってしまっていいものなのか、そこからして悩みどころだ。
だが、出直すことはできれば避けたい。なにしろ、自分が行こうと言う大石を「大石副部長は、部長の代わりにみんなを監督してなきゃいけないでしょ」とやり込めて、強引にこの役を奪い取ってきたのだ。出直すということになれば、先に食事を終えている大石に役目を奪い返されることは目に見えていた。
「部長? 食事持ってきたから、入るよ」
意を決して、それでも一応、声をかけてから扉を開ける。戻って役目を奪われるよりは、入って怒られる方がまだいい。清城の持ち込んだ機材のおかげで雑然としている室内を見回すと、予想通り、ベッドで眠っている手塚が目に入った。
午前中、清城がいったいなにをしていたのか、同席しなかった越前には、予想もつかない。だが、それは確実に、手塚にとってよい影響を与えたものらしかった。朝までの、なにか悩み疲れたような冴えない表情はどこへやら、眠っている手塚はとても穏やかで、すっきりした表情をしている。
うっすらと開いている手塚の唇から、すぅすぅと寝息が零れる。清城の施術によるものなのか、それはほのかに紅く色づいて、ふっくらと柔らかそうに見えた。
越前は、音を立てないように、そうっとサイドテーブルに食事のトレイを置く。寝ている手塚を見たら、起こすなんてできなくなってしまっていた。あんまりにも、無防備に穏やかに眠っているから。
内心にこみ上げる衝動に突き動かされるままに、越前はベッドに手をつき、身を屈めると、手塚に口づけた。思っていたとおり、それは柔らかくて、でもしっとりとしていて、瑞々しい弾力で越前のそれを押し返す。口付けた感触が予想通りだったのに対して、それは想像以上の快感だった。
触れるだけのキスに目を覚まさない手塚に気を良くして、もう一度。今度は、ついばむように軽く吸い上げてみる。きゅ…と吸った唇を離すと、それはぷるんと震えて元に戻った。あり得ないくらい、可愛らしい。
けれど、吸い上げたのは、やはりやりすぎだった。越前が離れるのとほぼ同じタイミングで、手塚が目を開ける。普通に考えれば、起きてしまうのは当然だ。
眼鏡かけてない顔も可愛い…などと、越前がぼんやりと思っている間に、手塚の方は状況の把握ができたようだった。瞬時に顔に朱を上らせて、思い切り越前を突き飛ばしたのである。
「お…っ、おまえ! 越前っ! 何をした!?」
「キスだけど」
口元を庇うように押さえて詰問する手塚に、乾のベッドに転がった越前は起き上がりながら答えた。
「だって、食事持ってきたら、部長、寝てるんだもん。そういうのって、『据え膳』っていうんでしょ?」
「ち…、違う!」
「そう? 昼ご飯来るの判ってて、俺、今朝、昼にまた来るって言ってて、それでその時間に寝てるんだもん。計算したのかと思ったって、仕方なくない?」
「そんなことはない! どうして俺が、おまえが来るのをお膳立てして待っていなければならないんだ!?」
そう、手塚は、越前が「昼にまた来る」と言ったのをすっかり忘れていたのだ。誰が食事を持ってくるにせよ、自分が寝ていれば、起こさずにおいてくれるだろうと考えて、手塚は眠ったのである。
自分勝手と言えば確かにそうかもしれないし、甘えているのだと言われたら反論はできない。裏目に出た。冷たい言い方をするのなら、それだけのことなのだろう。けれど、手塚にしてみれば、大石以外の男に、そういう目的で触れられた。ショックを受けて当然の出来事だ。
それでも、感情的に怒鳴った自分を嫌悪した手塚は、ひとつ深呼吸をすると、努めて穏やかに…けれどきっぱりと告げた。
「おまえの顔は見たくない。出て行け」
「それは……」
「出て行けと言ったら、出て行け。今はおまえの声は聞きたくないし、顔も見たくない」
