手塚君の告白

 カーテンを通してもなお眩しい光に起こされて、手塚は重たいまぶたを持ち上げた。

 確認した時計の針は、いつも起きる時間よりほんのわずかだけ―――そう、本当にたった10分のことだが―――早い。

 けれど、今日のこれは、早起きが染みついていると言うよりは、きっと、眠りが浅かっただけなのだろう。起きたばかりだというのに、すこしも頭がすっきりしていないどころか、むしろ疲れが増したような感さえある。

 無理やりにでも気持ちを晴らすために眉間をきつくつまむと、サイドテーブルの眼鏡を取り、窓を開けて朝の空気を部屋に入れる。

 ここのところ、朝が来るたびに泣きたい気持ちに襲われつづけている。朝が来れば、部活に出なければならないから。部活に出れば、彼がいるから。

 具体的にいつからと問われれば、それは、忘れもしない、肘の故障が決定的なものになってしまったあの日からだ。

 それは、自棄になりかけた自分を彼が救ってくれた日でもある。

 思考がそこに及んだだけで、つきんと胸が痛んだ。知らず、身支度を整える手が止まる。

 優しい微笑みと力強い言葉に、どれだけ癒され、支えられたのだろう? 周囲に故障を隠しながら、独りで闘って季節はひとつ過ぎたけれど、たった一度きりの記憶はより鮮明になって、手塚を癒し、支え、深く傷つける。

 甘い疼きをモルヒネに、焦がれる痛みで斬りつけて。

 自分にできるのは、その痛みに、ただ独りで耐えるだけ。

『きっと大丈夫だから。俺も頑張るから、手塚も頑張れ』

 優しいのに頼もしくて、柔らかいのに強くて、あれから月は3度巡った今でも、すぐ隣に彼本人が立って自分を見つめているかのようだ。

 振り切るように、噛みしめるように、目を閉じて、深呼吸を一つ。止まっていた手の動きを再開させる。

「おまえが、頑張っているから……」

 昨夜のうちに中身を整えておいたテニスバッグを取り上げ、持ち手をぎゅっと握る。

「だから、俺も頑張る」

 泣きたい気持ちを部屋に残して、手塚は完璧なテニス部長の表情でドアを閉めた。



「おはよう、手塚!」

 手塚が部室に着くのとほぼ同時に、大石が小走りにやってきた。遠目に手塚の姿を見止めて、急いで来たらしい。何がそんなに嬉しいのか、訊きたくなるほどの上機嫌で。そんな大石に、手塚はぶっきらぼうに挨拶を返すと、鍵を開けた大石に続いて部室に入る。

「……桃のヤツ、またウェア持って帰るの忘れたな」

 部室内の澱んだ臭気に顔をしかめると、手際よく窓を開けて朝練の支度をはじめる。そんな大石を眺めながら、手塚は居た堪れない気持ちをポーカーフェイスの下に押し込めた。

 なにも気の回らない自分と、〝青学の母〟と言われるほど気配りの利く大石。テニスの腕前がいかに比類なきものだろうと、人間としての価値は、きっと大石の足元にも及ぶまい。そう判ってしまうから、そしてなによりも、彼はそんな自分を笑って許して、受け入れてくれるから、だから二人きりになるのは苦しい。

 大石が向けてくれている優しさに、自分は報いることができているのだろうか? 事ある毎に去来する自問。答はいつだって『否』だ。

 人を和ませる微笑も、人を癒す言葉も、なにひとつ持たない自分。なにか、ひとつでも彼のためになれたなら、ここまで思いもしなかったかもしれないけれど……、現実はそうではない。思い知らされるたびに、心は聞こえない悲鳴をあげて、見えない涙を流す。

「手塚?」

 ほら、今も。

「どうかしたのか? 肘が痛むのか?」

 心配そうな表情を見せるその優しさが、鋭い刃となって斬りつける。慈悲なく、容赦なく。

「いや…、大丈夫だ。少し、考え事をしていた。気にするな」

 そんな痛みを抱いていることは、けれど、誰にも秘密で。

「そろそろ時間だな。遅れて来た奴は全員30周だ」

 部員たちがいつも来る時間が来たことを確認して、入り口に目を向ける。

 大石が、手塚が普段通りであることに、こっそりと安堵のため息をついたことも気付かないまま。

 大石が、手塚のことになると人が変わったように気にかけている、その事実に気付かないまま。




 いつになく真剣な表情の菊丸が手塚を呼び出したのは、桃の花も散りかけたある日のことだった。

「手塚は、大石から、何か聞いてない?」

 高台の公園で、ブランコの柵に腰掛けた菊丸の見上げる目は、手塚が初めて見る途方に暮れた目だった。

「大石が、最近ずいぶん悩んでるみたいなんだ。俺が声かけても、なかなか気付かないくらい、いつも考え込んでる。でも、俺が聞いても、教えてくれなくて……。だから、手塚なら何か知ってるかな、と思って……」

