バレンタインもいよいよ明日、という昼休みの教室。昼食を終えて席に戻った菊丸が、何気なく隣の不二のほうを見ると、不二はちょうど、誰でも知っている情報誌を読んでいるところだった。
「あれぇ、不二。珍しいじゃん、そんなの読んでるなんて。なんか、面白い特集でも載ってる?」
不二が学校で雑誌を読んでいるなんて、めったにないことだったので、菊丸は椅子に座ると、不二の手元を覗き込んだ。
「英二、ハズレ。お目当ては特集じゃないんだ。今度の日曜、タカと映画見に行こうって話になって、それで、どれが面白そうかチェックしてるとこ。普段はあんまり関心払ってないからさ、いざ行くとなると、こんなのでチェックしないと、どれが面白そうなのかも知らなくて」
「ふぅん? デートも大変なんだ」
「ま、準備するのも、それはそれで楽しいんだけどね。英二のとこみたく、デートしなくても会えるっていうのはやっぱり羨ましいよ」
「一緒にいすぎて、新鮮さはないけどね」
そう言いながら、でも菊丸はまんざらでもなさそうに笑った。不二はそんな様子を見て、くすりと笑みをこぼすと、ページをめくる。
「あっ、不二、待った! さっきのページ、見せて」
「えっ、なに、どこ英二?」
目的もなくぺらぺらとページを繰っていると、突然菊丸が叫んだ。不二が戸惑いながら逆戻りしていくと、菊丸は目当てのページで不二の手をつかんで止める。
「ちょ…っ、と、ここ!」
「チョコレート特集? …ああ、そういえば、明日はバレンタインなんだったっけ」
菊丸の剣幕に何事かと心配した不二は、菊丸の見たかったものがバレンタイン向け新商品の紹介のページだったことに、少しだけほっとした。
「英二、大石に贈るの?」
軽い気持ちで訊いてみると、菊丸は思案気に眉を寄せた。
「ん~…。ほんとは贈りたいんだけど、大石、学校でたくさんもらってくるし……。俺も、去年はすごい数もらったから、たぶん今年もそうなるだろうし……。手塚も、人力じゃ持って帰れない数もらうって話だし……。今年は卒業しちゃうから、もっと多くなるかもって、乾が言ってたし……。そうなると、チョコレートはいらないだろうなぁって思うけど、俺、バレンタインに大石に何か贈りたいんだよな……。去年は、バレンタインどころじゃなくて贈れなかったから……。正直、どうしようか、迷ってるとこ。贈るなら、俺と手塚と、ふたりで用意しないわけにはいかないから、手塚とも相談しなくちゃいけないし。でも手塚、バレンタインにいい思い出がないのか、『バレンタイン』って聞くといい顔しないから、話しづらくって……。でも、もう明日なんだよな。迷ってないで、決めなくちゃ間に合わないのも、解ってはいるんだけど……」
「つまり、贈りたいんだね。…いいんじゃない、贈ったら? 大石だって、顔どころか名前さえ知らない女の子からもらうより、英二からもらう方がずっと嬉しいだろうしさ」
「俺だって、名前も知らない子からもらうのは、嬉しいよりも戸惑うよ。不二だってそうだろ」
「まぁね。女の子たちからしてみれば、こんなきっかけでもないと知ってもらえないと思ってるんだろうけど。……で、英二。どうするか決まったなら、今日の放課後、ウチに寄ってかない? 姉さんがいるから、チョコやケーキの作り方、聞けると思うよ?」
「………………………………………どうするかは決まってないけど、とりあえず行ってみる」
うむむ…と悩みながらも、菊丸がそう答えると、不二はにっこりと微笑った。
「うん、いいよ。じゃ、みんなで行こ」
みんな…って、誰と誰?