「部長」
「行けと言っている。弁解も謝罪も、今は聞きたくない。少なくとも、俺が冷静に話を聞けるようになるまでは、ここに来るな」
「………………………。……………わかったよ」
淡々と言い放つ手塚の、その声がかすかに震えていたことに、自分の気持ちで頭がいっぱいの越前は気付かなかった。ましてや、ドアが閉まるのとほぼ同時に、手塚の瞳から雫が転がり落ちたことなど。
「おチビ? 手塚はどうだった?」
「…………………」
食堂に戻った越前に、ご飯のおかわりをよそいながら、菊丸が声をかけた。聞いているのかいないのか、越前からの返事はなく、放たれる重たい雰囲気に、菊丸は訝しむ。しゃもじを受け皿におきながら、目線は越前から外せずにいると、越前は乱暴に席についた。そして、いつもの生意気さにさらに拍車がかかった無愛想さで、口を開く。
「後で部長のとこに食器取りに行くの、頼んでいいっすか?」
「越前?」
「いただきます」
不審がる周囲をことごとく無視して、越前は自分の分の昼食に箸をつけた。
「手塚、入るよ?」
昼休みも終わろうかという頃、軽いノックの後、入ってきたのは菊丸だった。
ベッドで布団を被って丸まっていた手塚は、のそりと起き上がると、菊丸の姿を探す。その瞳は、赤く潤んでいた。
「え…っ、ちょ……手塚!? どうしたんだよ?」
「菊丸………」
思ってもみなかった手塚の様子に、菊丸は慌てて手塚に駆け寄った。見れば、サイドテーブルには、昼食が手付かずのままで置いてある。
「昼飯、食わなかったの? なんで泣いてるんだよ? 俺でよかったら、話してよ手塚」
床に膝をつき、目線を手塚より低くして見上げると、手塚はなにかを堪えるかのようにぎゅっと目をつぶった。
「菊丸…。俺は……」
「手塚?」
言いたくない。認めたくない。けれど、誰かに聞いて欲しい。相反する感情が手塚の中で渦を巻いて、ただでさえ滑りのよくない口が、さらに動かない。まるで声が出なくなってしまったかのように、言いかけては止め、でもまた言葉を捜してしまう。
手塚の内向的な性格を知っている菊丸は、辛抱強く待った。こんな状態の手塚を急かしたところで、何の効果もないことは、一緒に住むようになって身に染みている。
手塚にもそんな菊丸の気遣いは伝わっていた。ここに来てくれたのが他でもない菊丸でよかったと思う。いつも優しさに甘えてばかりで、すまないと思いつつも、やはり嬉しい。
「俺は……」
菊丸の優しさに報いるためにも、と、手塚が何度目かの挑戦をしているときだった。
「あら、副部長さん。どうしたの、わたくしになにか御用?」
窓の外から、平和なソプラノが聞こえた。
昼食を終えて戻ってきた清城は、ちょうど、玄関に向かっているところだった。
「うらら先生」
普段、女性を下の名前で呼ぶことがほとんどない大石は、わずかに照れながら清城を呼び止める。問いかけるように首を傾げながら振り向いた清城は、大石の姿を認めるとふんわりと微笑んだ。
「あら、副部長さん。どうしたの、わたくしになにか御用?」
「ええ、ちょっと…。たいしたことじゃ、ないんですけど……」
歯切れの悪い大石に、清城は「なんなりとどうぞ」という微笑をむけた。だが、大石は目元を仄赤く染めたまま、次の句を告げないでいる。
「…そんなに大事なお話なの? じゃあ、どこか、落ち着ける場所に行く方がいいかしら?」
そんな大石を気遣って思案気に眉を寄せた清城に、大石は慌てて首を振った。
「いえ、ここで結構です。あの…、お耳を拝借してもいいですか」
「ええ、どうぞ」
どうしてもはっきりと口にする勇気を持てないでいる大石の要望に、清城は事もなく答えると、さらりと髪を耳にかけて、右耳を空けた。そこへ、大石は、礼を失しない程度に口を寄せる。