 手の中のウーロン茶の缶に視線を落として言葉を継ぐ菊丸の様子は、意気消沈した仔猫そのもので。思いがけない呼び出しに内心大いに戸惑っていた手塚は、なぜ特別に親しいというわけでもない自分が呼び出されたのか、その理由に得心が行って頷いた。

 その気配を感じ取った菊丸が、顔を上げる。

「手塚、やっぱり何か知ってるの? 知ってるなら教えて。誰にも言わないし、大石にも手塚から聞いたなんて言わない、絶対秘密にするよ。俺、大石の力になりたいんだ」

「あ……、いや。それは……」

 おそらくそれは自分の怪我のことだろうと言いかけて、その先を濁す。知らず、目が泳ぎ、視線を菊丸から外していた。

 言えなかった。ペアのパートナーを案じて気を揉んで、思案の挙句に自分に相談してきた菊丸には。その悩みの原因が、他ならぬ自分だとは。

「………そんなに言えないことなのかよ? どうしても、教えてもらえない?」

 手塚が知っていることに確信を持った菊丸が、なんとか教えてはもらえないかと畳み掛ける。だが、手塚にはどうしても、自分のせいだと言うことができなかった。

 言ってしまえば、もうこれからは大石の支えを得られなくなるかもしれない。テニスをできなくなるかもしれない不安と戦い続ける手塚に、新たな不安を抱えることはとてもできなかった。

 なによりも、大石と秘密を二人だけで共有していられる心地よい時間を失ってしまうことに、耐えられそうもなかった。大石の特別は自分ではなく菊丸だと、知ってしまっていたから!

 深呼吸を数回、まだ冷たい3月の空気を肺に入れる。ふと見ると、盛りを過ぎた桃の花が、かろうじてまだ花の形を保っていた。そして、縋るように手塚の答えを待つ菊丸の姿。

 唐突に、手塚は自分が間違ったことをしていると思った。菊丸も自分も、大石を想っていることに変わりはないかもしれないけれど、菊丸は大石を案じて今ここにいて、自分は利己的理由で菊丸の求めに応じない。菊丸のまっすぐな目が、エゴイスティックな自分を断罪しようとしている気がした。

「…………すこし、時間をくれるか? 明日か…明後日か。近いうちに、何か手を打つから」

 それでも、ようやく言えたのはこれだけだった。菊丸の相談の答えになっていないことは百も承知だ。質問の意図が、手塚に状況の打開を期待しているのではないことも、解っている。けれど、今はこれだけしか言えなかった。自分の気持ちにけじめをつけなければならない時が来たと、その事実を受け入れるだけで精一杯だったから。

「……………解った。よろしくな、手塚」

 菊丸から返ってきたのは、菊丸の精一杯の信頼の言葉だった。



 深夜、寝静まった家族に遠慮するかのように、静かにペンを走らせる。

 白い便箋はあっという間に文字で埋まり、それを読み返した手塚はため息と共に首を振ると、それを丸めて捨てた。

 思案するように虚空を見つめること数秒、方針が決まったのか、再びペンを取ると新しい便箋を埋めていく。

 ようやく納得のいくものが書きあがった頃、時計はいつもの睡眠時間よりも3時間近く遅い時間を指していた。




「大石。これを…読んでくれないか……」

 翌日の放課後、二人きりの帰り道。思いつめた表情で手塚が差し出したのは、一通の封筒だった。おそらくは、手塚の手による手紙が封入されている。

「なんだ、改まって? ありがとう、大事に読ませてもらうよ。……今、ここでの方がいいか?」

 思いもよらないものを差し出されて、大石は一瞬面食らった表情を見せたが、すぐに微笑を浮かべるとしっかりと受け取った。どんな内容だか少しも想像がつかなくて、読む時機を訊ねると、手塚はゆっくりと首を振る。

 地のしっかりした和紙の封筒は、まるで大人が改まった書面をやり取りするときに使うような、とても格式張った印象のもの。手塚が自分で持っているものにしては堅苦しすぎるが、手塚がこれに文字を綴る様は想像に難くない。

「いや。家に帰ってからにしてほしい。……いや……別に、読まなくてもいい。返事が欲しくて書いた内容ではないし……もっと言うなら、受け取ってくれたならそれだけで、見えないところで破り捨ててくれてもいいとさえ思っている…。そういう手紙だ」