さりげなく脳裏をよぎったそんな疑問をずっと抱えていた菊丸は、昇降口で待っていた長身を見て納得した。
もう1人の参加者、手塚は、革の学生カバンを小脇に挟んで、扉のところに佇んでいた。
「手塚、学生カバン似合うね」
めったなことでは見られない、学生カバンを持つ手塚に、不二がくすくす笑いながら声をかける。
「……。別に、似合うかどうかで持つものじゃないと思うが」
「うん、そうだけど。…だって、部活があった頃はみんな、問答無用でテニスバッグだったじゃない? 部活引退して、学生カバンで登校するようになって、そしたら乾が、いっそ見事なくらいに学生カバンが似合わなくってさ。向き不向きって、カバンにもあるんだなぁと思って、面白かったよ」
しゃべりながらも、靴を履き替えて、校舎を出る。不二はともかく、夕飯の支度のある菊丸は、あまり遅くなれない。大石には、不二の家に寄っていくと告げてはあるけれど、それにしたって、限度はある。節約できる時間は、節約するに越したことはない。
「そういえば、今日はどこに行くんだ?」
肩を並べて正門を出たところで、手塚がおもむろに尋ねた。どうやら、なにも知らされずに寄り道だけ承諾させられたらしい。相変わらず、不二の手塚を手玉に取る手腕は賞賛に値する。
「今日は、不二の家にお邪魔するんだよん。不二のお姉さんに、バレンタインのお菓子の作り方を聞きに行くんだ」
「バ…、バレンタインの……?」
「なに、手塚? バレンタイン、そんなに嫌い?」
『バレンタイン』と聞いた途端に表情が強張った手塚に、不二がさりげなく訊ねる。だが、その不二のさりげなさを打ち消すかのような深刻さで、手塚はうなずいた。
「毎年、誕生日とバレンタインは、ろくな思い出がない。特に、忘れもしない、小学校6年のとき。どういった経緯でかは知らないが、俺に恋人がいるという噂が立って、バレンタインが近づくにつれて女子生徒がどんどん殺気立っていってな。当日には、俺の家の前で、チョコレートを持って集まっていた何人かが、『おまえが手塚の恋人か』とつかみ合いの喧嘩を始めたんだ。原因は俺かもしれなくても、俺には直接の関係はないことだし、かと言って知らない振りはできないしな。ご近所の迷惑にはなるし、お爺様はものすごく怒るしで、あれより酷い経験は他にない。バレンタインなぞ、なくなってしまえばいいとどれだけ思ったことか」
「……うげ。俺より酷いな、それ」
「さすがに僕も、そこまでの経験はないかも。移動教室から戻ってみたら、カバンがチョコで溢れてたとか、そのくらいならあるけど」
「そうそう。下駄箱とか、1個取ったら雪崩起こしそうなくらい、詰め込んであるんだよな。あれは本気で困る」
「『返事ください』とかって、電話番号書いてあるのも困るね。そんなの、いちいち応えてなんていられないよ」
「そうそう。直接だったら、断る余地もあるんだけどさ。みんな、そうなるの見越してるのか、いないときに勝手に置いてくんだよな。勝手に置いてったものに、返事する義理なんかないよ」
「でも、そう言うと、女の子って逆ギレするんだよね。『せっかくのチョコなのに、酷い!』とかって。僕らにはプライバシーも人格も、認められてないみたいな言われ方だよね。そんなこと言うのは、自分のマナーをもっと磨いてからにしてほしいよ」
「俺、それで泣かれたことある~! そんな子、可愛いともなんとも思えないって。同情でも友達でも、関わり合いなんてごめんだね」
「とりあえず、僕に覚えられたいんなら、バレンタインにチョコを持ってこないでほしい」
「それ賛成」
よほどうんざりしきっているのか、不二と菊丸のバレンタインへの文句は、これでもかと出てくる。最初はまったくだと思いながら聞いていた手塚でさえもがうんざりしてきた頃、ようやく不二の家に着いた。
居間で姉、由美子を二人に紹介した不二は、さっそく本題に入った。