「実は……」
覗くつもりがあったわけではなかった。それでも、大石と清城という取り合わせが気になって、つい窓から見ていた手塚と菊丸は、大石が清城の頬に顔を寄せる光景をばっちりと目撃してしまった。
「……………………」
「……………………」
どちらからともなく、気まずい沈黙が漂う。どうしたらいいのかも判らないまま、なおも見ていると、照れた表情の大石が清城から離れ、清城はくすくすと笑っていた。その笑い方がやけに幸せそうに見えて、手塚も菊丸も、心が波立つ。
ただ単に、大石が他の誰かと話をしているだけなら、こんなに気になったりはしなかっただろう。だが、今の場合は、大石がずいぶんと清城を意識している。おまけに、清城は充分に〝美人〟と言っていい容貌だ。しかも、成熟した女性の魅力を備えた、申し分のない美女である。
ふたりとも、大石が浮気のできるような人間でないことはよく解っているつもりだった。だけでなく、手塚は清城とゆっくり話す時間を持っていた。知り合って間もないが、清城が人を裏切るようなことをするタイプとは思えない。
が、清城が滅多にいない美人だという事実を前にして、それでもその自信を保つことは、難しかった。
やがて、手塚がふいと窓から視線をそらした。
「いつまでも見るな。褒められた行為じゃない」
それは、窓から離れられない菊丸に言った言葉のようでいて、実は自分に言ったようにも聞こえた。
渋々と奥に入った菊丸が、手塚に目を向ける。すっかりそんな雰囲気ではなくなってしまったけれど、手塚の泣いていた理由がまだ気になっているのは確かだ。そして、今見た光景の意味も話し合いたかった。けれど。
「すまないが、独りにしてもらえないか? せっかく来てくれている清城先生には、申し訳ないが…。…できれば、乾にも部屋を移ってもらいたい。……わがままを言ってすまない」
それだけを言うと、手塚はふたたび布団を頭まで被り、人との接触を拒絶してしまったのだった。
「ああ! もう! 問題が発生するのは仕方ないよ、それは部活なんてものには付物だからねっ。だけど、なんでそれを解決するのが僕の仕事になるわけ!? 普通は部長や副部長の仕事だろ! ましてや、人間関係のこじれなんて、大石にうってつけの仕事じゃないか!」
午後の練習も始まって、ぎらぎらと照りつける太陽の下、レギュラーの勝ち抜き5ラリー対決を観戦しながら、一般部員がサーブ&ボレーの練習しているコートから飛んできた流れ球を打ち返して不二がわめいた。その様子は、常の不二らしくもなく乱暴で、優雅とは言いがたい。加えて、愚痴をわめくなど、さらに輪をかけて不二らしくもないことだが、手塚の『天の岩戸』と越前の荒み具合、そして菊丸の沈みっぷりを考えれば、それも無理のないことだと思える。
「仕方ないだろう、その問題を起こしているのが部長と副部長なんだから」
「しかも、主に部長の方ね」
取り成すような乾に、不二はふんっと鼻を鳴らす。たいていのことは面白がり、深刻なものには親身にもなっていた不二だったが、そのごたごたの処理を全て自分に任されたとなると、さすがに機嫌が最悪にもなろうと言うものだ。
「まあ、ほら。せっかくだから、職権乱用させてもらったらどうだ? もちろん、練習に支障が出ない程度じゃないとまずいだろうけどな。そのくらいの役得がなくちゃ、やってられないだろ」
せっせと収集したデータをノートに書きとめながら、乾が肩をすくめる。すると、「バカヤロー! 危ねぇだろっ!」と叫びながら流れ球を打ち返す桃城を眺めていた不二は弾かれたように乾を見た。
「………そっか。乾、たまにはいいこと言うね」
「〝たまに〟が余計だ」
「そっか、そだね。…今度、新作乾汁の試飲してあげるよ」