 手塚の目は、大石を見ているようでいて、見ていなかった。その網膜に映っているのは確かに大石。だが、脳の認識している映像は、明らかに別のもの。そういう目だった。

「ただ、それを渡さないと、俺が先に進めない……。…ただ、それだけなんだ。すまない」

 時期を過ぎた桃の枝と、盛りにはまだ早い桜の枝を、春の風が揺らし吹き抜ける。

「今までのこと、幸せだったと思っている。俺はもう1人でも大丈夫だから、お前は何も心配しなくていい。余計なことは考えないで、菊丸を第一に優先するといい」

 前髪を乱され、制服をはためかせて風の中に立つ手塚は、春の風にさらされる満開の桜のように、美しく儚く見えた。



 ここからは1人で帰るという手塚の背を見送って、大石は1人残った道端で手紙の封を切った。汚くはない、けれど文字を書き慣れた者特有の崩れがある見慣れた手。

 逸る気持ちを無理に抑えて、ゆっくりと文面を追う。綴られていたのは、初めて知る手塚の本心。自分をさらけ出すことを極度に避ける手塚にとっては、きっと、一生誰にも言うつもりはなかったに違いない心。けれど、どんな強敵と試合をするときでさえ必要にはならなかったほどの勇気を振り絞ってでも、伝えずにはいられなかったのだろう心。一文字一文字、噛みしめるように読み進めていくことが、何よりの礼儀のような気がした。

 丹念に読み終えた内容を、もう一度ざっと目を通して確認すると、元通りにたたみ直して封筒に収める。それを胸ポケットにしまうと、大石は携帯電話を取り出した。プッシュするのは、どれよりも馴染んだ短縮番号。

 何回もコールしないうちに、相手が出る。

「…英二?」

 発した声は、自分が思う以上に弱々しかったのに違いない。訝しげに名を呼ぶ、誰より親しいその存在に、大石は用件を告げた。

「話があるんだ。今から、いいかな…?」

 『今から、いいかな…?』それは、大石が菊丸を特別な意味で誘うときの常套句。今の大石の声音に、その認識が当てはまるとは思えなかったけれど。

 内容はここでははぐらかして、電話を切る。寄り道をしていた菊丸が家に戻るのと、自分がまっすぐ帰るのと、家に着くのは大体同じくらいだろう。どうしても、今日のうちに結論を出したい話があった。

 パネル照明の切れたディスプレイを見つめる大石を、手塚の前髪を揺らしたのと同じ風が追い越した。




 翌朝。

 軽い音を立てて、門扉が閉められる。

 自宅を出た手塚が最初に目にしたのは、どう見ても自分を待っていたのに違いない副部長の姿だった。

「……………………。大石」

「おはよう、手塚」

 咽喉許に刃を突きつけられたかのように表情を強張らせる手塚に、大石はさわやかな微笑を浮かべる。

「渡したいものがあって、待ってたんだ」

 凍り付いてしまったように動かない手塚に、大石は屈託なく歩み寄る。胸ポケットから取り出したのは、シンプルな真っ白い洋封筒。

「手塚の手紙、何度も読んだよ。俺なりに返事を書いてきたから…読んでくれるか?」

 差し出されたそれを、けれど、手塚は受け取ることができなかった。金縛りにあったみたいに、身体が動かない。差し出した封筒を引っ込めることもせずに待つ大石に応えなくてはと、己を叱咤しながら腕を上げようとすると、みっともないほどに震えていた。

「この返事は、いつでもいいから。手紙でも、電話でも、何かのついでに直接でもいいから。だから、きっと聞かせて欲しい。これが俺の、嘘偽りない気持ちだから」

 大石の声に動かされるようにして、どうにかこうにか、手塚の手が封筒を受け取る。自分では止められないほどに震えていることが、手にした封筒の小刻みな動きで判った。

 知りたかった答。知りたくない事実。同一のものであるそれは、今、手塚の目の前に明確な形で用意されている。

「それじゃ、俺は先に行ってるよ。今日は、少し早く開けないといけないんだ」

 手紙の内容が気になって仕方のない手塚に気を使って、大石はそう言うとゆっくりと歩き出した。部室を早めに開けなければならないなんて、手塚はそんな話は知らなかったが、それが大石のこの場を立ち去るための方便だと気付く余裕はなくて。

 怯える指で取り出した便箋には、大石らしい整った読みやすい文字。美辞麗句のひとつもなく、ただ簡潔に書いてあった言葉に、手塚の目から雫がひとつ転がり落ちた。


 手塚のことを、誰にも負けないくらい大切に想っている。
 手塚さえよければ、一緒に暮らそう。

 何度読み返しても、その言葉は変わることなくそこにある。

 便箋を丁寧にたたみ、ぐいと拳で涙を拭うと、手塚は猛然と走り出した。ゆっくりと歩く副部長の姿を捕捉することは、鍛え上げた足には雑作もないこと。

 追ってくる足音に気付いた大石が振り返るのとほぼ同時に、手塚は勢いよく大石に抱きついた。

「て…っ、手塚!?」

 驚きながらも、しっかりと抱きとめてくれる腕が、嬉しかった。




 手塚が、実家から少し離れた一戸建てに居を移すのは、それから数日経った週末のこと。

 手塚を迎え入れる準備を完璧に済ませて待っていた大石と菊丸が家の鍵と一緒に渡してくれたのは、飾り気のないベロアの箱に入った一本のイニシャル入りリングだった。


Page Top