「なぁに? バレンタイン用のお菓子の作り方? ……いいけど、何の連絡もなしにいきなりじゃ、材料だってそろってないわよ」
用件を聞かされた由美子は、なぜ男である彼らがバレンタインのお菓子を作ろうとするのかとも聞かずに、あっさりとそう答えた。「なんで?」と訊かれたどうしようかとどきどきしていた菊丸と手塚は、拍子抜けして由美子をしげしげと見つめる。不二が、由美子が余計なことを訊こうとしだす前にと、横から由美子を急き立てた。
「僕らには僕らの事情があるんだよ。材料なら、姉さんが自分用に用意してたのがあるでしょ? 僕が後で買い物に行ってくるから、教えてよ」
「わかったわよ。ただし、作れるのはガトー・ショコラになっちゃうけど、いい?」
「もちろんです。突然、すみません。よろしくお願いします」
前半のため息混じりの返答は不二に、後半の人当たりのいい問いかけは、菊丸と手塚に発されたものだ。当然、菊丸にも手塚にも、否やを唱える理由はない。こくこくとうなずく二人に、由美子は気安く了承して、台所に向かった。
「これも、慣れないと湯煎が難しいのだけどね。特別に、初心者向けの裏技を教えてあげるわ。もし明日まで待ってくれるなら、代理でわたしが作っておいてあげられるけど」
手馴れた様子で材料や器具を用意しながら、由美子はチョコレートを刻む菊丸と小麦粉をふるう手塚に話し掛ける。
「そんな…、そこまでのご迷惑は」
「迷惑ではないのよ。お菓子を作るのは、わたしのいちばんの趣味だし。ただ、問題があるとすれば、夜のうちに周助が勝手に文字入れしていそうなことくらいかしらね」
それはなによりの問題だ。
「いえ、自分たちで作りたいので」
由美子のろくでもない予言に、菊丸と手塚は即答した。本音半分、方便半分のそれを聞いてけらけらと笑っている辺り、由美子も自分の弟の性格はよく理解しているらしい。ついでに、解っていての先の発言だったらしい。やはり、不二の姉だけのことはある人物だ。
「チョコレート、刻めました」
「小麦粉も、2回ふるいました」
「オッケー。じゃ、バターとお砂糖とチョコレート、ボウルに入れて」
由美子の指示に従って、ふたりが用意された耐熱ガラスのボウルに材料を入れていると、横から見ていた不二がふと訊ねた。
「姉さん、湯煎のためのお湯は用意しないの?」
「ええ、いらないわよ。初心者向け、って言ったでしょ?」
言いながら、由美子はそのボウルを当然のように自然なしぐさで電子レンジにかけた。
「「「………………………………………………………………………………………」」」
呆然と見守る3人の前で、チーン! とレンジが鳴る。ミトンをしてボウルを取り出した由美子は、整えるように溶けた材料をゴムベラで混ぜると、それを見せて言った。
「ね、湯煎したのと同じ状態になったでしょ?」
………………確かに、そうだけど。…………こういうのは、反則というのでは?
そんな疑問が浮かんだが、それを口に出せる者はこの場にただの一人もいなかった。
その後は通常どおりの手順で、オーブンで焼き上げる。
仕上げに粉砂糖を振り掛ければ完成だが、それはよく冷ましてからでないとできないから、この日はペーパーナプキンで包んで紙袋に入れ、手塚と菊丸はケーキが冷めるのを待たずに不二邸を辞した。
不二のグレイトな性格は、由美子のアバウトな性格の賜物かもしれない、と、帰る道すがら、納得した二人だった。
翌日のバレンタイン。
やはり、食べきれないどころか持ち帰ることさえままならない数のチョコレートをもらって、けれど大石はまたとなく上機嫌だった。朝、こっそり耳打ちされた「渡したいものがあるから、今日は早く帰ってきてね」という菊丸の言葉と、その後ろで頬を赤くしてそっぽを向いている手塚の姿は、それほどの威力を発揮したのである。
その日、お土産にと、奮発した大石は、普段なら買わない値段のダージリンを買って帰った。