「………あまり褒められた気がしないな、それ」
くすりと笑った不二の言葉に、乾は鼻にしわを寄せた。
不二の不機嫌の理由は昼休み終了直後に起きた。突如竜崎女史に呼び出された不二は、明日の夕方まで大石が合宿所を離れることになったと聞かされたのだ。
「で、どうしてそれを僕に?」
「おまえに、大石の代理をやってもらおうと思ってね」
唐突かつ有無を言わせぬ様子の竜崎女史に、不二はわざと脅すような言葉をかけてみる。
「僕が? いいんですか、知りませんよ?」
「不二なら悪いようにはせんよ。そうだろう?」
が、それはさらりと流されてしまった。さすがは竜崎女史と言うべきか。
斯くして、不二は臨時部長に任命されたのである。
コートでは、現在、海堂VS越前のゲームが展開している。校内ランキング戦ではいつも越前の方が勝っているが、今回は海堂の方が押していた。
「しかし、大石副部長は、なんだって急に別行動になったんです? どこ行ってるんすか?」
隣に来た桃城に尋ねられた不二は、答えられずに肩をすくめた。
「知ってたら、僕もこんなに愚痴ってないよ」
「英二先輩は、知ってるんすかね?」
「さあ? …聞いてみる?」
質問を連発する桃城に、自分の好奇心も煽られて、不二は「おーい英二!」とコートの反対側にいる菊丸を呼ぶ。
「……それにしても、越前はマズいな。プレイが荒れすぎだ。早めに切り上げさせた方がいいかもしれない」
トントン、とペンの先でノートを叩きながら、乾がつぶやいた。聞きつけた桃城が顔をしかめてカリカリと頭を掻く。
「やっぱ、乾先輩も思いました? 俺も、なんか気になって、さっきも言ったんすけどね……もう、耳に入ってないんすよ。ゲームに熱中しすぎて他が見えなくなってることは今までもよくあったけど、今日のは他を見ないためにテニスしてるみたいな感じなんで、なんか…ほっといたらマズいような気がするんっすけど……」
「たぶんそれ、手塚と関係ある。…と思う」
横から割り込んできた声に、3人が振り向く。そこには、桃城の話を聞いて泣き出しそうになってしまった菊丸が途方にくれて立っていた。
「英二?」
「昼飯の食器取りに行ったとき、手塚の様子がおかしかった。その時点で手塚と最後に顔を合わせてるのは、昼飯持ってったおチビだ。絶対、おチビがなにか知ってる」
「昼飯、手塚は食べてないんだったっな」
乾の言葉に、菊丸はこくんと頷く。
「大石先輩は知ってるんすか、手塚部長の様子がおかしいって?」
「知らないと思う。俺が話す前に大石に明日の夕方まで離れるって言われて、驚いてる間に行っちゃったから」
桃城の問いに、菊丸はしょんぼりと答える。
「…英二も知らなかったの、大石が一時離脱するって?」
「うん。…ていうより、行き先に驚いた」
「どこ?」
「たぶん、うらら先生ん家」
不二の核心を突いた質問に、菊丸の表情はますます暗くなり、乾と桃城は絶句して顔を見合わせた。
「大石が、うらら先生の家に、何の用だって?」
「教えてくんなかった。うらら先生ん家に行くってのだって、直接聞いたわけじゃないから」
「どういうことっすか?」
「俺と話してる廊下の向こうで、うらら先生が大石を待ってるのが見えた…」
もちろん、菊丸が大石の一時離脱を不安がっている理由は、それだけではない。昼間見てしまったあの光景がなければ、「なんか用でもあるんだろ」と構えていられたことだろう。それだけ、あの光景は強い衝撃を与えたということで……。
「とりあえず、今は練習中だ。この話はいったん止めよう」
菊丸の表情がどんどん沈んでいくのを見て、乾が不二を見る。不二はうなずくと、意味ありげに微笑んだ。
「そうだね、仕事もできたことだし」
夕食後、レギュラーの新しい部屋割りが発表された。